小説:セレナーデ #創作大賞2022
1 小夜 春
ゆるい日差しに、桜の淡い花びらが光る。まだ少し冷たい風が前髪を揺らして頬を撫でる。景色は何もかもが平和で、平凡で、平均的な春の日。ベンチに浅く腰掛けて、煙草を吸う。
爪の短い私の指に挟まる、長いメンソール。
煙草から直接立ち上る煙は青白く見えるのに、吐き出す煙はただの白に見えるのはなぜだろう。私の肺で、青色が濾過されたのだろうか。煙を深く吸い込みながら思う。私の肺に、置き去りにされ溜まっていく青。ヘビースモーカーの人の肺は真っ黒に汚れているというけれど、私の肺は今頃、真っ青に染まっているのかもしれない。
さーっと風が吹いて、桜吹雪が舞う。メンソールの先端からまっすぐ立ちのぼっていた青白い煙がかき乱され消えていく。
平和や幸福を実感するというのは、とても鈍感な人の特権なのだな、と思う。
今日はこの喫煙スペースに誰もいない。私一人だ。休憩室の窓を乗り越えて外の駐車場に降りてすぐ、職員用に作られた喫煙スペース、といっても、ベンチが一つあるだけ。表立って『喫煙所』と言ってはいけないらしく(施設の敷地内は禁煙だから)灰皿も置いていない。喫煙者は携帯灰皿持参で、ここに集う。でも今日は誰もいない。私の、貸し切り状態だ。
一人で桜を見ながら煙草を吸う休憩時間というのは、贅沢なのか寂しいのかわからないな、と思いながら煙を吐き出す。
この喫煙所で一人というのは珍しいな、と思って、そういえば今日は何だかとても静かだな、と思ってから、そうか佐久間くんがいないからだ、と思う。
佐久間くん。
私より十歳以上若い、去年入職してきた中途採用の男の子。自然食品の営業職をしていたらしいけれど、仕事をしながら介護ヘルパーの資格をとって、去年転職してきた。今は、介護スタッフの中で一番後輩だから、先輩たちにかわいがられながら働いている。ここで働きながら、次は介護福祉士の資格をとりたいそうだ。
真面目でやる気があって爽やかな青年。誰にでも優しくて、穏やかな人。
その佐久間くんが、何かと話しかけてきたり、自分は吸わないくせにこの喫煙スペースにまでやってきてはお喋りをしてくるから、今日のように佐久間くんが休みの日は、静かに感じるのだ。
二本目の煙草に火をつけて、冷たい缶コーヒーをひとくち飲む。私の肺が真っ青なら、胃はコーヒー色かもしれない。
午後の仕事は、経管栄養の片付けと、バイタルサインの測定、あと水虫の軟膏を塗るくらい。介護施設で働く看護師の仕事は、病院の入院病棟より少ない。介護職員がメインの職場で、今日の日勤も看護師は私ともう一人の、二人だけだ。治療の場ではなく生活の場だから、利用者さんたちがどれだけ穏やかに安らかに生活できるか、が大切なのだ。私たち看護師が行うのは、安寧な生活を送るために必要な最低限の医療行為だけ。
利用者さんたちの平和で穏やかな生活のために、私はたぶん、ほんの少しだけ役に立っている、はずだ。その思いだけで、私はぎりぎり勤労の義務を果たしている。
「私は、平和で安らかな老人介護施設で役に立っている」
一人でつぶやいてみて、ふっと笑った。自嘲めいた笑い。
きれいで嘘くさい言葉。そんなものを笑うような中年になってしまったな、とまた笑う。ずっと前、とても若い頃は、嘘くさくてもきれいで平和な未来を、信じていたのだろうか。
私の思い描いていた未来は「こんなはずじゃなかった」とも思うし、「こうなることはわかっていた」とも思う。結局どうすればよかったのか、なんて今でも全くわからない。大人になればもう少し、いろんなことがわかるのだと思っていた。それが今でも、何もかもよくわからない。理解できないことのほうが増えていく気さえする。私はもうすぐ、四十歳になろうというのに。
微風に揺られちらちらと光る桜の花びらを眺めていると、ふいに
「小夜は一人でも大丈夫でしょ」
と聞こえた。
いや、聞こえたわけじゃない。唐突に思い出されたのだ。
まるで本当に聞こえたかのように、声の質も大きさも明確に思い出せる。このセリフを実際に聞いたのは、もう五年も前のことなのに。
こんな陳腐なセリフを、まさか自分が実際に言われるとは思っていなかった。そしてそれを、五年も経つのにまだ思い出すとは。
考えまい、思い出すまい、と決め、煙草のフィルタに口をつける。
ふっと煙を吐き出す。どうでもいいことばかり考えてしまう。だから春は苦手だ。いろいろ一人で考え込んでしまうのは、いつも話しかけてくれるはずの佐久間くんがいないからだ、と人のせいにしておく。
煙草を携帯灰皿に捨て、窓をよじ登って休憩室に戻る。生きていくには必要最低限の勤労をし、今日もどうにか大人の社会人をこなさなくてはならない。
2 佐久間 春
「小夜ちゃんなら、煙草だよ」
休憩室でお喋りをしている三人の先輩マダムたちが、お茶を啜りながら窓を指し、部屋に入ってきた僕に教えてくれた。
「いや、別に小夜さんを探しているわけじゃ……」
実際探していたので、少し居心地が悪い。
僕の気持ちは、誰にでもバレバレらしい。僕は、先輩たちに何も言ったことがないのに、僕が小夜さんに特別な感情を持っていると、先輩たちは確信している。週に一回だけ外勤で訪問に来る大学病院の医師にも「憧れのお姉さんとはうまくいってる?」なんて言われる始末。僕は誰にも何も言っていないのに。そんなに態度に出ているのだろうか。
僕の気持ちに唯一気付いていないのは、当の小夜さんだけだ。気付いていないのか、気付かないふりをしているのか。おそらく、前者だと思っているのだけれど、それが僕の勝手な希望的観測という可能性も大きい。
小夜さん。
僕より十歳ほど年上の、きれいな人。去年、転職してきたこの介護施設で一緒に働いている看護師だ。きれいだけどちょっと無愛想で、でも施設の利用者さんには優しい。仕事が丁寧で早い。独り暮らしで、猫と本が好きで、吸ってる煙草はマルボロライトのメンソール。僕が十か月ほど一緒にいて知っている小夜さんの情報はその程度。
