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格闘ゲームと『セルフ・コンパッション』Part③(完)

この記事でセルフ・コンパッションについては終わりになります📗 とても長い記事となりました。最後になりますがよろしくお願い致します🙇‍♀️


◆第Ⅳ部 人間関係におけるセルフ・コンパッション

こちらの第Ⅳ部は3つの章で構成されていて、それぞれが『他者への思いやり』、『セルフ・コンパッションを実践する育児』、『愛とセックス』になります。後半の2つの章に関しては個人ではなく家族の単位が発生する時に役立つ内容となっているため、格闘ゲームでは成果が得られない部分であったため今回の記事では取り上げません。ですが、育児や夫婦・パートナーとの関係などでもセルフ・コンパッションを活用していくとどうなるのかという部分についてはウェルビーイングという部分でも大いに役立つ内容となっているため、ライフステージに合わせて必要があれば活用していくと楽になってくる部分もあるかと思います。第IV部は第9章の『他者への思いやり』のみの紹介になりますが他者への思いやりは本書でも欠かせない部分であるので解説していきます。

◇第9章 他者への思いやり

この章はセルフ・コンパッションを教えている著者が、自分に優しくしている人なら他者への思いやりも向上していくのか?という質問があった時に、セルフ・コンパッションの立場から言えばそれは「イエスでありノーでもあります」と答えるところから始まります。その答えの背景にあるのは、セルフ・コンパッションを実践している人は他者への思いやりと同じように自分にも思いやりを向ける点と、セルフ・コンパッションを欠く人は、絶えず自己批判をしていても他者に対しては思いやりの気持ちをもっているという点が挙げられています。その例としてケア提供者の話を取り上げ、他者の立場に立つことで起こること(共感疲労)のことなどを取り上げ、他者との関係においてセルフ・コンパッションにはどのような効果があるのかをまとめています。それ以外にも、慈愛(慈悲)の瞑想という仏教についてセルフ・コンパッション式のアレンジを加えて自分への思いやりを育むためのものとして提供していたりします。セルフ・コンパッション式の慈愛の瞑想は一見他者のことを排除しているようにも思われますが、自分をまず十分に満たした後に他者に思いやりを分けることができると著者は説いていて、この章での他者への思いやりから共感疲労、そして慈愛の瞑想という形で全てが繋がった内容となっているため、この第Ⅳ部の中でも特に重要なものとなっています。

それでは本章の要点をまとめていきます。

・自分への思いやりが増えたら他者への思いやりも増えるのか?
・セルフ・コンパッションを実践している人は他者への思いやりと同じように自分にも思いやりを向ける
・セルフ・コンパッションを欠く人は、絶えず自己批判をしていても他者に対しては思いやりの気持ちをもっている
・セルフ・コンパッションのレベルが高い人は他者の失敗や弱点を考察するとき、その相手の立場から考える傾向が強い
・他者の立場に立って考えることは共感疲労が生まれることがある(例えばセラピスト、看護師、その他のケア提供者など)
共感疲労二次的外傷ストレスという名称でも知られている
共感力が高く、感受性の強いケア提供者は二次的ストレスを受けるリスクが高い
セルフ・コンパッションの訓練を受けているケア提供者は共感疲労を発症することが少ない
・思いやりから派生する他者への許しについて
慈愛の瞑想(仏教)を取り入れアレンジした言葉で実践する著者自身のセルフ・コンパッションについて
エクササイズ『自分の苦悩に慈愛を向ける』
・慈愛の瞑想を行うことによってセルフ・コンパッションは増大するという研究結果があること

などが取り上げられています。
主に太線の部分を取り上げていきます。

📌共感疲労とは

他者の立場になって状況を考える。例えば自分の親しい人が何かに悩んでいたとしたら、相手の立場になって考えて共感をしたり助言をしたりなどの寄り添いや思いやりを見せることがあるかと思います。思いやりを持つことは社会の調和にとって重要ですが、これにはひとつの欠点があり、それは他者がひどく傷ついている場合、共感しようとするこちら側がダメージを受けてしまうという点で、これが共感疲労と呼ばれます。共感疲労はセラピスト、看護師、その他のケア提供者に頻繁に発生するものだといいます。また、共感疲労は二次的外傷性ストレスという名前でも知られており、心的外傷後ストレス障害(PTSD)と似たような症状が現れることもあるといいます。研究によればこのような共感疲労は、セルフ・コンパッションの訓練を受けているケア提供者には発症することが少ないことが明らかになっています。

(中略)他者に向ける思いやりを十分備えておくには、すぐに使える思いやりを絶えず自分に供給する必要がある。自分の蓄えが空っぽになってへばってしまったら、自分を頼っている人々の役に立つことなどできようはずがない。

クリスティン・ネフ(2021)セルフ・コンパッション[新訳版]
第Ⅳ部 9章

このように、他者に対して思いやるためには自分を思いやることもまた必要ということになります。セルフ・コンパッションを欠いている人は自分には厳しく自己批判をしていても他者に対しては思いやりを向けることもまた研究で明らかになっています。他者の立場に立って思いやりを向けるというこの工程を自分の心にも適応させることで自分にも思いやりを向けるセルフ・コンパッションとなり、更にケア提供者となった時にもその真価を発揮できるということになりますね。職業としてケア提供者のみならず、相手の感情に引きずられてしまう時にもセルフ・コンパッションは効果を発揮することでしょう。

📌慈愛の瞑想

慈愛の瞑想とは自分自身と他者への善意を育むために仏教で伝統的に行われていることのひとつとされています。本書の中ではそれ以上の記述がなかったので、いくつかweb検索してみました。参照サイト以下2つ↓

どちらのサイトでも慈愛の瞑想ではなく「慈悲」の瞑想と書いてあるため、詳しくは「慈悲の瞑想」で調べるのが良さそうです。仏教においては慈愛=慈悲という意味合いがあるようなので言葉は違えど同じ意味となるようです。

この慈愛の瞑想ですが、本書の中の言葉を借りると、伝統的にはまず自分自身に向けて言葉を繰り返し、慈愛の気持ちが生まれてくるのを自ら体験することを目指すといいます。
例えば、

