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【異聞】「築地明石町」〜てるてる坊主パーカーの夜更け〜

ひゅっと、風が吹いた。
特別展示室のガラスがガタガタと揺れる。
夜でも灯ったままの展示灯がふっと消え、代わりに展示されている掛け軸がぼぉっと光りだす。朝霧のような淡い柔らかな光だ。
再び展示灯がついた時、掛け軸は消えていた。
1975年、鏑木清方が亡くなってから3年後、サントリー美術館で回顧展が開かれていた。
その時の展示を最後に、名品「築地明石町」は44年間、姿を消すことになる。

鏑木清方作「築地明石町」

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美術館の自動扉をすり抜け、下駄の音も軽やかに、江木ませ子※は夜の赤坂へ飛び出した。
※江木ませ子 「築地明石町」のモデル。清方の妻の友人
少し寒い。
羽織の前を合わせ、辺りを見回す。
ここはどこだろう。
見覚えがない。
ガラス張りの高いビルがある。
行き交う人は見たことのない洋装だ。
ませ子は左手の薬指の指輪をくりくり回して外すと、帯にしまった。
通りの先に目を凝らすと、赤い塔が見えた。先端が尖り、光っていて洒落ている。
ませ子そちらへ向かって歩き出した。

六本木の交差点まで歩いて、思わず立ち止まった
道路の上に道路が通っている。
見たことのない光景を、ぽっーと見上げていたら、後ろからぶつかられた。思わずよろけたませ子の脇を、スーツの男性が舌打ちしながら通り過ぎていく。
「ちょっと謝んなよ」
信号待ちで隣りにいた女性が声をあげた。
20代くらいだろうか。肩甲骨あたりまで伸ばされた髪は金色でカールしている。
ませ子にぶつかった男性はチラッと女性を振り返ったが、無言で去って行った。その後ろ姿を少し睨んだあと、女性はませ子に声を掛けた。
「大丈夫ですか?」
「ええ。ありがとう」
女性と目を合わせると、見上げる恰好になった。
ませ子は150センチほどだが、女性は10センチほど高い。この女性だけではない。ここにいる女性は皆、背が高い。髪の色も身長も、明石町でよく見かけた外国の人のようだ。
「あの、お聞きしたいことがあるのですが」
「はい?」
信号の方へ向き直っていた女性が怪訝そうにこちらを見る。
ませ子はもう一度あたりを見回した。
街灯の形、建物から放たれる光、硬い地面、聞きなれない言葉。金色の髪。道の上に道のある風景。ここはどこだ。
ませ子の問いに、女性は一瞬虚をつかれた表情をすると笑った。
「え?それ、なんかのゲームですか?」
「いえ、そうではなくて…ここは、日本でしょうか?」
女性は笑いを収めると、一歩引いて、ませ子の姿をまじまじ眺めた。
「素敵なお召し物ですね」
夜会帰りで寒くなるだろと、単(ひとえ)に羽織をひっかけてきただけだ。ませ子は小さく首を振った。
「ここは日本ですよ。お姉さんこそ、どこから来たんですか?」
女性はませ子に近づくと、顔を近づけ小声で言った。信号が変わり、どっと、周りの人が動き出す。その流れの中で、2人は向き合った。どこから来た?どこからだ?
築地明石町、外国人居留地。定男※さん…断片的に覚えていることはある。しかしそれらは遠い霞の向こうにあるようだった。
※江木定男 ませ子の夫
「あそこに見える塔は何でしょう?」
「あぁ、東京タワーですね。スカイツリーが出来てからアレだけど、わたしは東京タワーの方が好きだな、お姉さんはどう?」
スカイツリーが何かわからない。けれどあの塔の朱色はガス灯を思い出す。ませ子は頷いた。
「気が合いますね、わたし達」
女性はふふっと笑った。
「わたし、綾っていいます。お姉さんは?」
アヤ、遊女のような名だ。それがここでは普通なのか、それともこの女性がそうなのか、判断がつかなかった。
ませ子は自分の名前を言いかけて、ふと思いついて言った。
「千早(ちはや)です」
「可愛い名前。もしかして千早さんは東京初めて?東京タワーまで、案内しましょうか?」

