君は感情を知らない


ほとんどの人が、概念に囚われている

そして苦しんでいる。


ここでいう概念とは、

「辛い」「悲しい」「エモい」などの感情

「うつ病」「HSP」「吃音」などの病名


概念に囚われる事で、短期的には幸せになれると思う。


概念とは、存在しなければ定義できない。

「エモい」という言葉が存在しなかったころ、「エモい」空間に居たらきっとこう言うだろう。「懐かしい」「落ち着く」「なんか良い感じ」「感傷的」「ノスタルジック」と。

つまりこの時点では、「エモい」という概念に囚われていない。


しかし「エモい」という概念を知ってからは、「感傷的でノスタルジックな、なんだか懐かしくていい感じに落ち着く空間」を「エモい」で表現する。

気持ちとしてはその全てを含んだ表現ではあるが、それは思考の放棄ではないか。


ハッキリと理解できていなかった感情を表す言葉に出会うと、「これだ!」と思う。

「エモい」は最近定義された概念。

「うつ病」も最近定義された概念。


概念を定義すると、理解し合える仲間が見つかる。

概念を定義すると、自分が何者かになれた気がする。

その概念を用いて、自分を表現できるから。


「気力がなく、何をやってもミスばっかり。人生に生きがいを感じない。何をしても楽しくない。夢も無ければ笑顔もない。自己肯定感が低くて話しているとこっちまで陰湿な気持ちになる」そんな人間に病名が付けられた。「うつ病」と。すると「うつ病」が世間に病気だと認知される。

「気力がなく、何をやってもミスばっかり。人生に生きがいを感じない。何をしても楽しくない。夢も無ければ笑顔もない。自己肯定感が低くて話しているとこっちまで陰湿な気持ちになる」そんなダメ人間だった自分が、可哀想な病人になれるのだ。


みんな何者かになりたい。

だからその概念に自分を当てはめて、表現したがる。


概念に囚われる事で「今まで表現しきれなかった自分」を表現する事が出来る。

それは、今までよりはいくらか幸せだろう。

だが結局、概念は概念でしかない

本当の自分の定義にはならない。

だから本当の意味で幸せにはなれない。苦しい。



概念に自分を当てはめる必要なんてない。

概念に自分を当てはめて短期的な幸せを手に入れる事は、辞めた方が良い。

心のどこかに寂しさが残るから。


ただまっすぐ自分を見つめたら良い。

「自分で自分を理解する」事を優先したほうがいい。

自分を理解すると、対策を考える事が出来る。


対策とは、例えば自分が吃音なら、身体や顔での表現に力を入れたり、ホワイトボードを持ち歩いて書くなど。

その「対策が本当の自分の定義」になる。

吃音自体は本当の自分の定義ではない。

「吃音の人」という肩書きなんていらない。

「吃音だから顔芸がすごい人」や「吃音だからホワイトボードで絵を書きながら話せる人」になればいい。


なぜ病名与えられて安心してるのか。

原因が分かれば対策する。

その中に個性が芽生える。


殻を破るとか、自分を探すとか
全部内側にある。
ただひたすら、
静かなところで、
紙とペンを用意して、
何時間も、
何日も、
何年も、
自分について書き出して、向き合ってみて。

感情

エモいという言葉が最近流行っている。
「エモーション」からくる、心が動く様子を表している。
「凄い!」「感動した!」に近いが、その言葉では表しきれない含みがある。

エモいを知らなかった人間が、エモいを手に入れると使い出す。
つまり、今までずっと「自分の言葉に納得出来ていなかった人」が「納得出来る言葉」に出会う。

みんな言葉を知らない。だから表現できない。
なのに表現しようとする。

自分を表すとか無理。
自分を定義するとか無理。
それを知らないから苦しい。
何者かになろうとしてもなれない。

だから、自分の中に経験値を蓄積して、見えない価値を高めるしかない。
見えない価値を高めたら、それが魅力として現れる。

だけど、定義した方が分かりやすいからウケは良くなる。
だからどう見られたいかと言う部分だけ切り取って肩書きにしたらいい。

それが「肩書きに縋る人間」と「肩書きで表現する人間」の違い。


私のエゴ

言葉にはならなくても、自分と向き合い続けたら自分が何者か分かる。
だがその道は凄く長いし辛い。
適当な肩書きを名乗った方が楽だし早い。
けど本物になれてない自覚があるはずだ。

苦しいけど向き合い続けた人だけが個性を手に入れる。
肩書きで体裁を取り繕う人間は気持ち悪い。

そんな人と関わっても何も生まれない。
その人が何も持っていないから。

何かを持ってる人とだけ関わる。

書いて欲しい事あったらいってー