「私が安全でいられますように、穏やかな気持ちでありますように、健やかでありますように、安心して生きていますように」

を1セットとして繰り返し、続いてメンター/恩人、大切な友人、中立の立場の人、やや厄介な人、最後にすべての人々に向けて、

「あなたが安全でありますように、穏やかな気持ちでありますように、健やかでありますように、安心して生きていますうように」

を繰り返すと言います。
自分への慈愛の気持ちがうまく生み出せない場合は順番を変えて、メンターや恩人に対して慈愛の言葉を向け、そのあと自分に向けて慈愛の言葉を語りかけるようにすると入りやすいといいます。
この伝統的な慈愛の言葉は善意を育むためのものであって、必ずしも思いやりを育むものではないと著者は説いています。そこで著者であるクリスティン・ネフ氏とその同僚のクリストファー・ガーマー氏はこの慈愛の瞑想に手を加えて、

「私が安全でいられますように、穏やかな気持ちでいられますように、自分に優しくできますように、自分をありのまま受け入れられますように」

クリスティン・ネフ(2021)セルフ・コンパッション[新訳版]
第Ⅳ部 9章

という言葉を用意してセルフ・コンパッションのワークショップで提供していると言います。悩んでいるものの原因が外的状況にある場合は、最後の「自分をありのまま受け入れられますように」を「自分の人生をありのまま受け入れられますように」と変えることも提案しています。
ただし、著者は、この慈愛の瞑想に正しいやり方というものはないものとし、慈愛の瞑想の言い回しが自分には落ち着かない言い回しだとなれば自由に語尾を変えるという提案もしており、自分に合った言葉でセルフ・コンパッション式の慈愛の瞑想をすることを説いています。

📌エクササイズ『自分の苦悩に慈愛を向ける』

この慈愛の瞑想の紹介の最後には著者からのエクササイズとして慈愛の瞑想の詳しいやり方が綴られており、それを繰り返すことで思いやりをこめて苦悩に対応するよう能の訓練が行われるといいます。
セルフ・コンパッション式の慈愛の瞑想は必ずしも瞑想用のなにか特別な道具を必要とすることなく、職場や学校に向かう道中や、何かの順番を待つ時などでも取り組むことができると説いています。

このエクササイズでは、自分の今の苦悩と向き合い、それに対してセルフ・コンパッションの3つの構成要素である①「自分に優しくすること」②「共通の人間性を認識すること」③「マインドフルネスであること」を実施した後に、セルフ・コンパッション式の慈愛の瞑想の言葉である「私が安全でいられますように、穏やかな気持ちでいられますように、自分に優しくできますように、自分をありのまま受け入れられますように/自分の人生をありのまま受け入れられますように」を繰り返すというエクササイズになっています。

セルフ・コンパッションを学んでいきたいと考えている人にはセルフ・コンパッションの3つの構成要素以外にも慈愛の瞑想を取り入れることで更にセルフ・コンパッションの力を高める見込めるのでおすすめです。


◆第Ⅴ部 セルフ・コンパッションの喜び

◇第12章 蛹から蝶へ

この章ではこれまでセルフ・コンパッションを学んでその根幹を理解した人にさらに深いセルフ・コンパッションの真価へと誘うような飛躍の内容となっています。この章で特に印象的で重要なのは著者自身のセルフ・コンパッションの体験談であると言えるでしょう。問題に直面したときに取り組んだセルフ・コンパッションについて赤裸々に語られる1ページを読むと、セルフ・コンパッションを読んで内容はぼんやりとは分かったけど実際のところどうやって取り組んだらいいんだろう、と思う読者に対するひとつの「答え」がそこにあります。
それに加えて肯定的なこと、ポジティブ心理学などの紹介がされていて、セルフ・コンパッションを実践している人にはどのような特性があるのかという研究結果なども収録されています。単なる精神論ではなく学術的な研究の結果として記載されているのが本書の特徴なのでこの章まで読み込むと、いかに著者が様々な研究をし、心理学に精通し、セルフ・コンパッションを研究する第一人者として私たちを手助けしようとしてくれているのかが分かります。

それでは12章の要点になります。

・心を開く/閉ざす
・不足は人間に共通する体験のひとつであることを思い出し、人とのつながりも感じるようになる
著者自身のセルフ・コンパッションの体験
エクササイズ『否定的な感情や思考を変える』
・バーバラ・フレドリクソンは『ポジティブな人だけがうまくいく3:1の法則』の中で「拡張−形成理論」を提唱した
・セルフ・コンパッションによって「拡張−形成サイクル」を始動させることができる
・セルフ・コンパッションを実践している人は、セルフ・コンパッションを欠く人より、はるかに楽観的(問題が起きても対応できるとわかっているため)
・セルフ・コンパッションを実践している人は人生に対する好奇心が旺盛
・著者の人生について

それでは今回も太線の部分に注目して解説していきます。


📌心を開いている状態、心が閉じた状態とは

「心を開いている」状態
これは感情を受容する力が働いている状態を指し、不快な体験や否定的な体験でさえ受け入れて、大切に気づかうようになる、と説明されています。

「心が閉じた」状態
これは、否定的な自己批判をして苦痛が生じたとき=自分にどこか足りない部分があると感じたときである、と説明されています。

セルフ・コンパッションはこのような心が閉じた状態の自己批判による否定的な感情を優しい気持ちで包み込む効果があります。

📌著者自身のセルフ・コンパッションの体験

本書の内容を読み込んだ上でこの部分を読むとより実践的にセルフ・コンパッションに取り組むことができます。本書の内容はエクササイズなどを含めてセルフ・コンパッションのやり方を私たちに教えてくれますが、この章で紹介されている著者のクリスティン・ネフ氏自身の体験にその時に自分の内から溢れ出てくる感情を赤裸々に綴ったセルフ・コンパッションの体験はこの本を買った価値は全てここにあるのではないかと思うくらい大変価値がある内容となっています。内容はこれまで学んできたセルフ・コンパッションの3つの構成要素に沿って、マインドフルに自分の状態を言葉にして、つらい思いをしている自分を思いやり、最後に誰にだってこんなふうにつらい時があると共通の人間性を認識する、ということを苦しい感情が思い浮かぶたびに繰り返したといいます。恥ずかしい、喉がしめつけられているみたい、プレッシャーを感じている、胃が痛い、涙があふれてきた、…等々、マインドフルに状況を説明するその言葉は日本語に訳されても色褪せることなくその時の著者の感情を克明に伝えてきていて、著者と一体となってセルフ・コンパッションに望んでいるような感覚になります。この著者自身の言葉で取り組んだセルフ・コンパッションの体験談は本書の中で私が価値がある内容だと思ったのはここにあります。