慣れぬ硬い地面のせいか、それとも知らぬ土地で足先にも力が入っていたか、鼻緒を挟んだ足指が痛んだ。普段はそんなことないのに。綾は歩幅を合わせてくれているが、難儀だろう。わたし自身も人にどんどん追い抜かされるのは気分が良いものではないし、邪魔になっているようで気が引ける。
「足、痛みます?」
引きずっていたつもりはないが、綾はませ子の微かな歩き方の変化を見逃さなかった。ここで取り繕ってもしかたないだろう。そう思い、ませ子は頭を下げた。
「すみません、ご迷惑おかけして…」
申し訳なくて俯いたませ子の手を取ると綾は歩き出した。
「ね、着物に下駄も素敵だけど、ちょっとイメチェンしてみない?」

連れてこられたのは、店名がアルファベットの履物屋だった。
「着物には似合わないだろうけど、スニーカーにしません?わたし的にはNIKEがオススメです」
「スニーカー?NIKE?」
「NIKEも知らないの?もう、千早さん、いつの時代の人よ」
綾は笑って言ったが、ませ子はドキリとした。
いつの時代?
確かにここはわたしがいた時代ではない。
わたしはここにいる人間じゃない。
ではどこに行けばいい?
どうしてここにいる?
そんな逡巡をよそに、綾はませ子をスニーカーコーナーへ引っ張って行った。

初めて履いたスニーカーは、正直、足が窮屈だった。
立ち上がると、下駄より安定感はあるが、地面にベタリと足がついている感覚が気持ち悪い。何より、着物と合ってない気がする。
「あの、わたし、やっぱりいいです」
試し履き用の椅子に座ったまま、ませ子は言った。そっか、と短く答えると、綾はあったかな…と肩から下げていた革のバッグを探り始めた。
やがて、小さな紙切れのようなものを取り出すと、ませ子の足もとにしゃがんだ。スニーカーを脱がすと、痛むませ子の右足の親指と人差し指をぎゅいとつかんで広げた。
「なっ!」
突然のことにませ子は短く悲鳴をあげた。
「これ貼っておけば少しは違うから。千早さんの時代には、絆創膏なんてなかったでしょう?」
私の時代には、なかった?
今、そう言ったか?
ませ子は綾を見つめた。綾はしゃがんでいるので、椅子に座っているませ子とまっすぐ視線が合った。
「なんてね。ね、千早さん、ネイルはしないの?裸足に下駄ならネイルすればいいのに」
そう言って綾は自分の手の爪を見せた。一見普通の爪に見えるが近くで見ると艶々光っている。椿油でも塗っているのか。よく見るとうっすら桃色で、日本画のように細かい金箔が散りばめられている。素敵だった。けれど、これは綾のような若い女性がやるものだ。わたしには合わないし、何より派手な装いは定男さんが嫌う。
「綾さんは、結婚されてますか?」
「わたし!?」
ませ子の唐突な問いに驚いたように綾は大きな声をあげた。
「ふふん。どう見える?」
「綾さんくらいの歳で結婚される方は多いので、されているのかと」
「残念、外れです。この前彼氏と別れたばかりです。わたし、森ビルの近くで働いてて。今日も残業帰りなんです。当分、仕事頑張ろうと思って」
ませ子は綾の言葉に頷いて立ち上がった。下駄に指を入れると、絆創膏がクッションとなり、痛みが和らいだ。
「千早さんは?結婚されてるの?仕事は?」
「着物の着付けを教えてます。結婚は…良い方がいれば」
驚くほどスムーズに、口から嘘が出た。

店を出て、再び2人は歩き出した。
先程よりサッサ歩ける。綾のおかげだ。
「そっか、千早さんの着物、素敵だもんなぁ。わたしも習いに行こうかな?教室とかやられてるんですか?」
「築地明石町で」
「へぇ…。あ、ね、LINE交換しません?教室の情報も教えて欲しいし」
ライン?何のことだろう。連絡を取り合う何かなのだろうが、わからない。千早が答えないでいると綾は慌てて取りなすように笑った。
「あ、そうですよね。さっき会ったばかりですもんね。ちょっと馴れ馴れしかったですね、わたし」
そこで会話が途絶え、しばらく黙って歩いた。
綾と並んで歩きながら、ませ子は得体の知れぬ居心地の悪さを感じていた。どこかから、無数の見えぬ目に見られている気がした。

