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無言 28

やりたい気持ちのその先へ踏み出した。ずっと誰かに道筋をつけてもらった所を歩き、受け身だった毎日から、主体的に動かねばならない「働く」という感覚。週に3回薔薇園で出荷作業の手伝いをする。納品書を印刷してチェックして、出荷する花をピックアップして発送する。なんでもない作業に馬鹿みたいに時間がかかる。仕事が終われば、頭は疲れるわ、身体は重いわで、家の玄関にたどり着いたら崩れ落ちてしばらく立ち上がれない。そのままご飯を食べることもせずに寝てしまったこともある。夢に仕事が出てきてうなされて起きたりしながら、また体重が減ってヘルパーさんに「ちゃんと食べて!」と怒られたりしながら、僕は薔薇園の仕事に少しずつ慣れていった。

朝、玄関を出ると「寒っ」と思わず言ってしまう程の寒さが緩み、いつの間にか春の暖かさを感じるようになってきた。知らないうちに季節はめぐる。

「もうすぐ1年ですね」こないだの訓練の時、僕が持って行った薔薇をガラスの花瓶に活けながら佐々井さんは言った。

尚子が持ってきた鉢植えの薔薇はしばらく花が咲いてなかったが、大事に訓練室に飾られていた。新芽が伸びてきて一回り成長したように見える。

ぐるぐるとブラックホールのような所に落ちていく夢を見ていたようなわずかな余韻の末に今日も目覚める。すっきりしない僕の気持ちとはうらはらに太陽は暖かく、まぶしい。つけたテレビの中で、春色の薄いピンクのコートを羽織ったお天気お姉さんが、桜の開花が近い事を伝えていて、思わずカレンダーを見返した。
そうだ。もうすぐ3月は終わるのだ。新しい春がやってくるんだ。長い眠りから覚めて、長い病院生活に別れを告げたのは去年の春のこと。あれから1年が過ぎたのだ。カレンダーの予定に、デイケア。ヘルパーさん。病院。そして仕事。と書くようになって数ヶ月。カレンダーの僕の予定はビッシリだ。何も書かれていないのは日曜のみ。その日曜も息子や孫が来る予定があったりで、瞬く間に一週間が過ぎていく。こんな僕が行く場所があること、来てくれる人がいること。
考える時間もないほどに日々は過ぎていく。めまぐるしく。
重力に逆らって動くことがこんなにも大変なんだと思い知った病院での日々に比べたら、たとえどんなにゆっくりでも自分の力で歩き、毎日の色んな出来事を昔の何倍もの時間を費やしながら、それでも踏みしめて生きている今。小さなことの積み重ねが今だし、今日だし、明日だな。と思う。




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