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小説:河童【2500文字】

 水が冷たい。手をバタバタさせても起き上がれない。小石が顔に当たって痛い。怖い。息ができない。鼻に水が入る。苦しい。ぬるりとした手が足首をつかんでいる。逃げなきゃ。でも冷たい水の中で身動きがとれない。ぬるい手が僕の内ももに触る。水しぶき越しに見てもわかるほど鮮やかな緑色。目の前に、パチパチと何かが光って弾ける。やめろ。怖い。助けて。誰か助けて!
 
「わあ!」
 声をあげて目を覚ます。はあはあと肩で息をする。寝汗で体が冷えている。俺は一つ大きく息を吐いてから、肌身離さずつけている鹿の角のペンダントをTシャツごしに握る。大丈夫。夢だ。過去のことだ。自分に言い聞かせて、額をぬぐう。
 久しぶりにこんな夢を見たのは、夕飯の席で叔父さんにあの話をされたからだろう。
「よお、こうた。大きくなったな」
 叔父さんは日本酒を片手に俺の隣に座った。叔父さんは母さんの弟で、ここ、母さんの実家で暮らしている。じいちゃんの葬式で会った以来だから、十年ぶりだ。
「叔父さん、久しぶり」
「元気か?」
「まあまあ」
 ばあちゃんが死んで、十年ぶりに母さんの実家に来た。十年も顔を見せなかったのは、ただ遠いから、というわけではない。十年前、じいちゃんの葬式で来た時、俺が川で溺れたからだ。その恐怖が俺を、ここから遠ざけた。
 叔父さんはチラっと俺のピアスを見て「まだ忘れられないんか?」と言った。俺のピアスは鉄製で、それは鹿の角のペンダントと同じ意味をもつ。叔父さんは少し言いにくそうにしてから「河童のこと」と言った。
 俺は川で溺れたとき、河童に襲われたのだ。そうじゃなきゃ、あんな浅いところで急に溺れたりしない。足首にはくっきりと手形が残っていた。あの日、川でもがきながら見たおぞましい緑色は恐怖とともに俺の記憶に深く刻まれている。ピアスの鉄も、ペンダントの鹿の角も、河童が苦手だと言われているものだ。そんなの迷信だ、と笑われても構わない。あの恐怖から自分を守るためなら、藁にでもすがる。
「忘れられない」
 俺は、あの日俺を最初に見つけて助けてくれた叔父さんに、嘘をついても仕方ないと思った。駐在をしている叔父さんは、パニックになって泣きながら恐怖を訴える俺を一番知ってくれている。だから、十年も顔を出さなかったことも責めない。
 
 そんな話をしたから、俺は久しぶりに河童の夢を見てしまった。深呼吸をしてなんとか鼓動の高鳴りをおさめる。大丈夫。夢だ。
 
 ばあちゃんの葬式を終えて、精進落としをする。ばあちゃんは大往生だったから、悲しいというより「お疲れさま。あっちでじいちゃんとゆっくり過ごせよ」といった雰囲気だった。母さんはちょっと泣いていたけれど、今はもうニコニコしながらビールを飲んでいる。葬式が終わって少し落ち着いたのかもしれない。
「こうたは、酒は飲めんのか?」
 叔父さんが日本酒片手に隣に座る。
「俺まだ19歳だよ。駐在さんがそんなことしていいの?」
「そうか、まだ未成年か」
 叔父さんは静かに笑った。それから真剣な声で「なあ、こうた。叔父さんからお願いがあるんだが」と言った。
 
「川に!?」
 自分でも驚くほど大きな声が出た。
「そうだ。一緒に川に行ってみないか?」
 俺は無意識のうちに、シャツ越しにペンダントを握る。
「嫌だよ。俺がどれほど怖い思いをしたか、叔父さんわかってくれてるでしょう?」
「わかってる。わかってるんだ。でも、頼まれてくれないか?」
「なんで」
 叔父さんは、トラウマを直す荒療法だ、というような説明をして、俺を十年前に溺れた川へ連れていこうとした。俺は断り続けたが、しつこく食い下がる叔父さんに頭を下げられ、結局行くことになった。
 
 さらさらと川の流れる音が聞こえると、俺はもう呼吸が浅くなっていた。だめだ、やっぱり怖い。
「叔父さん、やっぱり怖いよ」
「ああ、そうだろう。怖いからこそ、行ってもらいたい」
 叔父さんがどうしてそんなに俺のトラウマにこだわっているのかわからない。もしかしたら、自分の責任だと思っているのだろうか。足元からにじり寄る恐怖に耐えながら川原へ立つ。浅い川で、流れは穏やか。やっぱりこんな川で溺れるのは、河童に襲われたとしか思えない。
「何か、思い出さないか?」
 叔父さんに言われた。切実な声だ。
「何かって……」
 俺は溺れた日のことなら何度も夢で再体験しているし、今更思い出すことなんてない。
「どうしてお前はでこの川にいたんだ?」
 叔父さんが聞く。一人で……? 河童に襲われたとき、俺は一人で遊んでいた。記憶の端に何かがひっかかる。
「一人で……」
 何かおかしい。俺は混乱していた。なんか怖い、と思った瞬間、目の前に一瞬、光が弾ける。河童の夢を見るときにいつも見る光だ。そうだ、この光は何の記憶だろう。
「違う、何かおかしい」
「何がおかしい? 思い出せ」
 叔父さんが急かす。何を思い出せばいいの。頭の中で赤信号が点滅して危険を知らせる。だめだ、思い出しちゃいけない。何を思い出しちゃいけないの。動悸が激しい。
「花火……」
 ふいに、言葉が洩れた。花火……花火?
「花火がどうした?」
「花火をしたんだ。じいちゃんの葬式の前の夜……」
「それで!」
「それで」
 怖い。苦しい。思い出しちゃだめだ。
 川で一緒に遊んだ。緑色のパーカーを着た……
「思い出せ! 思い出してくれ。今でも幼い男の子が襲われる事件が続いているんだ。目撃者はお前だけなんだ」
 事件。男の子が襲われる事件。緑色のパーカーを着た……怖い。怖い! うまく息ができない。手をぎゅっと握る。水が冷たい。内ももを触れる生温い手。河童じゃなかったとしたら……
 
 はっと息をのむ。思い出した。全部思い出した。
「思い出した、叔父さん」
「誰だ、あの日お前を襲ったのは誰だ」
「一緒に花火をした、お兄さん……」
「ちくしょう、村長の息子か!」
 そうだ。あの日、俺は河童になんて襲われていない。あれは、一緒に花火をしたお兄さんだった。川に誘われて、ついていったんだ。
「つらいことをさせてすまなかった。でも、これで、叔父さんが必ず奴を捕まえてやるから」
 俺は放心状態で叔父さんにもたれかかった。永遠とも思える静けさが、ゆっくり空へのぼっていった。

【おわり】

使用したお題
「うた」「ピアス」「河童」「日本酒」「永遠」「赤信号」

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