そして著者はこの時のセルフ・コンパッションに取り組んだ後に、穏やかな気持ちとなり、2つの点に気付いたといいます。
それは、このセルフ・コンパッションによって生じた美しい感覚は、賞賛を受けたり成功したり完璧な人間関係を築いたからという成果から生まれたものではないこと。
もうひとつは自分の状況が最悪になった時にセルフ・コンパッションによって自分の人生を豊かにする感情をいつでも呼び起こせるということ。
これはこれまでの本書の内容に即したもので、この経験があったからこそ著者がこの本でセルフ・コンパッションの取り組み方や人間の本能としての性質や様々な研究結果を取り上げてきた意味が繋がります。

体験談を語る前に著者はこのように述べています。

 これはすなわち、苦悩のあらゆる瞬間に足るを知る可能性が潜んでいるということである。苦痛が幸福への道になりうるのは、愛され大切にケアされていると感じること、人とつながっていると感じることによって、私たちは真に幸せになるからである。

クリスティン・ネフ(2021)セルフ・コンパッション[新訳版]
第Ⅴ部 12章

「足るを知る」という表現が端的でとても良い表現だなと思います。
無くなってから大事なものに気づく、ということは自分の経験でも人から聞いた体験談でもよくあることだとは思います。たとえ無くならなくても大事なものは確かにそこにあるもので、日々を大切に生きたり大切なものを改めて認識して有り難く思ったりするものですが、苦悩の中にも足るを知るというのも同じくらい大切なことで、セルフ・コンパッションにぴったりな言葉であると思います。

📌エクササイズ『否定的な感情や思考を変える』

このエクササイズもセルフ・コンパッションに取り組むためのもので、特にマインドフルに状況を見ることと共通の人間性を認識することに特に特化しているものとなっています。

今、(    )と感じるのは、とてもつらい。
誰でも(    )と感じることはある。
今この瞬間に自分がもっと幸せな気持ちになるには、何ができるだろう?

クリスティン・ネフ(2021)セルフ・コンパッション[新訳版]
第Ⅴ部 12章

自分が否定的な感情に捕まっていることに気付いたらやってみてほしいというエクササイズとなっていて、感情をそのまま当てはめることでセルフ・コンパッションの入り口に触れることができるので大変有用です。そしてこのエクササイズで重要なのは、否定的な気分に抵抗するためではなく、自分自身の健康と生活充足感(ウェルビーイング)を望むからこそ行う、ということだと著者は説いています。良い感情も悪いと思う感情も、肯定的な意見も否定的な意見もニュートラルなものも全てを体験するのが人間であり、そしてセルフ・コンパッションとは心を開いた状態で否定的な感情を受け入れて大切に気づかうことによって再び立ち上がる力を与えてくれるものだということを忘れてはなりません。否定的な感情が生まれるのは人間として当たり前のことで悪ではなく、それを含めて人間であることも何度も本書の中で出てきている通り共通の人間性として認識することも大切です。

📌バーバラ・フレドリクソン『ポジティブな人だけがうまくいく3:1の法則』

社会心理学者のバーバラ・フレドリクソンは「拡張−形成理論」を提唱しました。
肯定的な気持ちは危険を避けるだけでなく好機を活かすことができ、注意力を上げ、安心と落ち着きをもたらす。それによって新しい体験に対して心を開きやすいという利点があります。
セルフ・コンパッションは否定的な感情を消去するのではなく、思いやりと優しさによって包み込むことで、この拡張-形成理論の拡張-形成サイクルを始動させ、上記のような肯定的な気持ちの利点を引き出すことができるといいます。



◇第13章 自分の真価を認める────セルフ・アプリシエーション

最後の章では、セルフ・コンパッションを学んできた私たちへ、新たな仲間が加わります。それがセルフ・アプリシエーションというもので、それがどういったもので私たちの人生を豊かにしてくれる考え方であるのかを学ぶ章となります。

それでは要点を取り上げていきます。

自分の価値を認める難しさ
セルフ・アプリシエーションについて
共感的な喜びとは
・共感的な喜びにはマインドフルネスも必要
セルフ・アプリシエーションの本質
セルフ・アプリシエーションと自尊感情の違い
ソニア・リュボミアスキー『幸せがずっと続く12の行動習慣』
・エクササイズ『感謝日記をつける』
・エクササイズ『その瞬間を味わう』

結論

📌自分の価値を認める難しさ

自分の良い所を認めること。
それは時に難しいことがこの章の最初に示唆されています。

例えば友達と休日に会ったときにありそうなことを上げてみます。

久しぶり!と言って顔を見合わせて挨拶をした後、友人が「あなたの着ている服とってもいいね!」と褒めてくれたとします。しかし褒められるということに慣れておらず、自分の容姿に自信がないとその褒めに対する答えは「そんなことないよ…。自分より身長がある人ならもっと似合うのにね」というものになることでしょう。卑屈と思えるようなことですが、褒めに対して過剰に反応して素直に褒めを受け取れず、自分を卑下してしまうことが人間には時にあります。

自分を精神的に打ちのめすこと(自己批判など)が習慣になっていると、自分の肯定的な資質に気づいてもそんなことはないのだと拒否してしまう傾向があるのは、自己批判をよくしてしまう人であれば馴染みがあることだと思います。これは自分が十分ではないという気持ちが自己批判によって酷い言葉を用いて刷り込まれてしまっているため、自分の価値を認めることが怖くなっているのだといいます。自分は価値がないということを取り下げて価値があるという意識に切り替えることは、自分の中での認識の一種の死のように感じられてしまい、否定的な自意識は何が何でも自分の褒められた価値を認めないように闘って生き残ろうとするのだといいます。