だから、綾から休憩しようと言われた時は正直、ホッとした。
「ここのチョコクロワッサンがほんと美味しくて。わたし、ハマってるんです」
カフェの名は何と言ったか、さっきの履物屋と同じ、横文字だった。綾が言っているのを聞いたが覚えられなかった。ここは、本当に日本なのだろうか。少なくとも、わたしの知っている日本ではない。
2階の2人掛けの席につくと、ませ子は帯から指輪を出して、綾に差し出した。飲み物と食べ物のお金は、綾に出してもらっていた。ませ子が持っていたお札は使えなかったのだ。
「いいですって。奢りますよ。こんなガチな指輪もらえませんよ。それより何であんな古いお札持ってるんですか?千早さんて本当に…昔の人ですか?」
ませ子は綾の目を見つめた。上向きにカールしたまつげの下の、やや茶色がかった瞳が見返してくる。
「そうなんです、実は」
ませ子は綾にだけ聞こえるくらいの声で言った。綾が顔を寄せてきた。
「やっぱり。いつの時代ですか?」
「明治です」
「明治!マジ!?」
「マジ?」
マジがわからない。
「「本当に?驚きました」という意味です。略してマジ、です」
「マジ?」
「マジです」
「使い方、合ってます?」
「合ってます合ってます。明治の世にも広めてください」
「……」
ませ子はブレンドコーヒーを一口飲んだ。苦味が強いがさっぱりしていて、美味しい。風呂に入った時のように、ふーっと気持ちが落ち着く。ませ子はカップを置くと綾に尋ねた。
「あの、1つ聞いていいですか?」
「1つと言わずどうぞ。令和代表で答えますよ」
「ラインって何ですか?」
「そっからか…」
綾はポケットから手のひらに収まる小さな機械を取り出した。画面があり、指で触るとチカチカ変わる。びっくりした。万華鏡だろうか。この中に、ラインが入っているらしい。説明を聞いてもよくわからなかったが、一瞬で届く手紙だと言われ合点がいった。
そうであれば、使ってみたい。コレがあれば、離れていても定男さんと連絡が取れる。清方先生の画塾に遅れる時も連絡できる。
「じゃあ次はわたしにも聞かせて」
綾の言葉にませ子は頷いた。
「何で嘘ついたの?」
ませ子は天井を見上げた。何でだろう。何で指輪を取り、独身のフリして、歩き出したのだろう。何で綾に偽名を使い、この時代の人のように見せかけたろう?
「夜で、散歩に出たら、気持ち良かったんです、風が。わたし、ずっと同じところにいたので」
綾はじっとませ子を見つめた。
「それは、本当みたいですね」
その時、テーブルに置いた例の機械の画面が光った。
綾は指でササっと操作すると、画面を確認するように機械を持ち上げた。しばらく、綾は指を動かしながら画面を見ていた。その間にませ子はコーヒーをもう一口飲み、チョコクロワッサンという、チョコが挟まれた、海老の丸まったような外国のパンを一口かじった。
おっ?美味しい。もう一口…と口を開けた時、綾が画面を見ながら言った。
「千早さん、撮られてますよ」
「え?」
綾が機械の画面をこちらに向けた。先程の通りを歩いている自分の姿の写真が何枚もあった。何だ…これは。店に入る前までの、居心地の悪さはコレだったか。
綾は画面を自分の方に戻すと、さらに何か操作をして、再びこちらへ向けた。
「千早さん…いえ、貴女…誰なんですか?」
画面には、ませ子と全く同じ姿の女性の大きな広告が映っていた。女性の横には『没後50年 鏑木清方展』の文字が見える。

そして、広告の画像の下には短いコメントが続いていた。

(同定ニキ)
(ヤバくね、この女)
(コスプレだとしてもエロい)
(エロい?ババア厨乙)
(え?本当に?何コレ)
(珍百景?)
(さむ)
(マジレスすると清方の「築地明石町」って作品)
(江木ませ子ってモデルがいたんだな)
(コレはいいババア)
(ババア言うな)
(ロリコン)