「まったく佐久間ちゃんは、小夜ちゃん小夜ちゃんだもんね。若いんだしハンサムなんだから、もっと良い子いるだろうに」
先輩マダムはお茶を啜る。
「はぁ」
へらへらと笑いながら曖昧にうなずいて、窓から体を乗り出して駐車場を覗くと、壁沿いに置かれたベンチに小夜さんが座って煙草を吸っているのが見えた。ほかの喫煙者はいないようだ。
「たしかに小夜ちゃんは美人だけど、ちょっと訳ありっぽいよねえ」
「あんなにきれいなのに、独身だし、彼氏もいないみたいだし」
「いや、言わないだけで、彼氏がいるんじゃないかね。言わないっていうか、言えない相手とか」
「どちらにせよ、佐久間ちゃんの手には負えなさそうよね。佐久間ちゃん、ハンサムだけどちょっと頼りないとこあるから」
マダムたちの勝手な噂話を背中で聞き流し、僕は窓をよじのぼり、外に出た。
ベンチに浅く腰掛け、遠く、どこを見ているかわからない小夜さん。煙草の煙をふーっと長く吐き、また吸って、ふーっと吐く。白衣に紺色のカーディガン。ゆるめにまとめられた長い髪、華奢な首、少し猫背、色の白い手、細い指に挟まった煙草。声をかけても聞こえないんじゃないか、と思うほど、現実味のない横顔。
「小夜さん」
声をかけると、ゆっくり振り向いて、僕を見る。全然微笑みもしない。
「なに」
「別になんでもないですけど、隣いいですか」
「いいよ」
「今日のお昼、何食べたんですか?」
「サンドイッチ」
「おいしかったですか? 職員食堂のカレーはうまかったですよ」
「そう」
いつにも増してそっけない。何か怒っているのだろうか、と僕が黙ると
「ごめんね、テンション低くて。朝から頭が痛いのよ、春は苦手で」
と、少し枯れた小さな声で言った。すっと目を細めて微笑し、吸っていた煙草を携帯灰皿に捨てる。その微笑があまりにも儚げで、春の心地よい空気に攫われて消えてしまいそうだ。
「頭痛ですか。早めの五月病ですかね。午後は僕が小夜さんの分も働きますよ」
缶コーヒーを飲む小夜さんの眉間にしわが寄る。
「うん」とだけ答える小夜さん。愛想なくあしらわれてもそばにいるなんて、男らしくないのかな。
「頭痛いなら煙草はやめたほうがいいですよ」
「そう、本当にその通りよね」
小さな声で言いながら、小夜さんは二本目の煙草に火をつける。煙をゆっくり吸い込んで、ゆっくり吐く。白い煙がまっすぐ飛んで、擦れて消える。小夜さんの笑い方みたいだ。
「さっき薬飲んだんだけどね」
「え?」
「頭痛薬。飲んだんだけどね。まだ効かないの」
「あぁ、痛み止めですか」
「そう。お昼食べて飲んだから、もう少ししたら効いてくると思う。午後の仕事には影響しないはず」
「そうですか。でも、無理しないでくださいね」
「ありがと。無理しなくていいなら、私今すぐ帰るよ」
「え、いや、それは困ります」
介護施設の看護師は少ない。介護福祉士やヘルパーがメインで、医療行為が必要なときだけ、看護師の出番なのだ。逆に言えば、看護師がいなければ医療行為は全くできない。それでも、医療行為の必要な利用者さんはたくさんいらっしゃる。つくづく大変な現場だと感じる。
小夜さんは、ふっと煙を吐きながら「多少は無理しなきゃ生きていけないじゃん、人生って。だから、ほんの少しだけなら無理するよ、今日の午後も」と言って小さく笑った。
こんなことを言われると僕は、この人をどうにも放っておけない気分になるのだ。
小夜さんが、いわゆる放っておけないタイプの女性じゃないことはわかっている。僕なんかよりも、仕事もできるし年上だし、人に甘えて生きるタイプの人じゃない。でも、この人の多少の無理を少しでも肩代わりできないものか、とそんな気分になってしまうのは、やっぱり僕が恋をしているからなのだろうか。消えそうな笑い方をする小夜さんの遠い横顔を眺めて、僕は聞こえないようにため息をついた。
3 小夜 初夏
家に帰ると、ポットが玄関まで出迎えてくれる。どこで寝ていても遊んでいても必ず玄関まで来てくれる。少し毛の長い大きな茶トラの成猫。
拾ったときは痩せ細ってガリガリだったのに、健康に大きくなって6キロにまで育った。少し肥満なので最近はダイエットフードに変えている。のっそりと歩く温厚な甘えん坊だ。抱き上げるとずっしり重い。
「ただいま。一日お留守番ありがとう。ほんっとにポットはかわいいね」
ポットを抱き上げたまま首のあたりに顔を埋めて背中をもじゃもじゃ撫でる。しつこくされてもポットは嫌がらず、私の額をなめたり耳をかじったりして飼い主の癒しに貢献してくれる。
「ポットはお留守番できてえらいね。かわいいかわいいポットちゃん、小夜ちゃんを癒してね」
頬の毛をゆるくひっぱったりお腹の毛をもじゃもじゃにしたりお腹に顔を埋めて匂いを嗅いだり一通りポットをかわいがる。ポットは喉をグルグル鳴らして甘えてくれる。
ポットを膝から解放すると服が毛だらけになった。
冷凍保存してあるご飯とレトルトカレーで夕飯を済ませ、コーヒーを淹れ、ソファに座ると大きなため息が出た。そろそろ初夏だというのに、春みたいに体も気持ちも重い。本物の五月病だろうか。
明日は陽菜が遊びにくるんだ、と思い出し、普段は人に会うのが億劫なタイプだけれど陽菜に会うのは楽しみだな、と思う。陽菜が読みたがっていた本を探しておかないといけない。本棚の前には、入りきらない本や漫画が積み重ねられている。