📌セルフ・アプリシエーションとは

自分の素晴らしい点を認めるにはどうしたら良いのか?
その難しさについて言及した上で、著者はその答えはやはりセルフ・コンパッションだと信じているという。しかしそれはこれまでとは異なるセルフ・コンパッションとなり、著者はそれを「セルフ・アプリシエーション」と呼びたいと綴っています。

セルフ・アプリシエーションを用いれば、どんな人にも長所と短所があると認めた上で、自分の良い面を嬉しく思い、自惚れることなく自分の良さを満喫することができると説いています。

📌「共感的な喜び」とは

セルフ・アプリシエーションを理解するには、「共感的な喜び」への理解も必要だと著者は説いています。

これは仏教で生活充足感(ウェルビーイング)の基礎のひとつとされているムディタ(mudita)のことで、共感的な喜びとは他者のもつ優れた資質や他者に訪れた状況を喜んだときに生まれるといいます。※このムディタは仏教の四無量心(しむりょうしん)のひとつ、喜心(きしん)に相当するもののことです。参考までに四無量心について分かりやすく解説しているサイトがあったので置いておきます↓

この共感的な喜びの根底にあるのは「優しさ」と「善意」であるという。
私たちはしばしば他者の優れている点と自分の不足を比較して嫉妬というものを生み出してしまうが、考え方を共感的な喜びにシフトすると、他者の喜びによって自分もまた幸せになれる機会が増えるという。

著者はこう言っているものの、確かにそれが成るのであれば幸せに間違いないが、読み手側は「本当にそのようなことが可能なのか?」という疑いに近い問いが浮かんでくることでしょう。

ではどうするのか? 著者の答えはこうである。

 共感的喜びに不可欠なのは、私たちが生まれながらにしてつながり合っているという認識である。なんらかの大きな全体の一員であれば、「私たち」の中のひとりに喜ばしい出来事があった場合、いつでも嬉しいと思うことができる。

クリスティン・ネフ(2021)セルフ・コンパッション[新訳版]
第Ⅴ部 13章

著者はここでフットボールチームを応援するサポーターの例を取り上げている。チームに点を入れるのは選手でありサポーターである私たちではないものの、そのチームと一体感があるからこそチームの勝利を一緒に喜べるというような例である。日本でもプロの野球やサッカーやバスケットボールのチームとその応援するサポーターを例を上げれば分かりやすいと思われる。著者はこのチームの枠組みを、人類全体にまで広げたとしたら、私たちは勝ちっぱなしになると説いています。

そして、他者の肯定的な資質を評価し、共感的な喜びを得るためには、マインドフルネスも必要だと主張しています。これは、他者の肯定的な資質、簡単に言えば長所などの存在自体に気づかなければ共感的な喜びが生まれないためです。自分の周りの親や兄弟、友人などについて、例えば優しい言葉遣いや、人柄が現れたほがらかな笑顔や、人を楽しませる天性のユーモアのセンスなどを当然の結果や当たり前なものとして捉えず、その素晴らしい点にマインドフルに気づき、意識的に注目することが重要だといいます。

📌セルフ・アプリシエーションの本質

①優しさ②共通の人間性③マインドフルネスの3つの構成要素のことは本書の根幹となる部分で常に触れているものですが、この3つの構成要素を「誰に/何に」向けるかによって名称が変わる、ということが分かりやすくまとめられています。

それぞれ、①〜③の要素を、

他者の苦悩に適用すると → 思いやり
自分自身の苦悩に適用すると → セルフ・コンパッション
他者の肯定的な資質に適用すると → 共感的な喜び
自分自身の肯定的な資質に適用すると → セルフ・アプリシエーション

このように名称が変化するといいます。

自己批判が激しい人でも他者には思いやりをもって接することができるのは私たちでも経験があることだと思います。友人が落ち込んでいたらその時は相手の立場に立ち、その苦悩の状況を誰もが経験することだという認識をし、思いやりのある言葉をかけることでしょう。
そのような人間が持っている思いやりの気持ちを自分に対しても行うこと(セルフ・コンパッション)、他者の良い点に注目して一緒に喜ぶこと(共感的な喜び)、自分の良い点について認めること(セルフ・アプリシエーション)は全て対象が違うだけで根幹の要素は同じものであると著者は説いています。

そして著者は私たちの多くは自分の長所ではなく短所に注目しがちだという点を取り上げた上で、自分の肯定的な資質について、それを自分自身の真価を評価し、それを心から認めていることを明示できるのは、自分に優しくするという素晴らしい天賦の才(ギフト)であるとしています。そして、この自分自身に対する称賛は他者に向けてひけらかして他者を不快にさせる必要はなく、自分の心の中で自分が受ける資格があり、自分が必要としているものだとそっと認めることが重要だとしています。
この称賛を他者にひけらかさないというのは、自尊感情の章で示された通り、正しい努力としてのセルフ・コンパッションの話の通り、セルフ・コンパッションは自分の苦痛を取り除くための手段であり、自分に優しく共通の人間性を認識していてマインドフルであることで自分は凄いという力量を他者に対して示すものではないためである。他者よりセルフ・コンパッションを実践できているということで得意げになる必要もなく、自分に優しくしてもいい、自分にはその資格がある、否定的な感情を受け入れてありのままの自分を受け入れることができることの素晴らしさを認め、自分を思いやることが重要です。セルフ・アプリシエーションも同様に、自分の肯定的な資質を認め、自分の真価を享受するものの、それを正しい努力として心に留め置くことが重要であるのだと捉えます。

📌セルフ・アプリシエーションと自尊感情

これら2つの違いは、人間であれば誰しもする体験をどう認識しているのか、という点であるという。
自尊感情他人と自分を区別して比較して他者よりも優れていてそれゆえに特別であることを前提にしている傾向にあり、セルフ・アプリシエーション他者とつながっていることや他者との類似点を理解し誰にも当人なりの強みがあると認めることに基づいている。

自尊感情とセルフ・アプリシエーションは優劣を明確にするか否かの差異があり、自尊感情は自身にレッテルを貼り、自分固有の特質を捉えようとするという。例えば、私は美人で裕福で仕事もできる、などが挙げられます。自尊感情は今あるままの自分ではなく、自分がどういう人間かという点に関する考えから生まれる。高い自尊感情をもつためには肯定的な自画像を描くことがきわめて重要になり、それは現実の自己としばしば混同された状態になる。

