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小説:扉【3516文字】

 朝起きた瞬間から、私の闘いは始まっている。夫の朝食作りと子供たちの朝食作り、洗濯、掃除とバタバタだ。小学生になったばかりのコウは座ってごはんなんか食べてくれない。箸を持ったまま走ってふざけるのを危ないからやめてと叱って、その間に偏食のミクに少しでも何か食べさせようとするけれどさっき口に入れた野菜がテーブルの上に出してある。五年生のマコはスマートフォンの音ゲーに夢中で目の前にあるトーストを無視。夫が「作業服乾いてる?」と聞いてくるから乾燥機の中をひっかきまわして作業服を渡し、その間も走り回るコウを注意し、夫に「あなたも何とか言ってよ」と言うと夫は「いってきま~す」と大きな声をだして仕事へ行き、私は大きくため息をつきながらそういえば自分は起きてから何も口にしていないことに気付く。
 毎日が朝から晩までてんてこまいだ。家事のできない夫と、思春期に入り始めたマコと、やんちゃなコウと、おっとりしたミクと一緒に、お祭りみたいな時間があっという間に過ぎていく。
 唯一、少し静かな時間は、マコとコウが小学校に行っていて、ミクがお昼寝をしている時間くらいだ。ミクを起こさないように小さな音でテレビをつけて、レシートを並べて家計簿をつける。午後のワイドショーで「最近のバリキャリ」という特集がやっていた。バリキャリって何年前の言葉だろう、と思いながらも、華やかな世界で働く女性たちを眺める。自分と同じくらいの年の女性が、年収は1000万を軽くこえると言っていて、私は口を開けてしまった。身近な知り合いで一番稼いでいる女性は、看護師をしている友達くらいか。その子にしたって年収は450万くらいだと言っていた気がする。それでも、聞いたときは驚いたものだ。それなのに、バリキャリと呼ばれる女性たちは1000万も稼ぐのか。私は、自分の手元に広げられたシワくちゃのレシートを眺めた。
 
 夫の隼人とは中学の同級生で、高校は別のところへ通っていた。私はそこそこ偏差値の高い進学校で、隼人はそうではなかった。それでも何かと気が合い、高校生になった頃から付き合い始めた。隼人は高校を卒業するとすぐに親の自動車修理工場で働き始め、私は大学に進学した。私は勉強が好きだったし、その先の仕事にも興味があった。でも隼人は私が就職活動を始める頃に言ったのだ。
「大学を卒業したら、結婚してほしい」
 それは、明確なプロポーズだった。指輪もなかったし、豪華なレストランでもなかった。二人で出かけた帰りの、駅のホームだった。でも真剣な言葉だとわかった。わかったからこそ、真面目に答えなければならないと思った。
「結婚したら、私には家にいてほしいんだよね?」
 隼人の結婚観はなんとなくわかっていた。実家の自動車修理工場では、いつも隼人の両親が仲良さそうにしているのをよく見ていたし「子供の頃から、父ちゃんも母ちゃんも家にいてくれたから自営業って良いもんだよ」と、いつも言っていたから。
 隼人は少し黙ってから「子供ができたら、家にいてあげてほしい」と言った。私は、少し考えてから「よろしくお願いします」と返事をしたのだ。
 