私の部屋は、単身者向けアパートで、六畳の洋室に四畳ほどのキッチンがついた1K。もう少し広いところにすればよかった、という気もするけれど、五年前、ここに引っ越してきたときは、そんなことはどうでもよかった。ただ、とにかく早く入居できるところを探していたのだ。人の多いところは嫌だった。すぐに入居でき、近くに大きな公園があって緑も多かったので、特に悩まずここに決めた。不動産屋の担当者が「ほかにも紹介でしますよ」と苦笑するほどの即決だった。でも、私にはとにかく新居を早く決めて引っ越さないといけない事情があったのだ。引っ越してすぐ、近所の公園の繁みで、ポットを拾った。
荷物はほとんどなく、小さな冷蔵庫とレンジと小さなテーブルだけで始まった私とポットのここでの生活も、今ではどうにか人並みになった。殺風景だった部屋も今では生活感に溢れ、かなり散らかった。鍋やフライパン、食器も少しは増えた。洋服も少しは買った。小さなソファも買った。五年というのは、それだけの年月なのだ。室内に干された洗濯物、ポストカード、好きな絵のジグソーパズルを完成させて額に入れたもの(ゴッホの夜のカフェテラス)、陽菜にお土産でもらったシーサーのぬいぐるみ、お正月に会った姪っ子がクレヨンで描いてくれたうさぎの絵、そして床に積み上げられた本や漫画。
「本は増殖するって言ってる人がいたけど、本当ね」
片付けようとして一番上に積まれれている漫画を手にとり、そのまま読み始めてしまった。とっくに冷めてしまったコーヒーのカップに手を伸ばす。本も漫画も、あっという間に物語の世界へ連れていってくれる私の強い味方だ。
ポットはいつのまにか、先に私のベッドで眠ってしまった。
翌日も晴れて、きれいで平和な初夏。平凡な日。
「こーんにちは」
十一時ちょうどに陽菜が来た。
「あ、いい匂い」
手足がすらっと長く、黒髪がきれい。陽菜は中学生の女の子だ。私がポットを拾ったとき、実は陽菜のほうが先にポットを見つけていたのだ。でも、まだ小学生だった陽菜は猫を飼うことができず、拾った私の家にポットを見に来るようになったのだ。それ以来、ずっと仲良くしている。だから、ポットは、私の家で飼っている二人の猫なのだ。
陽菜はさっそくポットを抱き上げて毛をもじゃもじゃにして撫でまわしている。
「お昼、ミートソーススパゲティでいい?」
「嬉しい、サヨちゃんのミートソース大好き」
ポットは嬉しそうに陽菜に撫でられて伸びている。
休日は自炊することにしている。簡単なものばかりだけど。ミートソーススパゲティは陽菜が好きなので、会う日はよく作る。挽肉と玉ねぎを炒め、缶詰のホールトマトで煮て、コンソメとケチャップで味付け。簡単だけれど、美味しい。
「あ、サヨちゃん、これお父さんが出張行ったお土産、うちにいっぱいあるからおすそ分け」
「八つ橋! ありがとう、大好き」
「よかった。私これ、ぶにゃぶにゃしていてあんまり好きじゃないの」
陽菜の父親は出張が多いらしくよくお土産をくれる。
「陽菜、そこ、読みたがってた本、置いてあるから忘れないうちに鞄に入れちゃって」
「あー例の新作! ありがとう。おもしろかった?」
「おもしろかったよ。私はかなり好き」
「あー、じゃあ絶対おもしろいじゃん。ありがとう、楽しみ」
陽菜といつもの会話をしてくるうちに自分が少し元気になってくるのがわかった。ミートソーススパゲティを食べたら、公園に散歩に行こう。そして最近読んだおもしろかった本や映画の話、陽菜の好きな絵の話をたくさんしよう。
「それにしても、相変わらずサヨちゃんちは散らかってるね」
陽菜は笑いながら、結局全く片付けられなかった本や漫画をすみに寄せた。
4 佐久間 初夏
日曜日。休みの日は、たまに自転車で買い物に行く。日差しが暖かく、夏という季節への移ろいを感じる。
職場の近くにある自然公園、この中を突っ切っていけばスーパーに近道だ。大きな公園で、木々も多くて、気持ちがいい。日曜なので家族連れも多く、自転車を降りて押して歩いていると、ふと名前を呼ばれた気がした。しかも、小夜さんの声だったような……。
どこから呼ばれたかわからずきょろきょろしていると再び大きな声で呼ばれた。
「佐久間くーん、おーい」
声のほうを向くと小夜さんが制服を着た少女とベンチに座っていた。自転車を押して近づく。大きな木陰。風がそよいで気持ちいい。
「小夜さん、こんなところで何してるんですか」
「何って、ハトにエサあげてるの」
そう言う小夜さんの手にはパン屑のたくさん入ったビニールがあるし、ベンチのまわりにはハトがたくさん集まっている。
「それに、うちすぐそこだし」
と公園のすぐ横のアパートを指す。
「佐久間くんは何してんの」
「タイムズスーパーに行くんです」
小夜さんがパン屑を投げると、ハトたちが群がってくる。
「この人、サヨちゃんの彼氏?」
隣に座る少女にじろじろ見つめられた。
「違う違う、同僚」
小夜さんは実にはっきり否定する。
「ふーん」
少女は納得してないふうに頷き、また僕をじろじろ眺めた。黒くつやつやした髪、切れ長の目、大きくなったら和風の美人になるだろうな。制服は近所の中学のものだったが、大人びた、落ち着いた雰囲気に見えた。小夜さんの親戚だろうか。それにしては似ていない。
「小夜さん、こちらは?」
無遠慮な視線に耐えながら少女の紹介を求めた。
「この子は陽菜。私の数少ない友達の一人」
「桜川陽菜です。こんにちは」
「あ、佐久間です。はじめまして」
友達。ずいぶん年の離れた友達だな。
「ねぇ、サヨちゃん、それでそのとき先生がね」
もう僕を眺めることに飽きたのか、陽菜と呼ばれた少女は、僕が来たから中断されたらしい会話を再開した。僕は、すぐ隣のベンチに腰掛ける。
「先生が、美が痙攣している! なんて叫ぶんだよ、笑っちゃった~」
「あはは、いいね、それ。アンドレブルトンでしょ」
笑いながらハトにパンを投げる小夜さん。灰色の薄手のトレーナーに黒いスキニージーンズ。白衣じゃない姿は新鮮だ。ハトは灰色で、首のまわりだけ光沢のある緑色。くるっくーと鳴きながら、パンをつついて投げるように食べている。
