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褒められる

「褒められたい」と「褒められる人間になる」はまったく真逆なことだと気づきました。
これは私の主観的な解釈だと初めに御断りします。
人生は魂の成長のためにこの3次元の地球に生まれて来たと思っています。
願望達成のために「引き寄せの法則」などのエクササイズがありますが、イメージすることが現実化するために、トレーニングしたりします。

そもそも、現実は自分の過去の思考が創り出したものだと言われています。
ですから、今体験していることは過去の思考の結果だと言うことです。
最近その事がハッキリと理解出来る現象を体験しました。

あまりリアルに表現したくないので、要点だけでお話しすると、突然見ず知らずの人に睨まれた体験をしました。
その時には、思考が現実化するということを考えていたため、なぜ自分が他人に睨まれなければならないのか?と考えてみました。すると、二日前にある人から不快な言葉を言われ、私は反射的に言い返しました。
つまりそれは、毒を毒で返した出来事だったのです。ですから、睨まれた時に私も睨み返せば、毒を毒で返したことになったのですが、その時「あれ?何だこれは」と思って毒を返さなかったのです。それが二回立て続けに起きてどちらも毒を返しませんでした。

つまり二日前の自分が創り出した毒の感情が倍になって現実化したものでした。その時スルーしたので毒を投げかけられることは以後起きませんでした。

このような細かな思考が常に現象化しているのが今という現実なのだと理解しているところです。

「人を恨めば穴二つ」の意味がしっかりと理解出来ました。他人を恨んだらその思考エネルギーが自分に現象として現れるということです。つまり恨まれる出来事が起きるということです。

今回のテーマである「褒められる」ですが、私の場合「褒められたい」という思いで行動していたことに気づいたのです。

子供であれば、勉強して良い成績を出したら、親か先生に褒められるということを喜びとして成長するのですが、逆に世の中「褒めて伸ばす」というように利用してもいます。

ところが大人になって、「褒められたい」で行動すると、逆に失敗してしまうことがあります。それは、「褒められたい」の思いの根底には、「褒められなかったらどうしよう」という不安を生じさせるからです。それが強くなると、「失敗したらどうしよう」と失敗を生じさせ、それが現象化してしまうことがあります。

では「褒められる人間になる」でも同じことに思えますが、その場合には主体が「何かを成し遂げる目的」があります。その時の思いは、「成し遂げる」ことが目的としてあり、どこまでが納得できるかは個人差がありますが、行動に対する納得が現象化して来るので、不安的な現実にはならないと思います。

なぜこのようなことを考えたかというと、あるユーチューブで死んだら商店街のようなところに行って、「褒められたい」という願望を満足させられるところがあると話していて、ボランティアで生前やってきたことが、本音では「褒められたい」というエゴの自分を満足させるためにやってきた。ことを生前には表に出せなかった分、死んだら商店街のようなところで大歓迎されるというお話しでした。

でもそれは、地球での価値観での評価であり、本当に魂が求めている成長ではないというのです。その商店街での体験はバーチャルリアルティとしてのもので、客観的に見るとただ座って喜んでいる姿でしかないというのです。

それでもエゴは喜んでいるので満足するのですが、魂はそれは違うということを知っているので、未来的には脱け出すそうです。
魂はもともと宇宙の創造主の分身ですから、帰るところは光の創造主のところです。

その話しを聞いて、目指すところを間違わないようにしなければならないなと、思った今日でした。


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