フィールドノート未満のこと

あれはいつだったか。スペインにいたとき。スペインに到着して間もなくか、まもなく帰国か、たまたま村を離れたときだったか。いずれにせよマドリードだったことだけは覚えている。道も覚えていないのだから、まだスペインにも慣れていない頃だったろう。

ものすごく寒い日だった。

どこに行く途中だったのかもわからないけれど、マドリードのどこかの広い道。
スペインの街路は、新しいものはコンクリートで舗装されているところもあるが、石で舗装されているところも多い。石の舗装には自動車が削ったのか、馬車が削ったのかわからない轍が残っているが、とにかく石の地面というのは恐ろしく冷たい。私が仮住まいしていた家の床も一面が石だったので、冬は靴下を常に重ねて履いていた。スペインでも律儀に玄関で靴を脱いでいた私だったが、一番寒い時期に限っては家の中でも靴を履いて、石の冷たさから肌を遠ざけようと工夫していた。

マドリードのその道は、もちろん吹きさらしでものすごく寒かった。さすが内陸。京都も内陸だけれど、列島の内陸と大陸の内陸はだいぶ違う。イベリア半島の内陸は、滅入るくらい寒い。スペインを「太陽の国」なんて呼び始めた人は、たぶん、スペインで1年間過ごしたことがない。

そんな極寒の道の片隅、教会の前で一人の老婆が毛布に身を包んで手を差し出していた。スペインの都市ではよく見る光景ではある。おそらくホームレスなのだろう。毛布といってもボロボロで、風下から老婆の方向に歩いていた私の鼻腔にも、凝り固まった汗のにおいが届いていた。部活の後の運動着を洗濯機に放り込み損ねた、あれを煮詰めたようなにおい。当時の私も、自分から近づこうとは思えなかった。

家賃400円の、屋根と壁があるだけ外ではないと言えるような学生寮の部屋に住んでいたこともあった私だが、全く家がないという状況になったこともなかった。その老婆のような人を見たことがないというわけでもないけれど、理路整然と並んだ石畳の上で、立派な教会に見下ろされながら毛布で北風をしのぐ老婆は忘れるに忘れられない。
もはやその老婆が、なんと言いながら道ゆく人に手を差し伸べてお金を求めていたのかも覚えていないのだけれど。

視界の片隅に老婆を捕らえながら私が歩いていると、通行人の一人が老婆の手に小銭を差し出し、スペイン流のキス(beso)を交わした。右頬どうしを突き合わせて「チュッ」と音を鳴らし、左の頬どうしを突き合わせてまた「チュッ」と音を鳴らす。それがスペインの挨拶。
そして老婆を後にし、その人物はまた通行人に戻っていく。

二人の間に何か言葉のやり取りがあったのかどうかもわからない。
でも、これは直感だけど、うまく言語化できないけれど、ちゃんとそこには一人の人間と一人の人間のやり取りがあったと思う。
両頬を突き合わせるスペインの挨拶は、男女間か女性同士で行われることも多いが、親しい人物同士などでも行われることだ。

あの一瞬の、老婆と通行人はどんな関係だったろう。

私たちはつい、自分のことも、相手のことも、肩書きで考えてしまう癖があるような気はしないだろうか。

学生、会社員、公務員、政治家、医者。誰かの子や親、キョウダイ、妻や夫、友人、性別。挙げ始めるとキリがない。

自分自身が自分自身であるということ、相手が自分と同じように相手自身という存在であること、違う方法ではあれど、感じて、考えて、存在しているということ。肩書きではなく、相手が自分のように在ること。
それをついつい忘れてしまっていないだろうか。

かくいう私も、スペインの雰囲気を少しずつ擦り減らして毎日を過ごしている。スペインで暮らしていたことはすごく、この上なく辛かったけれど、私のことを東洋人、日本人、人類学者という肩書きを傍に置いて「リン」として扱ってくれていたような気がする。
日本に帰ってもそれだけは忘れずにいようと思っても、ついついその感覚すら擦り減らしてしまうのは残念なことだ。今は、その感覚を理想としてのみかろうじて心の中にもっている。情けないことだ。

マドリードは(私が暮らした村に比べて)とても都会で、東京とは違ったゴタゴタとした雰囲気がある。グラン・ビアやソルといった中心地は荘厳な石造りの建物で整っているのだが、少し脇道に逸れると屎尿と大麻のにおいがこびりついている。いい意味で、包み隠しがない街だと思う。
私も、私に対峙した人に対してはそうありたいと願う。

願っている限りは達成されていないということなのだが、私にはそうやって足掻いているくらいがちょうどいい。

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