「そうそう、でも実際に叫ぶ人いる? もうおかしくて、芸術は爆発だ! みたいなものかな」
小夜さんと陽菜ちゃんは僕には何の話をしているのか全くわからないが実に楽しそうに会話を続けていた。陽菜ちゃんは身振り手振りをつけて楽しそうに話して、小夜さんは珍しく声を出して笑っている。「春は体調が悪い」と小夜さんは春以降、常に不機嫌そうだったから、元気そうな姿に嬉しいような少し妬けるような複雑な心境だ。
木漏れ日の中で笑う二人は、仲の良い姉妹のようだ。
「あーやばい、もうこんな時間。部活行かなきゃ。じゃーねサヨちゃん」
少女は立ち上がるとスカートについたパン屑をはたく。ハトたちが一斉に飛び立つ。少女は僕にもぺこりと頭を下げて、去っていった。「またねー」と手を振る小夜さん。
「小夜さん、ずいぶん若いお友達がいるんですね」
僕は、少女がいたベンチにうつろうか迷いながら、また集まってきたハトにパン屑をあげている小夜さんの横顔に話しかける。
「そうなの、年は離れてるけど、仲良しよ」
「陽菜ちゃん、何歳なんですか?」
「今中学一年生。五年くらい前かな、知り合って、それからずっと仲良し」
五年前の小夜さん。僕の知らない小夜さん。
「五年前ってことは、陽菜ちゃんが小学生のときに友達になったんですか?」
「そうよ、ここの公園で知り合って友達になって、あと、ポットの名付け親」
ポットというのは小夜さんが溺愛している愛猫だ。変わった名前だと思っていたけれど、あの子がつけたのか。小学生と当時三十五歳の小夜さんが、何をきっかけで友達になるのだろう。
「でも、それだけ年が離れているのに、話合います? やっぱり友達っていうと、同年代のほうが仲良くなる気がしますけど」
小夜さんはチラっと僕を見てからまた正面を見て「同年代でも気が合わない人なんてたくさんいるでしょ。それに、同年代じゃないと気が合わないって言ったら、私たちも同年代じゃないわ」
「いや、僕と小夜さんはそんなに離れてないですし、いや、離れていても年齢は関係ありませんよ、そうですよ、陽菜ちゃんと小夜さんの友情も年齢は関係ないし、愛情にも年齢は関係ありません!」
「そうね、年齢じゃないわね」
どさくさに紛れて愛情の話をしてみたが、小夜さんはあまり気にしていない様子だった。一般論として捉えているのだろう。僕が小夜さんをどう思っているか。小夜さんは何を考えているか読みにくい。
僕はこれからタイムズスーパーに買い物に行く、というと、「私も行く」と小夜さんが言うので、僕たちは連れ立って歩いてスーパーへ向かった。
僕は夕飯のお総菜を、小夜さんは「明日の朝ごはん」と言ってパンを買って、僕は小夜さんのアパートの前まで送って、「じゃ明日職場でね」と別れた。二人でスーパーで買い物なんて、夫婦みたいだな、なんて勝手に考えていたら、自転車をこぎながら思わず鼻歌が出た。
5 小夜 梅雨
今日も雨だ。今年の梅雨は、肌寒くて雨が多い。
霧吹きのような細かい雨に、全身が包まれるようだ。雨音の少ない静かな雨。吸気に混じる湿気。室内にいても雨の気配は入り込んでくる。雨は好きだけれど、煙草を吸いに行けないので、休憩中コーヒーを飲みながらテレビを見るしかない。
「苦労したくないから離婚する、っていうのも、何か違う気がするけどね」
何かと思って見ると、同僚の山下さんがお茶を啜りながらテレビを指す。
「あぁ、これ」
ワイドショーで最近離婚した芸能人の話題がやっていた。山下さんはため息をつく。
「一度でも好きになった人を、こんな風には言いたくないねえ」
テレビでは、一方的に離婚を言い渡した女性タレントが元夫の悪口を大げさに笑いながら芸能レポーターにぶつけていた。モラルハラスメントだとか、何だとか。
『よくあんな人と五年も夫婦やってられたなって、自分で自分をほめたいですよ! 苦労しかなかったんですよ。私は苦労するためだけに結婚したのかって! ひどいもんです!』
「苦労したくないから離婚するっていうのも、おかしなものだね」
「そうですね」
「この人となら、どんな不幸も乗り越えられるっていう人と、結婚したほうがいいのにねえ」
山下さんは独り言のようにぶつぶつと話す。あぁ、そんな考え方もあるのか。
「そんな人と結婚できるのが、一番いいのかもしれませんね。でも、自分と一緒にいることで、相手の幸せを奪っているような気になってしまうなら、離れたほうがいいですよね」
そう言うと、山下さんは私をチラっと見て、「まあ、そんなことも、あるかもしれないね」と言った。
山下さんは十年ほど前に亡くなった旦那さんの借金をまだ返している途中だ、と聞いたことがある。でも、その話は、山下さんから直接聞いたことはないし、山下さんから「私苦労してます」という雰囲気を感じることは全然ない。いつも優しいし穏やかだし、面倒見の良い人だ。
山下さんだけじゃない。私はここで働く年上の女性たち、人生の先輩たちに、いつも優しくしてもらっている。でも、明るくてお節介で噂好きの人生の先輩たちは、あの明るさの内側にたくさんの過去を隠しているのだ。いや、隠しているわけではない。他人から見えないところにそっと置いて、ひっそりと抱えている。パッと見じゃわからないようにして、自分だけで抱いているのだ。まるで、卵を温める親鳥のように。
新婚で夫に先立たれたとか、子供を亡くしているとか、暴君のような姑の介護を三十年続けてきたとか。たくさんの語られない過去たち。みんな、わざわざ自分の苦労を日ごろから口にしたりしない。
利用者さんたちもそうだ。
仕事柄、他人様のプライベートを知ることが多い。例えば私が会社員をしていたなら、絶対知ることはないであろう、他人様の夥しい量の過去。
利用者さんたちのカルテには、八十年、九十年、百年と生きてきた「生活歴・成育歴」が記されている。そこには、想像もつかないような凄惨な過去がある。悲しい事情がある。残酷な現実がある。