一方でセルフ・アプリシエーションは、判断やレッテル貼りをすることも、優劣を明確にすることもないという。共感の仕方、肯定的であれ否定的であれ完全には明確化しえない変化しつづけるプロセスであると分かるようになる、その中でも、自分の良いところは認められるようになるという。それは、例えばそれは呼吸ができることであったり、歩くことができることであったり、食べることができることであったり、友人と関わりを持つことができることであったりして、それは一見普通の能力かもしれないけれど、称賛に値するものであると著者は説いている。

セルフ・アプリシエーションは、他者を貶めなくても自分のことを思って良い気分になれる。他者が成し遂げたことを認めると同時に、自分が成し遂げたことも認め、他者の才能を嬉しく思いながら自分の才能も称えることができる。
この自分も他者も認めるこの姿勢について、著者は読者に向けてこのような言葉をかけてくれます。

真価を認めるということは、自分を含めたあらゆる人の中にある光を認めるということでもある。

クリスティン・ネフ(2021)セルフ・コンパッション[新訳版]
第Ⅴ部 13章

セルフ・アプリシエーションには共感的な喜びへの理解が必要ということをこの部分でも強調していますね。本書の特徴としては、やはり前述した①〜③の要素を他者にも自分にも向けることに一貫していて、それに基づいて話が進んでいくため、著者以外の行った研究や実験の結果や、著者自身が生み出したセルフ・コンパッションのやり方も、セルフ・コンパッションに取り組むためのエクササイズも、全ては①〜③に取り組めるよう、そしてさらに強化ができるように作られているところにあります。

📌ソニア・リュボミアスキー『幸せがずっと続く12の行動習慣』

著者はセルフ・アプリシエーションの章の中でこの本を紹介していてセルフ・アプリシエーションと通ずるものとエクササイズを用意しています。

この本によると、肯定的な人生の状況によってもたらされるとされる幸せは、幸せ全体の10%過ぎないといい、宝くじが当たるというような大きな幸福のあとでも2年もすると元の幸せレベルに戻る傾向があるという。人生の関わり方を変えるだけで幸せのレベルを著しく高めうることができ、重要なのは何が起きたかより、起きたことをどう思うかということであるということを教えてくれるといいます。
例えば、自分が手にしているものに感謝すること厄介な状況の明るい側面を見ること自分を他者と比較しないこと親切な行動を実践することマインドフルになること喜びを味わうこと、などが挙げられるといいます。
これらのことはセルフ・アプリシエーションの大きな概念にそっくり含まれると著者は説いていて、その上で「感謝すること」と「味わうこと」を例にエクササイズを用意しています。

📌エクササイズ『感謝日記をつける』

何に「感謝」しているかについて具体的に書き記すエクササイズとなりますが、その前に著者が本書の中で紹介している感謝の研究を解説します。

ロバート・エモンズの感謝の研究によって、感謝の念にあふれる人は幸せや希望、活力、自分の人生に対する満足感を強く感じる傾向にあるといい、物欲や他者の成功への嫉妬は少ないという。感謝は学習できるものであると研究で示唆されているという。
ある研究では、大学生を対象に日常生活の記録を週毎に報告し、それを10週間続けるように依頼し、学生たちは無作為に3郡に分けられた。
A郡には何に対して感謝の気持ちが湧いたかを記録させ、B郡には面倒だと感じたことやイライラしたことを記録させ、C郡には肯定的・否定的な内容に関わらず心が影響を受けたことを自由に記録させたという。その結果、A郡は他のB・C郡より幸せだっただけでっはなく、病気の徴候が少なく、運動をする回数も多かったという。感謝は感情的な体験も身体的な体験もよい方向に変化させるようである、と紹介されている。

この感謝をするという習慣をつけることでセルフ・アプリシエーションの力もまた伸ばせるように設計されています。
日記の書き方は決まった形はなく個人のやりやすいようにやってよいとされています。ただ、いつもきまったものではなく新しい感謝の対象を見つけるように努力してほしいと著者は言っています。何に感謝しているかについて具体的に書いてほしいとも言っていて、本書の中ではペットのネコについて書くとしたら、「うちのネコに感謝している」ではなく、より具体的に「うちのネコがゴロゴロ喉を鳴らしたり、私の脚にすり寄ってきたりして、私は愛されているんだなあという気持ちにさせてくれることに感謝している」というような書き方が望ましいとしています。
これは日記という形なのでどうしても今この瞬間ではなく過去のことについて書くことになってしまいますが、具体的に書くことで事実に基づいてマインドフルに状況を整理して、更に自分がそれに対してどんな感謝の気持ちが湧いてきたのかについてもマインドフルに感じ取り言葉にしているため、マインドフルネスに馴染みのない人でもマインドフルネスとはどんな感覚なのかという経験を積むことができるようになっているのも素晴らしい点です。

📌エクササイズ『その瞬間を味わう』

次のエクササイズは「味わう」になります。
味わうといえばまっさきに食べることが思い浮かぶと思いますが、これは食べ物に限らず友達との会話などの実際には口に入れずに味わうものなども含まれています。
食べ物に関しては、生きるためには毎日食べ物を摂取しなくてはならないので、このエクササイズはいつでもできますし、大好きな食べ物や飲み物があり、それを楽しみにしながら日々を過ごしている人ならば馴染み深いものだと思います。食べ物や飲み物を用いた例えでは、ガツガツ食べるのではなく、繊細な味や香りや舌触りに注目し、それを時間をかけて味わうことが重要視されています。
その他には、友達との会話の中では友達の心地よい笑い声や声音を味わったり、景色を観てその美しさを味わったり、小説を読んでその表現の美しさなどを味わうことも例として挙げられています。
この味わっている時はマインドフルな気づきを用いて、味わっている時の感覚を意識的に注目することが重要で、意図的な行為として味わうことが大切だといいます。

📌結論

セルフ・アプリシエーションの章の最後は、『結論』という形で締められています。
著者はセルフ・コンパッションとセルフ・アプリシエーションは1枚のコインの表裏であり、セルフ・コンパッションは苦しみをもたらすものに焦点を絞り、人間の持つ弱さを受け入れ、セルフ・アプリシエーションは喜びをもたらすものに焦点を絞り、人間としての強さを称えるという。
何度でも思い出して立ち帰れるよう、著者の締めの言葉を置いておきます。

