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雑記:私はどうしてエッセイを書かないのか

私はどうしてあまりエッセイを書かないのか。自分でも不思議になるときがある。

40年生きてきて、noteに載せておもしろがってもらえそうな話なら、365日書き続けても余りそうなくらいネタの多い半生ではあった。自分のこと。過去のこと。家族のこと。仕事のこと。犬猫ウサギのこと。心身のこと。おもしろかったり、悲しかったり、憤ったり、共感してもらえそうな話から、「そりゃないよ」「危ないよ」「恐ろしい……」と共感してもらえない話まで、書くことはありすぎる。

でも、私は書かない。

唯一、本腰をいれてちゃんと書いたエッセイは、ブリヂストンさんから自転車をいただけるほど、評価していただいた。あれは、私の40年のうちの、ほんの1ページ。あ、でも私のことじゃなかった。夫のことを書いたのだった。

もっと書いたら、良いじゃないの?

でも、あんまり書きたくないのだ。なぜだろう?自分でもよくわからない。

エッセイを書くとしても、私は、些細な心の機微を美しい言葉で表現したりはできない。そもそも、耳に心地の良い言葉を紡ぐのが苦手だ。私がそれをやると、嘘っぽくなる。だから書かないのか?わからない。

あまり自分のことを知られたくないのかもしれない。

小説が好きで、好きで好きで書いているけど、小説は私の分身だから、意識的でも無意識でも、小説には私の深層心理が反映している。ものすごく自覚しながら書いてることもあるし、無自覚なときもあるだろう。

エッセイで自分自身を語ることで「あぁ、あの小説の登場人物は、この人のこの経験から生まれたんだな」という推測が恥ずかしいのかもしれない。ときどき、ほかのnoterさんで、小説もエッセイもお書きの方を拝読すると、「あぁ、こういう経験があったからああいう小説につながるのか……」と勝手に推測してしまうことがある。そういうときは、なんだか秘密を覗いてしまったような気持ちになって「スキ」を付けずにそっと閉じてしまうときもある。

まことに勝手な読み手の推測であるが、読み手というのはそういうものだ。それを自分がされるのが、恥ずかしいのかもしれない。

小説では何も賞をいただいたことがないから、エッセイのほうが得意なのかもしれない。でも、書かない。

好きなことと得意なことは、別でもいいのかもしれない。なんて、こんなことを書いてる時点で、すでに自分を晒してることになっていることには、気付かないことにしておこう。


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