私は、ご高齢の人生の先輩たちに、聞いてみたいときがある。今までの人生で一番辛かったことは何ですか。それを、笑って話せるようになるまで、何年かかりましたか。
私は、あと何年たてば、何もかも笑って話せるようになるのだろうか。内側にたくさんのことを隠して穏やかに過ごす、人生の先輩たちのようになれるのだろうか。
黙ってしまった私のことを気に留めず、お茶を啜る山下さん。
この職場の人たちはみんな優しい。私は愛想がないし、あまり人との距離をつめていない。その自覚はある。
そのことを不快に思っている人もいるのかもしれないし、私の過去をあることないこと噂しているのも聞いたことがある。でも、そういう類の噂は、全て優しさでできているのだ。だって、どうでもいい人の噂はしない。私は同僚の先輩たちに、どこか心配されている節がある。それがなぜなのか、自分でもわからなくはないのだけれど、それでもまだ誰かと親しくなって、あけすけに何でも話して、自分を解放する気にはなれないのだ。いつかそんな日がくるなら、どんなにか楽なのに、と思う。
雨はまだ降っている。
止まない雨はない、なんて言うけれど、雨が止まない人生で何が悪いのだろう。行くところ行くところ雨。雨に打たれながら、あぁ今この雨は私のために降っているんだな、と思う日があったっていいじゃない。
一つ小さくため息をついて冷めたコーヒーを飲む。午後は少し忙しいから、頑張らなければ。どんなに雨に打たれていたって、仕事は仕事だ。こんな私にも、きっと少しはできることがある。看護師免許をとっておいて良かったな、とふと思った。自分が何者であるのか、帰属する肩書があって良かった。とりあえずは、看護師という名で、生きていけるから。
6 佐久間 梅雨
梅雨の晴れ間の日曜日、久しぶりに小夜さんと休みがかぶっている。
午後になってから、もしかしたら、と思って自転車で自然公園に行ってみると、小夜さんと陽菜ちゃんが、前と同じベンチに座っていた。陽菜ちゃんは、今日は制服ではなく、Tシャツにスキニーパンツで、制服のときより大人びて見える。小夜さんはグレーのTシャツにカーキ色のカーゴパンツを履いている。煙草を吸っていて、手元に空のビニールがある。ハトへのエサやりは終わったようだ。
「おー佐久間くん、また来たの?」
小夜さんが僕に気付いて手を振ってくれる。
また二人で夕飯の買い物に行けたらいいな、と淡い期待もあったが、今日の陽菜ちゃんは私服だから部活はなさそうだ。少しお喋りの仲間に入れてもらったら、一人で買い物に行こうと思った。
「今日はエサやりは終わったんですか?」
自転車を押して近付きながら話しかける。
「うん。もう終わり」
「いつもエサやりしているんですか?」
「いつもってわけじゃないけど、久しぶりに晴れたから」
ね、と言って小夜さんは陽菜ちゃんを見る。
「ここの公園のハトって、首のまわり、緑色に光っていてきれいですよね」
僕が言うと小夜さんが「あぁ、キジバトだから」と言う。
「キジバト?」
「うん。全身灰色のはドバトでしょ? このあたりは自然が多いから、キジバトもいるんだよ」
ハトにも種類があるなんて知らなかった。
小夜さんの数少ない友達、だという陽菜ちゃんは、相変わらず僕を品定めするような目で見て、少しニヤニヤしている。中学生の女の子なんて、何を話したらいいかわからない。
「そうそう、佐久間くん、今日夕飯に陽菜と商店街のお好み焼き屋さん行くんだけど、一緒にどう?」
「え、いいんですか?」
「うん、一緒に行こうよ。お好み焼き、好き?」
「好きです、大好きです」
商店街にお好み焼き屋さんがあるのは知っていたが、一人ではなかなか入らない。向かいにある中華料理店はよく行くが、お好み焼き屋さんは初めてだ。
「二人で行くのに、邪魔じゃないですか?」
「いいよね、陽菜」
「うん。全然いいよ。そのかわり、全部奢ってくださいね」
「え!」
陽菜ちゃんはニヤニヤしたまま言う。
「嘘よ、佐久間くん。中学生にからかわれて狼狽えないで」
陽菜もからかうんじゃないわよ、と言って小夜さんは笑った。陽菜ちゃんはまだニヤニヤしている。
僕はこんな年下の女性からもからかわれてしまう。職場のマダムたちが言う「頼りない」というのも、あながち間違いじゃないのかもしれないな、と反省した。
僕が上手にお好み焼きをひっくり返すと、二人が「わー! すごい」「上手!」と褒めてくれた。ずいぶん大げさな、と思ったが、いつも二人で頑張ってみるが、ぐちゃぐちゃになってしまうらしい。
「今度からお好み焼きのときは佐久間さん呼ばないとね」
陽菜ちゃんが言って笑う。ひっくり返し要員で構わないからぜひ呼んでほしい。
三人ともそれなりによく食べて、僕はビールも飲んで、小夜さんは「また明日から雨かな、頭痛い」と言いながら途中で頭痛薬を飲んだけれど、それでもいつもより饒舌で、とても楽しい夜だった。
店を出ると空気があまりに澄んでいて、店内が油臭かったことに気付く。服に鼻をつけると、しっかり油臭かった。三人が三人とも、同じように油臭いままそれぞれの家に帰るのだな、と思うと、なんだか仲間みたいな気分になった。仲間で味方。
頭痛薬が効いたらしい小夜さんは、陽菜ちゃんと「いい空気」と深呼吸している。親子ほど年が離れているはずなのに、本当に親友のように見えた。
「本当はこのままで、何もかも全て素晴らしいのにぃ」
小夜さんが僕の知らない歌を歌っている。小夜さんは、今日もきれいだ。
「あ、三毛猫」
小夜さんが指さす先に、一匹の三毛猫がいた。
「博士んちの三毛猫かな」
小夜さんが言う。
「かもね」と陽菜ちゃん。
「博士? 誰ですか」
「うちのアパートの裏の豪邸に、三毛猫博士って呼ばれてる人が住んでるの。知らない? このへんじゃ結構有名人だけど」
