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大学院、修士1年目を終えて

2021年4月に一橋大学大学院社会学研究科の修士課程に入学し、あっという間に1年目が終わりました。まだ春休み中で事実上学年は修士1年ですが、1年目のすべての授業が終わったので、勝手に総括しておくこととします。笑

今春、桜が散りかけた国立キャンパスに初めて一人で足を踏み入れ、友達も知り合いも誰もいない、あのコンフォートゾーンから抜け出した直後の居心地の悪さと適度な緊張感を昨日のことのように思い出します。

今となっては修士課程の同期、ゼミの先輩や教授に恵まれ、充実した院生生活を送ることができています。
入学当初に抱いたあの居心地の悪さを知らない間に拭い、キャンパスがすっかりコンフォートゾーン化したのも大学院での「人」との出会いであったことは間違いないです。2020年、突如コロナ禍で学生身分、そして卒業後の所属先の両方を失った時とは比べ物にならないほど、人との出会いや幸福感に溢れていました。出会ってくれた全ての人に感謝しかないです。(まだ修了しませんが。笑)

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大学院の同期

西キャンパスの景色の変化から美しい四季の移り変わりや風情を感じ取りながら、学部時代まともに学問をやってこなかった空っぽな自分の脳内に知識をなんとかチャージしようと、図書館から大量の本を抱えながら反対の東キャンパスにある研究室へと歩く。授業で「当たり前だよねこの知識」「もちろん読んでるよねこの本、知ってるよねこの理論」と前提ありきではじまるディスカッション。難解な文献のレジュメづくり、大量のリーディングと予習に追われる授業準備。脳内を混乱させながら、適度にドーパミンを出しつつ、慌ただしくも修士1年目らしい(?)日々を過ごせました。

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お気に入りの西キャンパス、一橋大学付属図書館

「文系修士なんて意味ない」のか?

「文系で大学院なんていってどうするの?」「はやく就職しなよ」文系大学院生なら一度は直接的、あるいは間接的に投げかけられる言葉ではないでしょうか。単に大卒後に就職することが御の字であれば、文系で大学院に進学することはベストな選択ではないですし、実際に文系修士は日本の就職市場で(一部の業界や職種を除いては)大幅にプラスに働くことがないのは事実です。

先日、こんな記事が話題になりましたが、日本は世界でも稀に文系院生が少なく、社会的にみても専門性を求めない風潮があるようです。

大学卒業者のうち、大学院(および専門職学位課程)に進学するのはおよそ10人に1人。出身学部の分野別に見ると、理学40.3%、工学35.6%、農学22.7%に対し、人文科学4.1%、社会科学2.2%と、いわゆる「文系」での進学率は極めて低く(「令和2年度 学校基本調査」)、文系での修士号保有者は、諸外国と比べても圧倒的に少ない。そのひとつには、就職活動などで大学院での経験が重視されにくい状況があるという。

ちなみに日本の女性の大学院進学率はわずか5.7%男女共同参画白書 平成30年版)らしいです。 しかし、時に肩身の狭い思いをしながら日本社会全体でみたら圧倒的マイノリティな文系院生として1年間過ごす中、私はそれでも「大学院にきてよかった」といいたいです。

人類の歩んできた歴史や社会の仕組み。知っているようで全然知らなかったこと。理論や先人たちの研究に触れ、解像度をあげていく。そのプロセスを通じて、結果として自分が研究をすることで世に何を提示していくのか?を熟考する。そのために院生や教授と議論し、とことん探究することができる貴重な機会であるのが大学院で、その中身や実態を知らずにただ市場価値で図られ「意味がない」ものとされてしまうのは、どこか不甲斐なさを感じます。

学部ではカリキュラム化されたシラバスの中で「専門性」を極めることが難しかった私も、大学院ではとことん最新研究動向に触れ、先行研究を批判的に分析し、現代の事象やトレンドと合わせて「自分が何を独自的に生み出せるのか」ということをひたすら思考できましたし、それが単純に楽しかった1年間でした。

