【試し読み】J庭55新刊②「チョコレートスモークキス」
何年か経って、ふと夢で見る記憶というのがある。
普段は思い返すことのない、記憶の底に沈んだ思い出。あるいは、人生を塗り替えられたほどの衝撃的な瞬間。
穂積にとってそれは、高校二年生の二月十四日だった。
日本全国の男たちがなんとなくそわそわするその日、例に漏れずどきどきしながら登校し、特に何も入っていない下駄箱に失望したあと、隣の席の女子から明らかに義理とわかる百円チョコの詰め合わせをもらって喜び、昼休みに一年の女子から呼び出しを受け飛び上がりそうになり、クラスメイトからの冷やかしを背に第二校舎裏へ行った。他に人気のない体育館裏とプール横は先客がいたので、しばらくうろうろしてやむを得ずそこになったのだった。
その一年生は学校内で結構有名な、吹奏楽部のかわいい子だった。穂積もサッカー部の練習中、外でブラバン練習をしているその子を見て「かわいいな」と思っていたものだから、呼び出された時はもう天国まで飛んでいきそうだった。
赤くなってもじもじしている彼女に、先走って「もちろんOKだよつき合おう」と言いそうになるのをぐっと堪え、待った。
そしてついに彼女は口を開いた。
「あの……穂積先輩って、仁科先輩と仲いいですよね。いつも昼休み、屋上でご飯食べてますよね」
「——ん? え、ああ、まあ」
「これ、渡してもらえませんかっ!」
そうやって突き出された真っ赤なハートの箱。丸っこい文字で『仁科先輩へ』と書かれたカードが貼ってあった。
今も夢で見る記憶というのは、てっきり告白されると思って浮かれたら、その子は穂積ではなく友達が好きだったという、ありきたりな絶望ではない。確かにがっかりしたし浮かれた自分が恥ずかしかったが、このあとに起こった出来事の前では些事だ。
半ば呆然としながら、そのチョコを携え屋上へ行った。何を好き好んで真夏だろうが真冬だろうが、昼休みに毎日屋上へ行っていたのか——今になって思えば不思議だが、あの頃はあいつと会うのが楽しみだったのだ。
あの二月十四日は曇り空で、死ぬほど寒かった。できたてほやほやのカップルがいちゃつくには向いていない。そんな日に昼休みを屋上で過ごそうなんて物好きは、穂積の他にはもうひとりだけだった。
フェンスにもたれて煙草をふかしていた仁科は、穂積に気づくと手を振った。
「このモテ男。一年の子に呼び出されたんだって?」
仁科はなぜか校章が入った紙袋を持っていた。新入生や受験生が資料などを持ち帰る時配られるものだ。よく見ると、ピンクの包装紙がはみ出している。
「嫌味かよ」
右手に持ったハートをぐい、と仁科に押しつけた。蓋に貼ってあるカードを見た仁科は「あらら」と間の抜けた声を出した。
「どうせ手紙とか入ってるんだろうな——あ、やっぱり」
フェンスをがしゃがしゃ鳴らし、むかつく声を遮った。
「あー! なんっでおまえなんだよ!」
そんな穂積の背後で、仁科は心底楽しそうに声をあげて笑っている。
「どうせ『好きです』とか書いてあるんだろ。どうすんだ」
「うーん、特に何も。向こうだって直接言ってきたわけじゃないし、返事しなくてもいいでしょ」
そっけなく言って、手紙と箱を袋の中へ放り込んだ。
「その袋は?」
「廊下歩いてたら、水戸先生が袋くれたんだ。隠さないとモテないやつから刺されるぞって。穂積みたいな」
確かに、今手に鋭利な何かがあったら仁科の腹に突き立てていたかもしれない。
一本吸い終わると、仁科は足元に置いてあったココアの缶に吸い殻を入れ、袋の中を物色し始めた。
薄いピンク、濃いピンク……仁科に贈られたチョコの包装はほぼすべて真っピンクだった。仁科の持ち物にはピンクが多いから、ピンク好きだと思われているのかもしれない。男なのに珍しいと思って訊いたら、「棚で目立つからつい買っちゃうだけ」とのことだった。
「すげえ数だな……」
「みんな義理だよ。義理ってか、アイドルにあげるみたいな? イベントとして楽しんでる感じ」
自分でアイドルとか言うな、と突っ込みたくなったが事実仁科はそういう存在だった。
仁科は目立つ。顔がいいからだ。部活は帰宅部だし、成績も並なのに、学校全体に名前が知れ渡っているくらいには。
ただアイドルはアイドルでも、ステージの上から歌とダンスで観客を魅了する、何よりも輝いて見えるけれど決して手の届かない一番星ではない。顔のよさで女を引き寄せ、握手以上のボディタッチでその先を少しだけ匂わせ、つかず離れず貢がせる……色恋を売りにした地下アイドルの方が仁科らしい。
単なるイメージであって、本当にそういうことをやってこの大量のチョコを手にしたわけではないだろうが、仁科にはどうしてもそういう印象がつきまとう。女子と仲がよく、友達なのか彼女なのかわからない距離感で話しているのを、廊下などでよく見かけていたからだ。相手の顔は見るたび違った。