「三毛猫博士? 三毛猫の研究をしてるんですか?」
「そうじゃなくて、何かの研究をしている博士らしいんだけど、三毛猫ばっかり二十匹くらい飼ってるんだって」
「なんですか、それ、都市伝説ですか?」
「いや、本当本当。事実だよ。大きな家も猫のために建てたって噂だよ」
「変わり者もいるものですね」
「変わってるけど、猫たちはほとんど家から出ないし、トイレのしつけも出来てるし、近所には全然迷惑かけないから、近隣トラブルにもならないらしいよ。博士は無口だけど良い人らしくて、猫のエサとか寄付してくれる人もいるんだって」
猫のことを夢中で話す小夜さんは可愛らしいな、と思った。普段、職場で見るテキパキした小夜さんより、ほんの少し、無防備な感じ。三毛猫はさっと走って逃げてしまった。
陽菜ちゃんを家まで送ってから、小夜さんと別れて帰宅した。
家に帰ると「今また家の前で別の三毛猫見たよ。たぶん博士の三毛猫」と小夜さんからメールが来た。僕にはそれぞれの三毛猫の区別はつかないが、その猫も博士の三毛猫なら、けっこう家から脱走してしまっているじゃないか、と一人で笑った。
7 小夜 夏
台風が近いらしい。
雨は降っていないが、風が強いから、指に挟んでいるだけで煙草がどんどん短くなっていく。その様子を少し眺めてから、フィルタに口を付ける。煙草は血管を収縮させるはずなのに、全然気が引き締まらない。余計にぼーっとしてしまうのは何故だろう。
青鈍の空を流れる雲が速い。
この前、佐久間くんと陽菜とお好み焼きを食べたあと、陽菜に「いつもよりサヨちゃん楽しそうだったね」と言われた。別にそんなことない。
「いつも通りだよ」と返したけれど、陽菜は笑って言った。
「サヨちゃんは何もわかってないね」
「何が?」
「佐久間さん、サヨちゃんのこと、好きだと思うよ」
「そんなはずないじゃない、私何歳だと思ってるの?」
「そんなの、年齢なんて関係ないじゃん。サヨちゃんも佐久間さんといると、楽しそう」
「そういう関係じゃないんだって」
「そお? 私は、いいと思うけどな、佐久間さん。サヨちゃんに合ってる」
「何それ、佐久間くんに迷惑よ」
「サヨちゃん、わかってないなー」
そんなわけないじゃない。わかってないのは陽菜のほうだ。
つい先日、久しぶりに恵と電話したときも言われた。
「陽菜ちゃんの言う通り、恋愛対象として見られてるんじゃないの? そうじゃなきゃ、わざわざ小夜に会いに公園まで来ないでしょ。しょっちゅう喫煙所に出てくるのだって、小夜と話したいからなんじゃないの?」
恵は私の数少ない友達のもう一人で、一番古い友達だ。
恵は、長い髪を三つ編みにして制服を着ていた中学生の私を知っている。私は、ショートカットだった中学生の恵も、おかっぱで前髪を切りすぎて、ワカメちゃんみたいになった高校生の恵も知っている。恵の結婚式で友人代表のスピーチをしたのは私だし、私は人前で恥ずかし気もなく泣いて祝った。そんな友達は、恵しかいない。
でも、私のことを一番わかってくれている恵にしたって、佐久間くんとはそういう関係じゃないんだ、と言いたかった。何にせよ、佐久間くんに悪いじゃないか。
ほとんど風でなくなったも同然の煙草を消して、窓をよじ登って休憩室に戻ると、同じ休憩時間帯なのに珍しく喫煙所に出てこなかった件の佐久間くんが、テーブルに分厚い本を広げ、難しい顔をしていた。
「何してんの?」
よほど集中していたのか、声をかけるとビクっとして顔をあげる。
「あ、小夜さん、煙草吸ってたんですね。いやあ、ちょっと難しい仕事やることになっちゃって。悩んでました」
見ると、分厚い本のほかにノートもあり、何やら細かく書き込んでいる。
「僕、来週介護スタッフ向けの勉強会をやる担当になっちゃって」と言ってノートを見せてくる。
「【認知症:その病気の理解と介護のポイント】なんか難しそうなテーマだね」
「そうなんですよ。これからの社会はますます高齢化が進んで、僕たちの施設にも認知症の方が増えるだろうから、介護職も専門的な知識をより深めていこう、という趣旨の勉強会なんですけど……。調べ始めたら、認知症ってひとことに言ってもすごい種類があって……」
「そうね。アルツハイマー、脳血管性の認知症、器質性のもあるし、レビー小体とか、アルコールからくるコルサコフ症候群もあるし……」
私の話の途中で、佐久間くんはペチンと音を立てて自分の額を叩いた。
「あー、さすが小夜さん。マジですか。やっぱりナースなんだなあ。すごいや。この難しい本に、まさにそういうのが書いてあります!」
目を丸くして私と本を交互に見ている佐久間くん。
「ナースなんだなあって、当たり前でしょ。何だと思ってたのよ。もう十五年以上ナースやってるわ」
それにしても、と分厚い本を見て思う。
「その本、難しすぎない?」
佐久間くんは学術書のような難しい本と格闘しているのだ。
「そうなんですよ。図書館に行ったら認知症の本がこれしかなくて。僕、活字あんまり得意じゃないし、読んでるだけで難しくて……」と項垂れている。
「あー、たぶん、私もう少し分かりやすい本、持ってるよ。ナース向けの」
「え、本当ですか?」
「うん。家にある。明日休みだけど、ここに届けにきてもいいよ?」
「僕も明日休みです」
「あ、じゃ、うちに取りに来てよ」
「うわー、超助かります。ありがとうございます。あー良かったー。これで、もうこの本を見なくていいんだ、良かったー」
いつまでもぶつぶつ言っているから、相当学術書に参っていたんだな、と思うと、気の毒で笑えてきた。そして、ほらこんなに簡単に家に来るって言うなんて、恋愛の意味の好意があったら、普通躊躇して、言えないでしょ? と陽菜と恵に言ってやりたい気がした。
8 佐久間 夏
小夜さんに本を借りるため、公園で待ち合わせをして、小夜さんのアパートに向かう。近付いていた台風は夜のうちに海のほうへ逸れてくれて、今日は天気が良い。
