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公開シンポジウム「国語教育の将来―新学習指導要領を問う」(8/1@日本学術会議)で考えた

先日、日本学術会議主催の公開シンポジウム『国語教育の将来 ——新学習指導要領を問う』に参加してきた。

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訳あって全ては参加せず、パネリストの発表のみを聞いて中座したのだが、そこで聞いたことから、ふと、考えたことがあった。

古典文学を学ぶ意義はあっても、古文を学ばせる意義はあるのだろうか。

人文学滅亡の危機?:主戦場は「国語教育」

昨今の風潮の中で、人文学というのはたいへんにわりを食っている。

新指導要領の告示を受けてとりわけ国語教育界隈が賑やかになってきているが、それも今述べたような状況の中で、人文学がそのレゾン・デートル(カビの生えたような言葉だが)を見いだそうとしている現れとも理解できるだろう。

国語教育は伝統的に、教育学のみならず、「文学の存在価値」を問う場所として、文学研究とも密接な関わりを持ってきたからだ。 近現代の文学以上に、その存在価値が問われているのが古典文学だろう。PISAショックを受けて以降の「リテラシー」重視の教育指針の中、「現代に直結せず」「特に何の役にも立たない」ことを学ぶ古典教育が軽視されてしまうのではないかとの危惧が広がっているからだ。

古典教育の問題意識:「国語教育における古典の意義とは?」

今回のシンポジウムには5人のパネリストがいて、そのうちのおふたり(三宅晶子氏、渡部泰明氏)が古典文学の専門家だったのだが、そのどちらもが課題としていたのが、

古典教育をこれからの(国語)教育にどのように位置づけていくか」

ということだった。

シンポジウムの発表について簡単に触れておくと、三宅氏の主張は、文部科学省の「主体的・対話的で深い学び」に賛同しつつ、古典学習を現状の「文法・暗記」中心のスタイルから刷新すべきだというものだった。

具体的には、言語文化としての古典文学に触れるという観点から、文字情報だけでは無く、「見ること」「聞くこと」の要素も活用しつつ、現代文を扱うこととの垣根を低くすることを提案されていた。

また、渡部氏は古典を学ぶ意義を

• 共生的な言語文化に触れること

• 情理を兼ね備えた言葉を知ること

の2点とし、その上で古典の学び方を「内言の外言化」というアプローチから考えるべきだと指摘されていた。ここで氏が言う「共生」とは「異なる存在が互いに影響を与えあいながら一緒に生きること」として説明されており、古典におけるアクティブ・ラーニングとは、こうした共生型文化としての日本古典の特性を活かして実現されることになる。

見落とされた問題点:原文でやる意味とは?

いずれの主張ももっともなことであるが、お二方の議論には、なお問われるべき事柄が棚上げになっているように思われる。

つまり、古典文学を学習するのに、なぜ古典文法や漢文の句法を学ばなければならないのか、ということだ。

言い換えれば、現代語訳を使わず、わざわざ原典に当たらなければならない理由はどこにあるのか、ということだ。

三宅氏が小学生〜高校生・予備校生に対する「古典の授業に対する不満な点」に関する調査データを発表中で示されていたが、その1位が「文法ばかり」、2位が「暗記ばかり」という結果であった。また、自身の担当する学生(教職課程)への意識調査でも、「将来古典を教える際の不安な点」として上位に挙げられていたのが

• 古典をあまり読んでいない

• 文法が分からない

• そもそも古典が好きではない

というものであった。

こうした結果から三宅氏は「教師自身の意識改革と古典力教科」が課題であるし、先述のような主張をされていたが、もし古典学習・教育に関する問題点がこうした結果の通りであるのならば、必要な方策はまた別にあるように思われる。

渡部氏の主張についても同様の問題が指摘できる。つまり、古典を学ぶことが日本文化の「共生」という特性を知り、内言の外言化を促進するとしても、はたしてそれを目指す上で「原典」にあたる必要はあるのだろうか。