別に誰かにやれと強制されるわけでもなく、教授に自分から積極的に質問し、先輩や同期を巻き込み、情報収集を重ね、外部のセミナーに参加したり、学会発表などで発信機会を自らどんどん獲得していく。そんな「自主性」と「好奇心」にとことん委ねられた環境こそが大学院、そして研究の場です。「文系修士に意味があるかないか」を現場の実態を熟知していない側から、また「市場価値」で測られてしまう社会にはどうしても違和感を覚えてしまいます。

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絶妙なクオリティの噴水前は読書スポット 

企業の雇用形態がジョブ型雇用に次第にシフトしていく中、リカレント教育の潮流も少しずつですがジワジワと日本にもやってきているので、文系理系にとらわれずに好きなことを、好きなタイミングで学び、研究する。そんなことが当たり前な豊かな社会になっていったらいいなとは密かに思っています。

*ちなみに大卒後にストレートで院進するとプラス2年間、親のスネをかじることにもなるので、それに引け目を感じる人も多いかもしれません。しかし実際一定の条件を満たせば学費や学生寮費が免除になる制度、民間奨学金制度もあったりします。政府がやっているJASSO奨学金は貸与型ですが、成績や修論の評価によっては全額、あるいは半額返還免除になる制度があります。自分は返還免除を密かに狙いながら、またそれをモチベーションに勉学に励んでいます。(もっと他にも色んな種類の奨学金制度が充実してほしいな、と率直には思いますが...)

そもそも大学院に進学した理由

(1)Black Livers Matter運動がもたらした衝撃
2020年、George Floydさんの警察暴力死を契機に全米、そして全世界に波及した反人種主義運動であるBlack Lives Matterは、私自身に「もっと学びたい」という知的好奇心を再燃させました。

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もともと大学3年のときに米ジョージア州、そして南アフリカに「人種差別問題を学ぶ」をテーマに留学し、留学中には黒人への警察暴力事件や、南部社会の奴隷制の歴史的遺産を痛烈に感じていました。それらは目を背けられない実態ではあったものの、たかが留学生であった日本人の私には目の前に起きる課題をただ傍観することしかできないでいました。

しかし、この事件を契機にBLM運動が再燃し、日本でも大々的に報じられる中で「今自分の見てきたもの、学んできたものを発信する機会なのではないか」と思い、すぐにSNSで記事を書き、オンライン講演をする機会にも恵まれました。

専門家でも全くなかったものの、このように自分が関心を持ってきたテーマに対して世の中の注目が集まったこと、そしてBLM運動がこれまでにない規模で再燃する中で「この問題を学び続けなければいけない」という使命感を覚えるようになりました。

日本の大学院では学ぶことが難しいのかと思いきや、たまたまアメリカ史のコースが一橋にあったこと、そしてピッタリな指導教員が見つかったことが進学の決め手になりました。

(2)大西洋奴隷貿易 / 奴隷制の歴史への関心
BLM運動の中で、奴隷商人や植民地者像の倒壊運動が起きたことは記憶に新しいと思います。別にこの運動は2020年のBLM以前から起きている脱植民地化運動ですが、BLM運動を契機に植民地支配、奴隷貿易をはじめとする「負の遺産の清算」が加速化したことは事実です。

そのような中で、アメリカにおいて、また世界的にも人種差別を生み出した負の遺産としての「大西洋奴隷貿易や奴隷制の歴史」を再検証する動きが盛んになっていきました。

米南部に身を置いていたものとして、また以前からアフリカン・ディアスポラ(世界中に離散せざるをえなかったアフリカ系)の歴史に関心をもっていた者として、2020年のBLM運動以降に大西洋奴隷貿易の歴史を検証する意義があるのではないか、と思うようになり、修士論文として研究したいと思うようになりました。修論の内容は、なかなか面白いアイディアを構想しているので、後日別記事にでも書きたいと思います。筆が止まらないので。笑

修士1年目で取り組んだこと、挑戦したこと


てな感じで、研究に高いモチベーションを持って入った大学院でしたが、1年目の春夏学期は知識のなさにけちょんけちょんにやられました。学部時代にちゃんと学問をやらなかったツケが回ってきたのか。周りが頭がいいのか。はたまたその両方なのかは分かりませんが、授業で読んだ本たち(うる覚え)を紹介する形で、修士1年目にどんなことに取り組んだのかざっと振り返ってみます。