小夜さんがあまりにも繰り返し「狭いし、本当に片付けられないタイプだから、すごい散らかってるよ」と念を押すので、足の踏み場もないゴミ屋敷のような、使った食器がシンクに積み上げられ、灰皿には山盛りの煙草の吸殻、その合間を愛猫のポットが大暴れ……なんて想像を勝手に膨らませていたのだけれど、予想に反して小夜さんの部屋は片付いていた。
いや、すごくきれいな部屋を想像して行ったら「少し散らかっている」と思ったのかもしれないが、小夜さんに散々「本当にひどいから」と言われてから来たので、基準が下がっただけかもしれない。
六畳ほどの洋室と四畳ほどのキッチンが、仕切りなく繋がっているタイプの作り。玄関を入ると、大きな猫が出迎えてくれた。小夜さんの愛猫、ポットちゃん。
「ポット~、ただいま。お留守番ありがとう。かわいいねぇ。今日はお客さんだよ。陽菜ちゃんじゃないよ。初めましての人。こんにちわって挨拶するのよ」
小夜さんが愛猫を抱き上げて、聞いたことのないような優しい声で話しかけている。
「散らかってて本当に申し訳ないんだけど、あがってくれる?」
言われて僕は「おじゃまします」と言って、少し緊張して靴を脱いだ。
室内は、ベッド(グレーのベッドカバー)とソファ(ベージュ色で猫の爪とぎ跡が目立つ)とテレビ、小さなテーブル、そして本棚。
僕が今までの人生で読んだ全ての本より多いだろう。胸の高さほどの本棚が二つあって、全て本と漫画で隙間なく埋まっており、その本棚の前にも、もう一つ本棚買ったほうがいいんじゃないですか? と言いたくなるくらいの量、本が積まれている。乱雑にではなく、きれいに揃えられてびしっと積んである。
本棚の上にはいろんな物が乗っている。僕の知らない絵のポストカード。見たことがあるものもある。完成しているジグソーパズルが額に入って飾ってある。かろうじてわかるのは、このパズル、ゴッホくらいか。
「コーヒー淹れるから、適当に座ってて」
と言ってキッチンに立っている小夜さんに聞く。
「これ、ゴッホですか?」
「え? あぁ、そう。パズルは『夜のカフェテラス』ポストカードは『カラスと麦畑』。なんだっけ、『孤独と悲しみを十分に表現しえた』だっけ。ゴッホが亡くなる直前に描いたって言われてる作品。あとは、ジョルジョ・デ・キリコとルネ・マグリット。好きなの」
どこで区切るのかわからないような、呪文のような名前だな、と思う。『街の神秘と憂鬱』『光の帝国』と、それぞれのポストカードの下にタイトルがついていた。
「小夜さん、絵、詳しいんですか?」
「いや、全然。詳しくないよ。見て、ただきれいだな、とか、好きだなとか思うだけ。解釈とかは、全然わかんない。それは本もそうだけど。陽菜が美術部だから、陽菜のが詳しいよ」
コルクボードが飾ってあり、ポットの子猫のときの写真や、その子猫を両手で包むように抱いている少女の写真があった。
「これ、陽菜ちゃんですか?」
キッチンでコーヒーの準備をしている小夜さんに話しかけるとチラっと振り向いて「そーよ、それ、ポットを拾ってすぐの頃」と言う。というと、陽菜ちゃんは小学二年生くらいか。
大人びた目つきで僕をからかうようにニヤニヤする今の陽菜ちゃんではなく、素直そうな無邪気な少女だ。小学二年生から中学生では、内面も外見も、大人からは信じられないほど成長するのだろうな、と思う。陽菜ちゃんに言ったら「佐久間さん、知ったかしないでよ」と笑われそうだ。
コーヒーを運んできた小夜さんは、僕にソファを勧めてから、自分はクッションを敷いて床に座る。
「すごい本の量ですね」
思わず口に出す。
「あーもう、ほんと散らかっててごめんね。本はね、未読の本が十冊くらい手元にないと落ち着かないのよ。こっちは読み終わった本だけど」と積みあがった本を指す。
「これでも、もう置き場がないから、文庫本は五十冊くらい古本屋に売ったんだよ」
「え、まだこれ以上あったんですか?」
「うん。けど、古本屋の買い取りって、すっごい安いんだよ、知ってる? 文庫本なんてきれいな本でも五円とか、三円とかのときもあるし。単行本で、よくて五十円くらいだよ。信じられない」
手元にあった本を一冊手にとり、「この本たちは、そんな価値じゃないのに」と言って愛おしそうに表紙を撫でる。そして、ぺらっと一ページ目をめくると、すっと気配を消すように小説を読み始めた。
「小夜さん、小夜さん?」
呼びかけると、はっと顔をあげてバツが悪そうに「あ、ごめん。つい読み始めちゃった」と笑った。
「そうだ、カステラあるんだ。食べる?」
小夜さんは立ち上がって、またキッチンへ行った。
「陽菜のお父さんが出張だったらしくて、美味しいカステラ買ってきてくれたのよ。おすそ分けだって。出張の多い仕事も大変だけど、お土産は楽しみよね」
カステラを皿に盛っている小夜さんは、自分の家にいるのだから当然なのだけれど、いつもよりずっとくつろいだ様子で、その無防備さがあまりにも可愛らしくて、僕は本当にこの女性に恋をしているのだ、と自覚せざるをえなかった。そして、その気持ちを自覚した瞬間、一気に緊張し始めた。僕は今、小夜さんと二人きりで小夜さんの部屋にいる。
小夜さんは決して軽いタイプの女性ではないだろう。でも、男を部屋にあげるというのは、何かあっても良いということなのか? いやいや、そもそもそういう対象の男として見られていないということだってありうる。好きな男だったら、逆にこんなにも簡単に部屋にはあげないのではないか? ここで僕が小夜さんを抱き寄せたり、押し倒したりでもしたら、それはやっぱり犯罪になるのだろうか。もちろん、僕はそんなことはしない。できない。でも、せっかく二人きりになったチャンス。気持ちを伝えることくらいは、してもいいのではないか?