「で、貴女、誰?」
綾が首を傾げて微笑む。
「わからないんです。気づいたらここにいて」
「本当に?」
「はい。風が吹いて美術館から出てきたんです」
「そんなドラえもんみたいなことある?」
「ドラ…??」
「いや、そこはいいから。絵の中から抜けてきたってこと?」
「多分…」
自分でもわからないのだ。ませ子は恐る恐る頷いた。
ふーん。呟くと綾はまじまじとませ子を見た。
何だか暑い。ませ子は羽織を脱ぐと、ハンカチで額の汗を抑えた。
「ませ子さんて、モテた?」
「え?」
「いや、明治の恋愛事情ってわからないけど、ませ子さん、現代(いま)見ても綺麗だから。モテたのかなって」
「どうでしょう…あまり男女の交流がありませんので…」
話してる間も綾は小さな画面を忙しく操作している。
「ませ子さん、結婚してたんですね。今の世は、ませ子さんみたいに有名人は調べれば何でもわかるんですよ。なんで独身だなんて嘘ついたんです?」
あの小さな機械は相当やっかいらしい。
お姑さんみたいだ。奪って床に叩きつけてやろうかしら。想像したら、ふふっと笑みがこぼれた。
それを見て、綾も笑う。
「笑いごとじゃないですよ。てことはさっきの指輪、結婚指輪じゃないですか。やめてくださいよ、そんな大事なもん、サラッと渡そうとするの。怖っ」
綾の言い方が面白くて、ませ子はますます笑ってしまう。
綾も釣られて笑う。
「綾さん、あの」
「何?」
「このパン、美味しいです」
「美味しいです、じゃねーわ」
ひとしきり笑って、綾が言った。
「戻りたいですか?元いた場所に」
どうだろう。わからない。さっきの画面には清方先生が亡くなって50年とあった。だいぶ、先の世まで来てしまったらしい。だが、住めばどこも都だ。
「東京タワーまで行ってみたいです」
「オッケ。でもその格好はまずいです。これ以上Twitterで晒されると面倒なんで変装しましょう」
Twitterというのが、さっきの沢山写真とコメントが載っていたやつらしい。たしかにあれは不快だ。わたしは人の妻だ。それをみだりに撮って衆目に晒すなんて。恥を知れ。ませ子がぷりぷりして言うと、綾は困ったように苦笑した。
「怒るポイントがズレてるんですよ…まぁでもいいです。洋服になってもらいますからね」

洋装専門店には初めて入った。
「ませ子さんは小柄だからオーバーサイズが可愛いと思うんです」
綾に大きなサイズのパーカーを被せられ、ませ子は試着室の鏡を2度見した。カーテンを開けて、待っていた綾に言う。
「わたし、でかいてるてる坊主みたいになってません?」
「あっ、そぉ?」
「綾さん、なんかちょっと、笑い、こらえてません?」
「え?別に」
綾の声が震えてる気がする。わたしの姿が面白いんだろう。ませ子は綾を見て言った。
「オーバーなんとかはやめます」
「あい」
「あいじゃなくて。普通のがいいです。綾さんが着てる、その青い服みたいのがいいです」
結局、綾とお揃いのような青いシャツに、黒のパンツで落ち着いた。着物から着替えたませ子を見て綾は頷くと言った。
「そうなると足元の下駄がやっぱり気になりますね」
「いえ、足元は下駄で大丈夫です」

足元から見上げる東京タワーは壮観で巨大だった。
こんなものを日本人は作れるようなったのか。
技術の進歩は恐ろしいほどだった。
「50年寝てたわけじゃないからね。今は、スカイツリーっていう、もっと高い塔もあります」
「あんまり高いと怖いですね」
「夜景が綺麗ですよ。せっかくだから上ってみます?」
ませ子は頷いた。