「穂積の戦利品は?」
「三村から一個だけ」
がさごそと袋を漁る仁科の手が、一瞬止まった。
「それで——どうしたの?」
「あ? どうしたも何も、義理だよ。クラスの男子全員に配ってたわ」
ふーん、と気のない返事をして、またチョコを漁り始める。
「おまえさ、彼女とか作らねえの?」
いつも不思議だった。仁科に仲のいい女子は山ほどいて、その中の七割くらいは仁科のことを好きなはずなのに、仁科には彼女がいない。
告白されても必ず断るので、今や仁科はみんなのものという共通認識が女子たちの間ではできているようで、一周回ってもう仁科に告白する子はいない。そういう事情を知らない下級生が、たまに今日のように玉砕する。
「俺が彼女作っちゃったら、穂積が寂しいでしょ」
「むかつく気遣いすんな」
そう言いながら、確かに結構寂しいかもしれないと思った。
仁科とはクラスが違うが、昼休みはいつもこうして屋上でだべっている。放課後も、穂積の部活が休みの日は一緒にゲーセンに行ったり、どちらかの家で漫画を読んだりして遊ぶ。
穂積には女の子とつき合った経験はないが、もし本当に彼女ができたりしたら、仁科といる時のようにはいかないことくらいわかる。
多分、デートであまり興味のない映画を見なきゃいけないし、服屋で違いのわからないワンピースをふたつ提示され、彼女の表情を窺ってすでに決まっている正解を探さなきゃいけないし、腹が減ってもラーメンではなくカフェで甘ったるい小さなケーキを食べないといけない。
穂積が彼女という存在に対して抱いている夢想ほど、それは楽しいものではない気もする。だったら仁科といる方が、気楽で楽しいのではないかと思ってしまう——なんだか負けな気がして、口にはしないが。
「これあげる」
仁科が差し出してきたのは、さっき一年の子から穂積が代理で渡されたチョコだ。赤いハートの中には、手作りらしい歪な生チョコが詰められていた。
「食べないのか?」
「手作りってちょっと怖いんだよね。中学の時髪の毛入れたやつ渡されたことあって、トラウマ」
モテるやつは穂積の想像もつかない苦労をしているものだ。
口に入れると、周りにまとわりついているココアパウダーの苦さに驚いた。どろりと溶けて、苦味をまとった甘味が染み出す。
「おいしい?」
「よくわかんねえ」
だがまずくはない。
ふたつめを手に取ったら、突然仁科に手首を掴まれた。
そのまま顔を寄せ、穂積の指ごと食らいつく。
穂積が呆然としている間に、仁科はぺろりと舌を出し、猫みたいに唇についた茶色い粉を舐めとった。
「にが」
色素の薄い双眸が、前髪の間から穂積を見つめていた。
仁科の顔がさらに近づく。穂積がみじろぐ隙もない。
赤い舌が、穂積の唇に当たった。
「ココア、いっぱいついてる」
仁科の舌に触れられた時の生ぬるい感触は、煙草とチョコの苦味が合わさって、穂積の記憶に刻みつけられた。
*
ピンポン、とやけに明るい音で夢から覚めた。
頭がぐわんぐわんする。瞼の裏にいろんな情景が乱れ飛んでいた。終業直前のクレーム、華金の残業、酒臭い終電、電柱に土下座しながらえずいているサラリーマン、公園のベンチでいちゃつくカップル。
高校時代、男友達に突然奪われたファーストキス。
目を開く。真っ暗である。何度か瞬きをして、ようやく今穂積がいる場所、いる時代を認識できた。
もう一度、ピンポンと鳴った。舌打ちしながら枕元のデジタル時計に手を伸ばしバックライトをつけると、二時五十分と出る。
こんな時間にインターホンを鳴らす輩なんて、酔っぱらいか変質者くらいだ。だが——それよりもたちの悪い来訪者に、心当たりがある。
知るか、こんな夜中に人の家にやってくる非常識野郎につき合ってやる筋合いなどない。布団を頭まで被り、無視を決め込もうとしたが。
ピンポンピンポンピンポンピンポンピンポン。
「ああくそ! うるせえ!」
跳ね起きて起きて玄関へ向かい、チェーンをかけたままドアを開けた。
「あ、起きてた?」
ドアの隙間から、外廊下の蛍光灯に照らされた顔が覗く。
予想通り、仁科だった。腹が立つほどのんびりとした笑みを浮かべている。
「馬鹿みたいにピンポンすんな! 今何時だと思ってんだ」
「二時くらい?」
「帰れ」
「待って待って。ねえ、泊めてくれる?」
穂積が大学を卒業し、ひとり暮らしを始めてからもう八年目になるが、一体何度仁科のこの言葉を聞いたことかわからない。
女の子には一度も言われたことがないのに。
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