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無名の私でいい

今日も今日とて、パソコンと紙に向かう。本を読んで、論文を読んで、書く。それが私の日常だ。朝、昼、晩とほぼ毎日。毎朝、鏡の前に疲れ顔の人間が映っているのがみえる。

読んで、書いて、腰が痛いとぼやいて、また机に向かう。この作業に取り掛かるまで、2年間を費やしてフィールドワークをしてきた。

それが研究という、文化人類学という、私が身を置いている世界だ。

「研究をしています」というと聞こえはいいかもしれないけれど、
研究者というにはまだまだ青二歳だ。文系の博士課程。おまけにアラサーだ。
「あなたは何をしてる人なの?」と尋ねられると、急に答えに困ってしまう。

研究はしているけれど、それで身を立てているわけでもない。
生活するだけの収入をギリギリ得てはいるけど、社会人でもない。

とりあえず「スペインに住んでました」とか「論文を書いてます」とか、そんなことを返事の代わりに突き返しておけばその場はやり過ごせるけれど、そんなのは何の説明になってもいない。
下手な説明をしてしまうと、「それが社会のなんの役に立っているの?」という鋭い、私の身と心を切り裂くほど鋭いツッコミを喰らうことになる。

なぜ、途方もない時間をかけて研究をしているのかというその理由は、「世界をどうにかしたい」というところにある。

人文科学、いわゆる文系の研究は役に立たない、社会の役に立っていない。そんな世の中はどうかしている、と思う。

たとえば歴史を語るひとがいる。それが「〇〇という出来事はどういうものか」とか「〇〇に原因がある」とか、本質や因果関係を説明することがある。私も、そういう簡潔で説得力があるまとめに頷くこともある。
でも、その歴史はその人物が集められる範囲の資料からしか語ることができない上に、そこにその人物が語りたいことが全て現れているわけでもない。より悪いケースを想定してしまえば、それが全くの捏造である可能性だってある。
歴史の中で消されること、誰かの目的のために利用されることは、お金を稼ぐとか、技術が発展するとか、そういうことよりもずっと人間の本質を揺るがす。人間は、人間であることをやめられないのだから。暖かな午後の昼寝のように、いつやめてもよい、というものではない。24時間365日、ずっと付き合わなければならない問題なのだから。

私がどうにかしたいと考えている世界は、どんなものか。

私の目には、現在私たちが生きているこの世界は均質化の方向に向かっているように思われる。世界中でインターネットが普及して、世界の誰もがスマホを持って、SNSを更新して、チャットをして、Amazonが欲しいものを届けてくれる現代。日本全国にあるコンビニで、北海道でも沖縄でも同じ商品が手に入る不思議な世界。
あるいは、それらが普及していることが当然であると思い込んでいる世界。お金をより稼ぐことが幸せである世界、だから人文科学は二の次でいい、という世界。

みんなが同じ方向にまとまるのは、よいことかもしれない。うまくいけば世界が平和になるかもしれない。
それが理想かもしれないが、ひとはみな、いろんな性質をもっている。日本人の私、長男の私、誰かの友達の私、研究者の私。この小さな私だけでも、数えきれないものをもっている。こういう積み重ねが、ひとを面白くすると思う。それは大切にしていく、尊重する必要があるんじゃないだろうか。
だから、あらゆるひとが同じ価値を目指すことがよいことであったとしても、それがいったい誰にとって「よい」のか、その少数の「よい」のために大切なものが奪われていないか。
そういうことを考える、それは長い長い時間をかけてでも、考えること。
それって、本当に必要がない営みなのだろうか。

…ここまで書いてきたけれど、それは正しくて、全てではない。
そういう世界をどうにかしたいという気持ちはあるけれど、本当は、弱気で惰弱な自分をどうにかしたいだけなのかもしれない。
本当は、研究よりも楽しいことなんてたくさんある。研究に身を置いているから入ってくる情報もあれば、それで悩んでしまうこともある。悩みなんて全部どこかに投げ捨てて、誰かが解決してくれるのに期待して、自分は趣味に没頭して友達と遊んでいたい。みんなと同じように働いて、みんなと同じような悩みで愚痴を言い合って、どうせ頑張ったところで、世間は顧みてくれないんだったら勉強する時間を遊びにでも充てていたい。

でもそんな自分が嫌いだから、全てを投げ捨てた時に私に残るものはなんだろうと考えるのが怖いから、わずかでも積み上げてきたものが崩れるのが怖いから、自分で研究に身を置いておくことを選んでいる。文字通り、一銭にもならないことに人生を賭けているのだから、自分がやっていることを正当化したい。ただそれだけのことかもしれない。

こんなことを書き残したら、研究者からは怒られるだろうか。
でも、この文章が私の本心であるのかどうか、どこまで真実で信憑性があるのか無いのか。それを判断するのが難しいということは研究者の方がよくわかっているはずだ。ただのレトリック、気まぐれにすぎないかもしれない。

それでも、どちらかというと私にとっては真実だろうなと思えるところには、たどり着いている。
研究は確かにしんどい。死にたいと何度思ったことかわからない。みんなと同じ道を選ばなかった過去の自分を何度恨んだか、数えていたら日が暮れそうだ。
そのうえで、自分が納得する形であるかどうかはさておき、自分がそうありたいという状態に、そのための上り坂に自分を置いていることくらいは誇ってもいいんじゃないかと思う。それは他でもない自分が決めることだから。そこには肩書きも、他人の評価もいらない。

自分がどうありたいか、というこのお題に対しては、こう書き残しておこう。

「悩める自分でありたい。」


#なりたい自分

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