 真に重要なことは、心を開き、頭を柔らかくしておくことである。絶えず評価し、比較し、抵抗し、心配し、曲解するのではなく、ひたすら自分を開いておき、自分自身と自分の人生を、栄光も屈辱もすべて含めてありのままに眺め、自らを含めた万物のもつ愛に対して、例外なく、偏見をもたずに向き合うことである。
 人生の勝利と悲劇の中を進みながら、優しい気持ちであらゆるものに関わっていこう。自分には、誰とでも、何とでも、互いにつながり合おうとする性質があることを感じ取ろう。今という瞬間に気づき、いっさいの判断を加えずにいられるようになろう。移りゆく人生の全貌をそのまま体験していこう。それを変える必要はない。
 自分のことを思ってよい気分になりたいからと言って、完璧になる必要はない。人生に満足したいからと言って、なんらかの特定の歩み方をする必要もない。どんな人にも、立ち直り、成長し、幸せになる能力がある。その能力を開花させるには、発生しつづける体験に対して思いやりの気持ちとその真価を認めようとする気持ちをもって関わっていきさえすればよい。そして、もしも、自分は変わることができない、自分にはそれはつらすぎる、文化の抗う力が強すぎると感じたら、その気持ちをしっかり思いやり、そこから出発しよう。どのような新たな一瞬も、根本的に異なる在り方に向かう機会を差し出している。私たちは、人間であることの喜びと悲しみ双方を包容することができ、そうすることで人生を変容させていくことができる。

クリスティン・ネフ(2021)セルフ・コンパッション[新訳版]
第Ⅴ部 13章


👊ここまで読んで格闘ゲームに活かせそうなことを考える

ここまでの内容で活かせそうなことをピックアップしていきます。

・エクササイズ『否定的な感情や思考を変える』
・共感的な喜び
・セルフ・アプリシエーション

このあたりを格闘ゲームに当てはめて解釈していきます。

👊格闘ゲームに当てはめてエクササイズ『否定的な感情や思考を変える』に取り組んでみる

このエクササイズはやはり簡単なのが特徴で、メモとしてノート等に書いておくとセルフ・コンパッションの内容を理解した人であれば簡単に入り口に立つことができるのが素晴らしいなと思いました。

今、(    )と感じるのは、とてもつらい。
誰でも(    )と感じることはある。
今この瞬間に自分がもっと幸せな気持ちになるには、何ができるだろう?

この(    )の部分は、格闘ゲームとセルフ・コンパッションのPart①で出した例を用いると、例えば相手の技をガードしても確定反撃を返せなかったという場面や、割れない連携や強い連携でうまく対応できなかったりした時や、コンボを落としてしまった時や、昇格戦を逃したり降格戦で負けてしまったりした時など、要するに「自分の力不足」を感じた時が最もこの括弧の空欄を当てはめやすいのかなと思います。

「自分の力不足」を空欄に当てはめてみると↓

今、( 自分の力不足 )と感じるのは、とてもつらい。
誰でも( 自分の力不足 )と感じることはある。
今この瞬間に自分がもっと幸せな気持ちになるには、何ができるだろう?

というようなものになるかと思います。
もっと具体的に当てはめるとすれば「自分の知識が足りないせいで負けてしまって悲しい」とか「いつもは落とさないコンボを落として勝ち確を逃してしまって悔しい」など、個人の状況に寄って括弧の中身は如何様にも変化することでしょう。

このエクササイズは1行目で「今、(   )と感じるのは、とてもつらい」という言葉を入れることでマインドフルネスの観点から自分が今まさに感じている苦痛というのを当てはめることができること。
2行目の括弧内でも同じ言葉を当てはめて「誰でも(   )と感じることはある」という言葉を繰り返すことで共通の人間性を認識する観点から人間だから起こり得ることであるという事実を思い出させてくれること。
3行目で自分の否定的な感情を受け止めるということを思い出させてくれること。
というセルフ・コンパッションの3要素を詰まった内容なのでとても有用ですね。

3つの入り口の話でも解説した通り、どれかひとつの要素を入り口とすることで他の2つの入り口からもセルフ・コンパッションに入りやすくなるため、私は最初の1行目と2行目に括弧内に同じ言葉を当てはめるだけでも私は実際に自分のことを優しく思いやってあげたい、と思うのでセルフ・コンパッションの根幹を理解している状態であれば2行分で充分事足りるかと思います。

具体的な取り組むタイミングは人によって様々であって良いと思います。
プレマ中や配信中などの言葉を発することが多い場面では、友人や配信者の口から「分かってたのにできなかった〜」とか「押したって!」とか「やってない!」などよく聞くと思うので最初のうちはそのように口に出してみるのも手かと思います。慣れてきたらラウンドでK.O.されてしまった瞬間やレイジアーツなどの長めの演出中に「これはしんどいよな〜」と「誰でもこれはつらいって感じるよな〜」と短い言葉で振り返り思いやるのがいいかと思います。

更に落ち着いた状況で自分の気持ちをマインドフルに捉えて取り組みたいのであれば、試合が終わった直後で一息つける状況が最適だと思います。直前の試合の自分の感情をマインドフルに感じて思いやるには、試合が終わった直後がいちばん覚えていたり、プレマ中や配信中であれば反省点としてチャットをつないでる相手や画面の向こうの視聴者に向けて言葉を投げかけることで今の自分の試合で思ったことを率直に振り返ることができるので一番よいと私は思っています。

大会中などの大事な試合ではなかなか難しいかと思いますので、普段の試合の中で読み込みや演出などの時間を使って自分の直前の感情をマインドフルに捉えて共通の人間性の認識をする訓練をしていくのが大切です。


👊格闘ゲームにおける「共感的な喜び」について考える

「共感的な喜び」は、これまで学んだセルフ・コンパッションの3要素の、①優しさ、②共通の人間性、③マインドフルネス、を「他者の肯定的な資質に適用した時」に現れるものだと著者は述べていましたね。

