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無言 20

今日もホカホカのカレーパンをリュックの中につめて帰宅する。もう夏と言って良いほどの日差しで、汗が額に滲む。左手から杖を離し、鍵を取り出して鍵穴に差し込む。何のことはない一連の動作だが、細かい動きが下手くそな僕はその作業にもまあまあな時間がかかってしまう。鍵は落とさないようにリュックから鍵用のキーホルダーで繋がっている。引っ張ると伸びて便利がいい。例えツルッと手から鍵が滑り落ちたとしても、床に落ちることはない。落ちた鍵に、大きなため息をつきながら悪戦苦闘し、必死にとらなくても良くなった。誰がこんな便利なものを作ってくれたのか。僕にはなくてはならないものだと思う。ついこないだまで存在すら知らなかったモノではあるけれど。

突然の再会の衝撃で、すっかり冷めたカレーパンを食べたあの日からしばらくして、息子と孫は、尚子と連れ立ってまたやってきた。家に入ってもらうべきか。でも、この狭い家に。と思っていたら、近くのファミリーレストランに行こうと言う。どうやら、孫がお気に入りのお店なんだそうだ。自分にとっては記憶にないくらい久しぶりにファミリーレストランに入ると、よっくんは店員さんが持ってきてくれたアンパンマンの塗り絵をしだした。色鉛筆を握る小さな手が描く色とりどりな線に見とれていると
「おじいちゃん。」

と何の屈託もなく呼びかけられる。
「?」
よっくんのまんまるな目とがっちり目があった。あ。僕の事なのか。その呼び方に全く慣れなくて、どう返していいものか面食らっていると、尚子は声を立てて笑った。

「私の今の旦那さんは、さーじいちゃん。って呼ばれてるし、もう一人のお嫁さんの方は、ゆーじいちゃん。だからね。あなたは、何て呼べばいいか聞かれたから、おじいちゃん。でいいんじゃない。って言ったのよ。」

隣で息子がうなずいていた。さーじいちゃんは、息子の今のお父さん。会ったことはないけれど、きっと穏やかな人に違いないと思った。でなければ、尚子も正人もこんな優しい顔をして、僕の所に来るはずはない。尚子と病院で再会してから、今の旦那さんは、僕の所に来ているのを知っているか。と聞いたことがある。
「知ってるわ。私一人ではどうすることもできなくて、悩んで相談したら、行っておいで。って言われたのよ。」
少し遠くを見るような目をしながら彼女は答えた。
ああ。いい人と結婚したんだな。と思った。僕と尚子と正人と3人で暮らした短い時間の何倍もの時間をさーじいちゃんは共に過ごしていて、今更僕が、おじいちゃんと名乗れるはずもない。そんな資格があるはずがない。それでも、それでいいという尚子と正人。夢でも見てるのではないかと思った。おそらく、まだ僕は目覚めていなくて、こうなればいいという夢の中にまだいるんだ。ファミリーレストランも。塗り絵をするよっくんも。笑う尚子も、うなずく正人も。起きたら消えてしまうんだろう。尚子と別れてから一人で生きてきて、誰とも生活を共にしようと思ったことはなかったはずだが、やっぱり僕は寂しかったって事なんだろうな。家族が恋しかったのかもな。
「…ちゃん。おじいちゃんっ!」
よびかけられて、思考のスパイラルから引き戻される。よっくんは少し怒っているようだった。どうやら何回も呼んでくれていたようだ。小さなゼリーを僕にさしだしてくれてる。ん?僕にくれるの?とっさには声がでなくて、ジェスチャーで聞いてみる。
「うん。おじいちゃんにあげる。」
「あ。り。が。と。」
ゆっくり手を開くと、アンパンマンがかかれたゼリーをポンッと渡してくれる。早く食べて。と言わんばかりに僕をみるので、その包みを開けたいけれど、片手で開けるのはむずかしい。ゼリーを手のひらで転がしながら、何とかして開けられないか考えていたら
「かして。」
向かいの席から正人が手を差し出す。僕の手よりも大きいその手にゼリーはひょいと持っていかれて、蓋を剥がしたゼリーは再び僕の手の上に載せられた。
「あ…りがとう」
小さなゼリーを口に放り込むと、ツルンと口に吸い込まれたりんご味のそれは舌の上でやわらかく溶けて行った。
「おいしい?」
隣からよっくんが首をかしげながら上目遣いで聞いてくる。
「うん。」
とうなずくと、
「はー。良かった!」
とはずんだ声が帰ってきた。満面の笑み。心から安心したといった表情に声。尚子も正人も、そんな3歳の多少オーバーなリアクションについ吹き出してしまっていた。3歳は役者だった。僕のなかにある気後れも、後ろめたさも、どう振る舞っていいか戸惑う気持ちも、すべて彼の一言で笑いに変えて、その場にいた皆をなごませてくれた。彼は偉大だ。

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