東京タワーの展望台から見下ろすと地上に夜空が広がっていた。
暗闇より光が多い。
「こんなに人が暮らしてるなんて不思議な感じがします」
「明治よりだいぶ人口も増えましたしね」
確かに綺麗だが、少し寒い気がした。
この光には温もりがない。
必死に鳴いているのだ、ここにいると。
暗い海へ向かって呼びかける、無数の小さな灯台だ。
「LINEとか、色々便利なツールはあるんですけど、結局みんな寂しいんだと思います、わたしも」
寂しいか。綾には家族はいないのだろうか。
家族とともにご飯を囲めば寂しさはないはずだ。
「今、一人暮らしなんですよ。それはそれで気楽なんですけど…」
仕事ために職場の近くで暮らしているという。家族は別に暮らしているらしい。出稼ぎのようなものかと尋ねると、違いますけど、似たようなものかもしれません、と言われた。
「ませ子さんは幸せですか?旦那さんと結婚して」
言われて少し考えた。幸せとかそうでないとか、考えたことがなかった。今の暮らしが普通で他と比べたことがない。比べなければ幸せも不幸せもない。もちろん、腹の立つことはあるし、寂しい夜がないわけじゃない。
「あんまり考えたことないです。でも、どこかに行きたいと思っていたから、今、ここにいるのかもしれません」
「ませ子さんの旦那さんてどんな人なんですか?」
「実は姉の旦那さんの前の奥さんの息子さんなんですよね」
「え?え?ちょっと待って。いきなりサザエさんち以上に複雑な設定出してくるのやめてくれます?」
ませ子はふふっと笑った。
「だから、わたしも色々ありますよ」
「旦那さん、優しいですか?」
「威張ってますよ。男性はみな、そうでしょう?」
「そうなんですね。現代の男性は皆、優しいですよ。でも、ずるいんです。陰で。女かよっていう」
「それは、明治だって同じです」
「ませ子さん」
「はい」
「わたし、今、仕事でようやく任せてもらえそうなプロジェクトがあって、頑張ろうと思ってるんです」
ませ子は視線を下界の夜景から、夜空へ移した。地上に光を吸われたかのように、暗い空が広がっていた。
「それで、仕事で充実してる、わたしは幸せだって言い聞かせてるんです。でも本当は前の彼氏をまだ引きずってるし、夜は寂しいし、さぼてんは枯れるし、なんか、しょんぼりです」
ませ子は窓ガラスから、足元の下駄へ視線を移した。
「綾さんは、わたしが足が痛いのに気づいてくれました。そして、スニーカーを勧めたり、絆創膏を貼ったり、色々してくれました。おかげでわたしは今、随分楽に歩けています」
「そんな別に、大したことじゃないですよ」
「わたしの正体を知っても、受け入れてくれました。拒絶しないでこうやってちゃんと話してくれてます」
「いやまぁそれはね、実は内心、まだちょっとびっくりしてますけどね」
「綾さんは優しいから、大丈夫です」
「………」
「……」
「強引にまとめましたね、今」
「そんなことありません。仕事、頑張ってください。明治は頑張りたくとも、女性が活躍するのが難しい世の中です」
「……そっか」
「わたし、そろそろ行きます」
ませ子は、トイレで着物に着替えた。
戻ると、展望台のガラスに右手をつけた。
冷たいガラスが、少しするとほのかに熱を持ち始めた。
「なに、してるの…?」
声をかけてきた綾に振り返って礼を言う。
「コーヒーとパン、ご馳走様でした」
綾が何か答えるが、聞きとれなかった。
ゴッとガラスに穴が空き、風が吹き込んだ。
周りの客が悲鳴をあげる。
穴に吸い込まれるようにませ子は展望台の外の夜空へ放り出された。着物が風にはためく。
両手を広げたら、裾が風を受け、大きく中空へ舞い上がった。どこまでもどこまでも、月までもいけそうだった。
ませ子は帯から指輪を取り出すと、少し眺めて、空へ放った。風に巻かれて、指輪は一瞬で見えなくなった。

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朝霧煙る築地明石町を歩いていた。
少し寒い。着物の襟をかき合わせた時、後ろから声をかけられた。どこかで聞いたことのある声に振り向いた。

「今度は、ませ子さんがこっちの世界を案内してよ」
青い服を着た、金髪の女性が笑いかけていた。(終)

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あとがき

【異聞】シリーズ、始めました。
たまにこうして、1つの作品から始まる小さな物語を書いていこうと思います。
YouTubeでいえば、サブチャンネルみたいなものです。
気軽に書きますので、気軽にお読みください。

これからも色んなアーティストの胸熱なドラマをお伝えしていきます。 サポートしていただいたお金は記事を書くための資料購入にあてさせていただきます。