格闘ゲームにおける共感的な喜びとは「他者の成功を事実として認め、同じ人間としての共通点を見逃さず、褒めること」で成り立つと私は考えます。

共感的な喜びはマインドフルに事実を見る目が必要で、勝利や成功といったものを意識的に認識することが重要になります。そうした上で、それに良し悪しの判断を加えずに勝利した事実・成功した事実があったとマインドフルに事実を認めること第一目標です。ここで他者の成功は当たり前だと認識したり、自分の自尊感情を守りたいがために嫉妬を募らせたり、といった、良い・悪いという判断はマインドフルに事実を捉えることとは真逆のことなので避ける必要があります。
そうして事実を認めた後は、勝利や成功があれば、人間なのだから成功体験には喜んで当然のこと、当たり前に嬉しいこと、自分の立場であってもそれは嬉しいことだと、共通の人間性の認識として認識することも必要です。
そして最後にそれを喜ばしく思うという思いやり=褒めが必要です。

これは相手の勝利や成功を妬むような気持ちがある場合は絶対にできることではないと私は感じました。本書での共感的な喜びの葛藤に打ち勝つ方法というのは具体的に記述されていないため、どうしたらそんな聖人のような心を持てるのだろうか?と私自身何度も何度も共感的な喜びなんて幻想なのではないかと考えました。(それこそがセルフ・コンパッションであり、マインドフルネスでもある、という回答なのではないかとも思いますが、なかなか難しく…。模索中です)

そんなときにふと思ったのは、ストリートファイター6のことでした。
私はストリートファイター6はプレイしたことはないのですが、鉄拳に比べて爆発的に日本で流行っているということは事実として目の当たりにしてきました。鉄拳8が発売した当初はスト6と比べると鉄拳8界隈はネガティブキャンペーンが多くて界隈を盛り上げようとする意志がないという悪い印象を与えるばかりだった暗黒時代がありました。(※発売から半年が経った現在でも完全にないとは言い切れないと思います)

これはゲームの中身がプレイヤーにとって理不尽なものなどがあったことが原因のひとつだとは思いますが、スト6の盛り上がりと鉄拳8の盛り上がりの無さの大きな違いはこの「共感的な喜び」が足りないことだったのではないかと思います。

私はリーをメインで使っているので1月に発売するゲームなのに10月になってもメインキャラがいるかどうか全く分からないというような心臓に悪い時期を過ごしていたので、11月初頭にリー参戦確定の動画が上がった時は胸をなでおろしたというような経験があり、「DLCじゃなくてゲームの初動からリーさんがいて本っっっっっっ当に良かった!!!!!安心した!!!!!嬉しい!!!!」とガチ泣きしたというようなことがあったのでゲームにキャラがいてくれるだけで丸儲けという感じでした。そんな感じなので私はとりあえず自分の使っているキャラがいるならその他のことは何が起きても大丈夫という気持ちで鉄拳8が盛り上がることを心待ちにしていました。
私自身はこのような心持ちでしたが、界隈の、主にSNSでの声は、蓋を開けてみるとアンチとまでは言いませんが愛ゆえの反発心のようなコメントや意見が溢れていてネガティブ・キャンペーンの嵐でした。

否定的な意見を言う前にここで共感的な喜びがもっと必要だったのかなと思います。

例えば最初から32キャラもキャラクターがいてくれることだったり、ストーリーが進むことだったり、超美麗グラフィックで描写されることだったり、新規のプレイヤーが増えてくれることだったり、そもそも鉄拳8として発売してくれたことに対して、もっと喜びを共有すべきだったのではないかと思いました。

スト6は風の噂程度の知識ではありますが、新しい人が入ってきてくれたことを古参の方々が喜んでくれたり、純粋にゲームが楽しいという気持ちをストリーマーの方々が共有してくれたりしたことで、界隈全体に共感的な喜びが溢れ、新規の人も古参の人もそれを受容したからこその成功があったのではないかと思います。

鉄拳8は発売してから半年経っているので新規の方を爆発的に増やすという場面はなかなか生まれづらい状況にありますが、これからの大会シーンや新規のアプデなどで「鉄拳8めちゃめちゃ面白いよ!」という意見が増えてそれが色々な人の目に止まって、また新しいプレイヤーが増えていく機会はゲームが稼働している限りはあります。

私自身は自分自身が鉄拳の新規プレイヤーとして入った時や今でも、自分より鉄拳歴が長い方々に大切に言葉をかけてくださった経験や同キャラのコミュニティーでの繋がりがあり、人との繋がりや共感的な喜びというのを共有してきたので、自分がしてもらって嬉しかった経験や褒めてもらった経験を今度は自分がお返ししたいなという気持ちがあるので、新規の方には機会があればではありますが、ご縁や繋がりを大切に、共感的な喜びをもって接したいなと思っています。
共感的な喜びという言葉が堅苦しい感じもしますが、取り組むにしてもおそらくそんなに大きなことは必要なくて、例えばSNSであれば繋がっている人の成功体験に対していいねを送ることだったり、リプライでおめでとうという言葉を伝えることだったりとか、手の届く範囲で自分の周りに対して「共感的な喜び」を伝えるのがいちばん良い実践の形だと思います。

私自身は自分と実力が同じくらいの段位の親しい友人がいないためか、SNSで繋がっている人の成功体験には自尊心が勝ってしまって素直に喜べないというか悔しいというか、平たく言えば嫉妬をしてしまったりすることが多くて、マインドフルに状況を見た上で共感的な喜びに取り組むにはどうしたらいいのだろうと悩むことが多いです。これは私自身のこれからの課題だなと思います。どうしても今のままだと成果報酬に目が向きがちになってしまったり、自尊感情という概念に縛られすぎていると感じるので、マインドフルネスを日々心がけて自分の判断や感情うんぬんでなく事実として意識的に捉えるとどうなのかという部分に重きを置いて、親しい友人以外の人にも大きな共感的な喜びを見いだせるようになれたらいいなと思いました。

👊格闘ゲームにおける「セルフ・アプリシエーション」について考える

①優しさ、②共通の人間性、③マインドフルネスの3つの構成要素を自分自身の肯定的な資質に適用すると「セルフ・アプリシエーション」になる、というのが本書の最終章の内容でした。