古典という教科の最大の障壁は「それが現代日本語ではない」というそのことに尽きる。であるから、これをどうカリキュラムの中で乗り越えさせるかが、より建設的な課題であるべきなのである。

2つの提案:「準外国語」としてか、「翻訳文学」としてか

私が考えるに、そのための方策はおおきく2つの方向性を取る。ひとつは、古典・漢文を「準外国語」として見なし、第二言語習得をはじめとした英語学習の方法論を取り入れること。そしてもうひとつは、翻訳文学の亜種として、現代文科目の中で取り扱ってしまうことである。

ひとつめの方策は、「原典にあたりその文章を味わう、読む」という現状の古典学習の在り方に即しつつ、最大の問題である「文法・暗記」に対して、真っ正面から取り組もうとするものである。

古典・漢文のいずれも、当然のことながら、現代日本語ではない。

似通っている部分はあるとはいえ、それを理解するためには、特殊な訓練が必要である。

したがって、現状の学習スタイルを是とする限り、「暗記・文法」からは逃れようもない。

であるなら、その学習障壁を軽減することが、古典学習における課題となってくる。

そこで注目したいのが、英語教育で導入されている「第二言語習得」の方法論である。

古典を学ぶ中で行われる作業を検討すると、文法学習・単語学習・訳出など、むしろ国語よりも英語に近い特徴が古典学習には多く見受けられる。したがって、現状英語学習で一定の成功を収めている第二言語習得のメソッドを参考にすれば、古典学習の障壁である「文法・暗記」は、生徒にとってより負担感の少ないものとなろう。

渡部氏が主張されていた訳出を通しての「内言の外言化」も、こうした読解インフラの整備を踏まえてこそ、機能することになると考える。

もうひとつの方策は、新指導要領にも示され、また古典プロパーの方が頻繁に主張される「古典文学を近現代文学と同じく扱う」ということを重視したものである。

無論、言語毎に固有の価値観や意味空間が存在するわけで、翻訳というのはある意味その作品の「不完全」あるいは「偏った」形態である可能性はあるだろう。

しかし、翻訳だからといって、その物語の価値や作品世界、あるいはその世界における価値観などが分からなくなるということはあるだろうか。もしそうなのだとしたら、学習者たちは『少年の日の思い出』を読むのにドイツ語を、『故郷』を読むのに中国語を学ばなければならないということになる。しかし、実際そんなことをする必要はないし、翻訳文学という形態でも、十分に学習者の言語能力を鍛えることができる。

むしろ、彼ら自身の使用言語に合わせることによって、作品世界をより身近なものとし、そして「文学を読む」ことによって期待されることがらも一層実現されやすくなるのではないか。もし古典文学の世界や価値に触れさせることが目的であるのなら、それを原典で読む必要は特に無いはずなのである。

とりわけ後者の意見については反発も多いだろうが、むしろ古典プロパーが主張する「古典を学ぶ価値」をいちばんスムーズに実現できるのは、後者の方策であるとも考える。

危機に立ち向かうために:裾野を広げていこう

人文学の危機は、それに親しむ人間が減っているということにこそ、一番の問題がある。人文学の危機を救うひとつの手段として国語教育を考えるのであれば、国語教育における文学は、その敷居を低くし、間口を大きく取らなければならない。

そのうえで、古典も含めた「文学を学ぶこと」の意義が、「読むこと」に関する別の本質的問題として問われるべきだろう。

私自身、ドイツ哲学をかじる身として、原典に当たることの価値や重要性は身に染みて感じている。そして同時に、人文学が多くの人に親しんでもらうにあたり、障壁が多すぎることも痛感している。

多くの人に古典に触れてもらうことがまずなによりの大前提であり、古典教育はその最大の間口にしてインフラである、ということを肝に銘じておきたい。

おそらく、古典文学を全て翻訳にしたところで、古典文学やその研究が滅ぶことは無い。

古典ギリシア語の教育が限定的なものになった現在でも、ソクラテスやプラトンに親しむ人がぱったり途絶えたわけでは無いことを、私なりの根拠として最後に示しておこう。


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