(1)社会科学の基礎を叩き込む

(2)アメリカ史、歴史学の基礎を叩き込む

(3)触りで専門性も深める、最新の研究動向に触れる

2020〜2021年にかけて関心に沿う書籍が次々と刊行されたので、それをすぐに図書館に購入リクエストしたり、恵贈いただいたりしたので、専門家のもとで最新の研究動向に触れることができたのは、大学院の醍醐味であると思います。

(4)科研・奴隷制研究のリサーチアシスタント

奴隷制研究に熱中していたところ、指導教員の紹介で科学研究助成事業の奴隷制研究の情報収集を担当することになりました。奴隷制研究の最新著書やミュージアムを私は毎週データにまとめています。

今月はじめたばかりなのですが、上記HPに情報が更新されていく予定です。最新の研究動向を最新書籍から知っていける仕事をいただけたことは大変ありがたいことで、とても楽しく日々情報収集しています。

(5)共著論文、共同執筆する著書

まだこれは着手したばかりですが、研究室の同期と共著論文の執筆や、研究室の学部生・院生と共同で「レイシズム」に関する本を共同執筆する予定です。院生でありながらも世の中に学知を提供していく一端に携われることはとても有難いことです。そして、本の刊行は容易いことではないと早々痛感しているので、修士2年で果たしてどこまで到達できるか、乞うご期待です!(修論やれ)

(6)初めての学会発表

まだ修士1年で若手研究者と名乗るのはおこがましいですが、2022年3月15日に早稲田大学ナショナリズム・エスニシティ研究所(WINE)主催の、第2回若手研究者研究発表会にて、研究内容を発表させていただけることになりました。普通は研究した成果を発表するのが学会だと思いますが、修士1年目なので、「発表するために研究する」という逆説が生じてますが、修論に関連する内容なので、この発表機会を活用して研究をどんどん進めていこう、という自分自身の狙いでもあったりします。

表題は「アメリカ合衆国の奴隷制と人種資本主義ー米国最後の奴隷船・クロティルダ号の歴史からの検討ー」で、今から内容を詰めていますが自分でいうのもなんですけど、結構面白い内容になりそうです。記念すべき学会発表デビュー意気込んでいきます。

(7)仕事と勉学の両立

正直大変だったのは、非常勤で働いているあしなが育英会での仕事と勉学の両立でした。あしなが育英会では、去年からアフリカ事業部でAshinaga Africa Initiativeという、サブサハラ以南アフリカから世界の大学に遺児を留学させ「次世代リーダーを輩出する」奨学金プログラムの奨学生採用担当を務めています。

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多国籍の採用チームで日々業務に追われながら、勉学を続けるというのはタイムマネジメントやマルチタスク能力に欠ける私にとってかなり挑戦的でした。ですが、「アフリカ系の人々のために働く」という自分の情熱はそれを克服しようと懸命になれる不思議な作用を働かせました。

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プロジェクトマネージャーとして企画した応募勧奨Webinar

やりたいと思ったことは「やってみなよ!」と背中を押してくれ、部下のハードスキル、ソフトスキルの研鑽への投資や期待を決して惜しまない優秀で部下想いな上司の元で働かせてもらえたことは、今後どの進路にいっても財産となることは間違いないです。そして、おかげで海外渡航を全くしなくても英語を忘れずに済んだのでそこも大感謝です。(ビジネス英語の略語はだいぶ身についたな。FYI, PIC, AOB...その他もろもろ。ありすぎだろ。笑)

(8)外部への発信活動

色んな機会に恵まれ、ありがたいことに様々なメディア媒体で発信させてもらうこともできました。大して誇れる実績もなく挫折や失敗ばかりですが、このように自分の体験や考えを言語化してもらう機会をいただけることのは単純にとても嬉しいです。

• Black Lives Matter東京 Real Talk「日本とアメリカでの人種差別」

リクルート進学総研 キャリアガイダンス vol. 436 2021年2月
 『まじめで素直でおとなしい生徒の可能性をどう拓く?』

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学生新聞 Campus Scope 45号「あきらめず前へ、コロナが変えた進路」