格闘ゲームにおける「セルフ・アプリシエーション」とは何なのか?
それは、「自分の良いところに意識的に目を向けるということ」になると考えます。

ある自分の資質を考えた時に、事実として、良い・悪いの判断を加えずにそこに確かに存在することを意識的に理解し(マインドフルネス)、他者と自分を区別せず自尊感情に捕らわれることなく、他者との類似点を理解し誰にも当人なりの強みがあると認め(共通の人間性の認識)、自分の真価を認める(優しさ/思いやり)。ということになります。

例えば簡単な例で言えば、鉄拳8でレイジアーツをガードした時の場面を考えましょう。鉄拳を少し齧った人であれば、レイジアーツという大きな技をガードした時に発生15Fの確定反撃をきっちり返すことでしょう。ただ、始めたての頃や知識がない状態でガードした時は全くできなかったことだと思います。レイジアーツのガードから15Fを返すというのは経験者からすると当たり前すぎる例かもしれませんが、これをガードしてぴったり15Fの技を返せるというスキルは経験値がある他者との類似点であり、自分もまたそのスキルを手に入れられたということとして認めることは、自分のできるようになったという真価を認めることに他ならないのです。

そのため、レイジアーツ以外にも、格闘ゲームの中で「〇〇ということができるようになった」ということは経験者や上級者では習得済みのスキルだとしても当人にとっては真価であると言えるでしょう。投げ抜けや確定反撃や横移動や上段技の行動をしゃがみで対応するなど、ゲームによっても、そして当人が使っているキャラと相手のキャラの組み合わせでも多くのパターンがあります。

ここで注意しなればならないのは前回のPart②の記事でも出てきた「成果を目標」とするか「学びを目標」とするかとの関係性です。

私はこの経験者と上級者が持つスキルを習得することは、成果目標ではないと考えています。成果とは「勝利」であり、それは単に試合の勝利や段位ポイントを得ることや段位を上げることや大会での勝利を「成果」として認識しています。
そのため、このスキルの習得に関しては「学び」の目標であると考えています。
できなかったことができるようになる、ということは自分で考えて練習したり、他者から教えてもらって練習したりといった中から生まれて、それができるようになるために多かれ少なかれ練習や経験を積んだ結果だからです。これは間違いなく「学び」の目標であり、セルフ・アプリシエーションの立場では真価を認めるということに他ならない要素だと思います。

そしてもちろん、「条件つきの自己価値」というものにも捕らわれないことも勿論重要となってきます。経験者や上級者でも人間だからこそのミスはあるものであり、それは自分自身にも適用されます。たとえ失敗したとしてもそのことで自分のことを責めたり自己批判したりせず、失敗は優れた教師であると思い出し、〇〇ということができるから自分は素晴らしいとか、〇〇という段位にいる自分は素晴らしい、というような条件づけは必要ありません。スキルの精度はこれからいくらでも上げていけるものですし、できないことができるようになったという事実や、たとえその時は失敗してしまったとしても、そのスキルにつながる知識を持っているという事実にフォーカスしてマインドフルに事実を見つめることが推奨されるでしょう。




〜Part③を終えて〜
これにてPart①〜③にかけて取り上げてきた格闘ゲームとセルフ・コンパッションの記事は終わりになります。
今回の内容では本書のタイトルにもあるように「蛹から蝶へ」というテーマがあったように、Part②でもPart③でも前回・前々回で解説した内容をもとに格闘ゲームにおける〇〇とは何なのか?という部分に焦点を絞って、要約と共に私自身の解釈を述べることになりました。内容としてはやはりPart①が最も重要であり、理解しなければ先に進めない部分となっているため、それを書き上げた後にPart②やPart③で取り上げた本書のより専門的な内容や研究をまとめた上で格闘ゲームだったらどうなるだろうという部分を書いたので、私自身全ての内容が最後まで密接に絡み合っているということをひしひしと感じることになりました。
数あるゲームの中の格闘ゲームを選んだことで私は自分自身の自己批判して前に進めなくなってしまうという欠点をなくしたくて読み始めたものでしたが、自己批判してしまうという欠点をなくすのではなく、セルフ・コンパッションによって包み込み、前に進む活力を生むのが主な内容だったため、自己批判をする自分を自己批判するというようなループに陥りかけていた私にとってはとても救いになりました。こうして記事をまとめるに至りましたが、まだまだ自分の中ではセルフ・コンパッションの内容は理解しても本当に泣き出すくらいつらい場面でマインドフルに状況を捉えることができなくて活かしきれていないので、思いやる気持ちや共通の人間性の認識といった入り口からマインドフルネスにも取り組みやすくなり、最終的にセルフ・コンパッションの真価を引き出せるようになったらいいなと思いました。
また、本書を読んだことで次々に読みたい本が増えて実際に勝った本もたくさんあるので、機会があれnoteの記事で紹介できたらいいなと思いました。ダニエル・ゴールマンの『EQ──こころの知能指数』、マルクス・アウレリウスの『自省録』を分かりやすくまとめた超訳版、同じく超訳版の『世阿弥 道を極める』、イーサン・クロスの『Chatter 「頭の中のひとりごと」をコントロールし、最良の行動を導くための26の方法』などの本を買ってみました。その他にも本書のクリスティン・ネフ氏の名前で出ているセルフ・コンパッションの本などもあり、より新しい年代に出版されたセルフ・コンパッションの本も気になるので、自己批判にはやはりセルフ・コンパッションの考え方が必要だとなればまた買って試してみたいと思います。

要約や記事まとめとしては未熟な部分が多々あったと思います。私自身たくさんのことを調べながらの記事となったため、学びながら書いた部分もたくさんありました。自分から書こうと思ったものですが、記事を書こうと思ってから自分のものの見方や考え方をセルフ・コンパッションに当てはめたらどうなるだろう?ということを記事にするにあたって改めて頭で理解しながら本書を読み込み、自分の解釈を述べるという工程を経てようやく最後までたどり着くことができたので、自分の読解力と理解力、そして応用力と想像力を試すような機会だったので有意義なものでした。
私自身が頭が堅く、理屈っぽい性格をしているため、とかく文章が長くなるのが難点ですが、それでもついてきてくださった方には感謝の意を表明したいです。
本当にありがとうございました🙇‍♀️

最後に本書のリンクを貼って終わりとします。
自己批判に悩んでいる方がいましたら是非お試しください📚


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