 日曜日の午後、夫がコウとミクを見ていてくれるというから、一人で買い物に出た。今日はスーパーの特売日だから、チラシをじっくり見てから店へ向かう。暑い中自転車を漕いでスーパーへ着いたときだった。専用のスペースに自転車を停めると、スーパーの建物の横の通りに、何か立っているのが見えた。隣の建物との間の狭い通路に、板のようなものが直立している。何だろう。近づいてみると、それは扉だった。濃い焦げ茶色の木製の扉が一枚、立っている。その前後には何もなく、あるアニメの有名なピンクのドアみたいに、扉だけが立っている。表裏どちら側にも、古びた金属のノブがついている。
 私は、おそるおそるノブを握ってみた。少しざらついていて、ひんやりしている。鍵はなく、ノブはゆっくりまわった。扉を開けてみる。覗いてみるが、何のことはない。反対側が見えるだけだった。有名なピンクのドアみたいに、どこか遠い世界へつながっているわけではなさそうだ。
 私は思わずふっと息をもらして笑った。何を期待したのだろう。子供みたいな自分に少し呆れる。それにしても、誰がこんなものを置いたのだろう。現代芸術家の作品を展示するような場所にも思えないし、スーパーの管理者が置いたのだろうか。私は扉をくぐって、反対側に出て、扉を閉めた。
 そのとき、ジャケットの内ポケットでスマートフォンが鳴った。私は反射的にそれを取り出し、画面を見る。メールが来ていた。
【〇〇商事との打ち合わせの件、月曜の朝8時からオンラインでお願いします】
 首をかしげる。間違いだろうか。するとすぐに別のメールが届く。
【△△バンクさんとのオンラインミーティング、深夜0時になりました。時差があるので仕方ないですね】
 次々と送られてくる身に覚えのないメール。私は恐ろしくなってスマートフォンの電源を切ろうとしたけれど、そこで気付く。これ、私のスマートフォンじゃない。というか、私はいつジャケットなんか着たのだろう。このスマートフォンはジャケットの内ポケットに入っていた。私は自分の体を見下ろして驚く。Tシャツにカーゴパンツだったはずの私は、薄いグレーのセットアップに黒いハイヒール姿だった。持っている鞄を見ると、いろんな仕事の書類やノートパソコンが入っている。どういうことだ、と今しがたくぐった扉を振り返るが、そこには何もなかった。
 とりあえず、メールを全て見てみる。どうやら私は何かしらの仕事をしていて、大事な役職についているらしい。なんだか少しずつ思い出してきた。そうだ。私は投資会社のエグゼクティブマネージャーだ。すぐにメールを次々に返信する。いつの間にか、仕事のことはだいたいわかっていた。
 信じがたいけれど、あの日のプロポーズを断った世界の私になったみたいだった。隼人と結婚しなかった世界の私。結婚しないで、子育てもしないで、仕事を続けていた世界の私。私が、選んだかもしれなかった道。その先には、こんな世界が待っていたんだ。
 
 私は仕事に明け暮れた。朝から誰かの食事を作ることなんてせず、自分の好きな銘柄のコーヒーを飲んだ。自分の好きな音楽をかけて、コーヒーを飲みながらやりがいのある仕事をする。それは、とても素晴らしいことに思えた。残業が多くても苦ではない。その分、支払われる給与の額が増えた。やるだけ認めてもらえる世界があったなんて、私は知らなかった。
 仕事に全てを注ぎ込んで、時間はあっと言う間に過ぎた。一人でコーヒーを飲む時間は、もう貴重なものではなかった。当たり前のことだった。そのことに、喜びもしなければ、感謝もなかった。珍しくつけたテレビで「最近の子育て事情」という特集を見た。どこかの商店街で子連れの主婦にインタビューをしている。
「うちの子はやんちゃすぎるので、ちょっと困っています」
 苦笑する母親と、その後ろを走り回る男児。たしかにやんちゃそうだ。そのとき、ふとコウのことを思い出した。私にも、やんちゃな息子がいたはずなのに。あのやんちゃ坊主は何をしているのだろう。音ゲーばっかりやっていたマコは何をしているだろう。ちょっと心配なくらいおっとりしていたミクはどうしただろう。
 私は、家を飛び出した。スーパー。スーパー。あの日の、あのスーパー。
 
 目指したスーパーはそこにあった。自転車置き場から、スーパーの横の通路をのぞく。心臓がどくどく鳴る。
 あった。あの日にくぐった木製の扉は、かわらずそこにあった。私は慌てるような気持ちでノブを握り、思い切り扉を開けた。覗けば反対側が見えるだけだ。でもくぐれば……私は扉をくぐって反対側へ行き、扉を閉めた。
「ママー!」
 大きな声で呼ばれた。コウが走って私の腰にぶつかるように抱き着いてくる。その後ろから、夫がミクを抱いて歩いてくる。
「遅いから様子見に来てみたんだけど、どうした? なんかあった?」
 私は、屈んでコウを抱きしめた。
「ママ、どうしたの?」
「うーうん、なんでもない。遅くなってごめんね。買い物まだなんだ」
 夫が「えー!」と声を出す。
「マコがもうすぐクラブ活動から帰ってくるから、みんなでママのお買い物をお手伝いして、早く帰ろう~!」
「おー!」
 コウが大きな声を出して、張り切った様子で拳を突き上げた。
「おー!」
 私も一緒になって拳を突き上げると、夫が笑う。Tシャツにカーゴパンツのラフな私に戻っていた。ミクは眠そうな目で夫に抱かれている。今日はみんなが好きなハンバーグにしよう。私はチェックしておいたチラシを思い出して、スーパーへ入った。
 
 
【おわり】

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