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来年は都内の高校で出張授業をトビタテ生の同期と行う予定なので、楽しみです!オフラインでの講演は久しぶりだし、母校以外には行ったことがあまりないので、どんな高校生に会えるのか今からワクワク。

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修士2年目、修了後の自分


修士1年目を経て、精力的に動き回りながらも研究や学問の楽しさを大いに見出せました。「このまま専門を極めて研究者になることを志したい!」ところですが、現実問題ストレートで博士課程にいくことは100%確定&確信できていません。いずれかは博士論文を書いて堂々と専門家といえるほどの知見を蓄えたいし、好きな領域を専門とし、それを価値とされ、対価としてお金をいただける研究職は魅力的であることは間違いないです。

しかし、まだまだ20代前半である今、大学や学問以外の世界に足を踏み入れてみたいという好奇心もあるので、修了後の進路はまだ迷走中ですがいったん働くことを今のところは考えています。(最近まで博士課程の進学を前向きに考えていたのは正直なところ)

加えて、研究だけではなく実務家にもなりたいと考えているので国際公務員になることもまだ実は考えています。というかずっと頭から離れないです。コロナ禍で一旦は諦めた進路だけれども、人生で一度は国際機関で働いてみて、そこでしかできないこと、出会えない人、見えない景色を堪能してみたいし、高校時代からの目標はそうそう諦められるものではないと最近気づきました。世界で経験を積んだ後、実務家兼研究者としてアカデミアに戻ってくるのも選択肢として十分あるな、と思っています。

どちらにせよ長期的には「Global South、特にアフリカ系の人々のために働く」ことは決めていて、今大学院ではアフリカ系の人々をめぐる課題の代表的なものである大西洋奴隷貿易、奴隷制の歴史、そして人種差別、人種格差問題を自分の最大の関心に置いて学んでいます。将来的にはダブルマスターとして海外大学院にも行ってみたいな〜とも構想中です。(いったい何歳まで冒険し続けるつもりなんだろうか)とはいえ、人生やりたいこと盛りだくさんです。

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てな感じで、めっちゃ雑に修士1年目を振り返りました。まだ不確定で迷走中なところも、大学院生として不十分な知識量な自分であることは事実ですが、修士課程最後の年を迎える来年に向けて、自分に投げかけられた問いかけであると感じた、ある本の文章を引用して締めたいと思います。

私にとって人類学とは、こうした想像力と経験の関与を養分として成長するものである。それが提供してくれるのは、知識の産物へと転じる情報を求めて熱心に世界を浚渫し、他の諸学の貢献に加えられるような知識の量ではない。私の人類学の流儀は「知識生産」という仕事の中には全くない。(中略)私たちには、知識に劣らず知恵が必要なのである。現時点で、そのバランスは知識に圧倒的に傾いており、知恵からは遠ざかってしまっている。これほど知識が溢れているのに、それが知恵に結びつかない時代は、実際これまでの歴史にはなかった。そのバランスを回復すること、つまり科学によって伝えられる知識に、経験と想像力の溶け合った知恵を調和させることが人類学の仕事であると、私は信じている。(ティム・インゴルド著 / 奥野克己訳『人類学とは何か』2020, 亜紀書房, P.13-15)

大学院では時に「知識」お披露目合戦ともなってしまう議論や、歴史学においてもどれほど「知識」を持っているかが問われることが多くて(要するに「知識」がアクセサリー化してる)精神的に疲弊するとともに、Googleがなんでも知ってる情報化社会にわざわざ「知識」を誇示する意義はどこにあるのか?と違和感をもっていました。(あと単純に自分の記憶力悪すぎて知識追いつかない。笑)

知恵があるとは、思い切って世界の中に飛び込み、そこで起きていることにさらされる危険を冒すことである。それは、私たちが注意を払ったり、気にかけるために他者を目の前に連れてくることである。(同書, P.14-15)

だからこそインゴルドがいうように「知識」だけではなく「知恵」を身につけ、研究を「知識生産」とするのではなく、経験と想像力を調和させた「知恵」の産物とできるように、研究対象のいるフィールドに入り込み、人類学の教訓を活用した歴史実践をできたらいいなと思っています。
(果たして無事修論は書けるのだろうか・・・)

てことで来年もがんばるぞ。

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