僕はソファから立ち上がり、両の拳を握りしめる。
「小夜さん……」
んー? という間の抜けた返事とともに振り返る小夜さん。
「小夜さん……」
「何?」
カステラの乗った皿を持ったまま小夜さんは立ちつくして僕を見ている。
「小夜さん、えっと……」
小夜さんが怪訝な表情になる。なんだよ、何かあるなら早く言えよ。そういう顔をしている……ように僕には見える。
「小夜さん……僕カステラ大好きです」
はあぁ。だめだ。言えない。
「あ、そお? 良かった」
僕は拳を解き、へなへなとソファに座る。小夜さんの足元にすり寄っていたポットが僕を盗み見て「バカだなあ」という風にあくびをした。
そのあとの僕はすっかり意気消沈してしまい、カステラを味わい(確かに美味しかった)コーヒーを飲み(美味しかった)勉強会の資料に使う文献を借りて、そそくさと小夜さんの家を後にした。
9 小夜 秋
ポットの爪を切っていてふと思う。
爪の伸びている男の人が苦手だ。一見、素敵に見える男性でも、爪が伸びているのを見ると「うわっ」と思ってしまう。不潔に見えるし、だらしなく見えるし、何より、そんな伸びた汚い爪でどうやって好きな女性の体に触るの? と思ってしまう。「女性の体はデリケートだから傷つけないように爪はいつも短く切っておくんだ」と、昔よくモテる男友達が言っていたことを思い出す。
男はタフで女はデリケート、なんて全く思わないけれど(面の皮の厚い女なんて山ほどいる)体の組織や皮膚の薄さを考えたら、短い清潔な爪で丁寧に扱ってほしい。
ポットの爪を切り終えて爪のゴミを集めながら思う。昔一緒にいたあの人は、爪の短い優しい手をしていた。そして、私を優しく抱いた。もう、ずいぶん昔のことだ。
佐久間くんも、いつも短くて清潔な爪だな、と思ってから、介護職だから当たり前か、と思う。でも、そうじゃない職員もたまにいるし、休憩室で慌てて爪切りをしている職員もたまにいる。佐久間くんは爪も短くて清潔だし性格も優しいからきっと女性にも優しくて丁寧なのだろう、と思ってから、「佐久間くん」と「性的な想像」というのはかけ離れているな、と思う。それは、年齢のせいなのか。彼が物理的にも精神的にも私と一定の距離を保っていて、近付いてこないせいなのか。
この前、この部屋に来たときも、彼は、親戚の家に遊びにきた甥っ子のようだった。図々しくない程度にくつろぎ、カステラを食べて「じゃ、勉強会の資料作るので!」と言って、早々に帰っていった。
だから、だからやっぱり、恵や陽菜が言うような恋愛感情を佐久間くんが私に持っているとは思えない。
そうなればなおさら、わがままな親戚の叔母さんのような私から、解放してあげなければいけないのだ。「困ったときの佐久間くん」は卒業しなければならない。
この前、恵の家でやるバーベキューに誘われ、いつもは陽菜を連れて行くのだけれど、部活があると断られ、初めて佐久間くんを連れて行った。恵の友人やママ友も多く集まるから、恵には会いたいが、一人で行くのは気が引けるのだ。
佐久間くんは、はじめましての人たちの中であっという間に打ち解け、積極的に肉を焼いたり、飲み物を配ったりして、私の目から見ても、とても気の利く好青年だった。
「佐久間くん、優しそうで可愛いわね。何歳っていったっけ?」
恵は私が佐久間くんを連れていくと言ったとき、大いに関心を示した。ずっと会いたがっていたのだ。
「確か十歳くらい下だから、三十歳くらいじゃない?」
「え、十歳も下? そうは見えないわね、なんか、小夜と並んでると、兄と妹みたい」
「そりゃ、いくらなんでもかわいそうよ」
「いや、外見はね、小夜のが上に見えるんだけど」
「当たり前でしょ」
「でも、何だろ、精神年齢? 案外、小夜よりしっかりしてるかもよ」
遠慮のない女友達の意見に口をとがらせて不満を示す。でも、確かに、私なんかよりもずっとしっかりしている。こんな誰も知らないバーベキューに連れてこられて、あんなに打ち解けて、社会性があるのだ。あと協調性。陽菜よりも子供っぽい私が、佐久間くんより大人なわけがない。
「まあ、そうかもしれないけど」
「陽菜ちゃんが言ってた通り、佐久間くんが小夜のこと好きなの、本当っぽいわね」
「は? なんでそうなるの? 今日会ったばっかりでしょ、何がわかるのよ」
ふふっと笑って恵は、華奢な指を折りながら、私を諭すように話す。
「まず、好きじゃなければこんなバーベキューの誘いに乗らない。次に、小夜みたいなワガママで愛想のない女を慕っているのは、尊敬や友達としてでは無理」
「あ、ひどい。そんな友達の一人のくせに」
「私と陽菜ちゃんは小夜のことよく知ってるから友達やってられるのよ。あんな若い、しかも気が利くイケメンがさ、ただの友達で小夜を慕うって、ちょっと考えられない」
「ひどい言われようね」
何でもあけすけに言いすぎるこの友達を、私は貴重に思っている。五年前、誰にも告げず勝手に引っ越した私が、唯一連絡をとり続けた友達。
「だって事実でしょ。男の人からの好意に気付きにくいし。小夜、鈍感でしょ」
「まあ、そういうところもあるけどさ。けどさ、いくら私が鈍感だからって、何も言われたことないわよ? 好きとか。そんな直接的じゃなくても、例えば、彼氏いるんですか? とかさ、聞かれたことないし」
「ふーん。それも小夜が聞き逃してる気もするけどね。まあ、けど、小夜にその気がないなら、早めにはっきり断ってあげたほうがいいわよ。もしかしたら脈ありかも、って思ってる可能性高いわよ」
「なんでよ?」
「小夜、困ったときの佐久間くん、やってない?」
「え?」
「今日だって、『恵には会いたいけど人が多いのは苦手だな、けど陽菜は部活だし、そうだ佐久間くんにお願いしよう』……って感じでしょ、どうせ」
これだから長い友達というのは。ため息が出る。
「その通りよ。まったくもって、その通り」
「そういうの、佐久間くんにしてみたら、誘ってもらえるのは嬉しいから来るわけでしょ? こんな初めましての人ばっかりのところに」
「そうかなー。そうなのかなー。私が悪いのかなー」
「別に悪いとかじゃないよ。思わせぶりなことはやめてあげなってこと」
「思わせぶりになんてしてないわよ」
あのときははっきりそう言い返した。私は佐久間くんに思わせぶりな態度なんてしたことはない。それに、お好み焼きをひっくり返すのがうまいから、という理由で食事に誘ったり、確かに「困ったときの佐久間くん」をやってしまっているかもしれないけれど、それは佐久間くんと一緒にいるのが楽しいからでもあるのだ。
私は、あの爪の短い好青年を、嫌ってはいない。それは事実だ。だからって、私を恋愛対象として見ているとは、やっぱり思えない。それも事実なのだ。四十歳になる女が、十歳も年下の男性に好かれている、という発想が持てるのは、私には考えられないことなのだ。
10 佐久間 秋
介護施設はまとめて職員が休暇をとるわけにいかないので、順番に時期をずらして夏季休暇をとる。今年の僕の夏休みは十月。十月の北海道は十分に肌寒く、関東に戻ってきて、季節が逆戻りした気分だ。
小夜さんに渡したいものがある、と連絡をすると、今日は休みらしく、いつもハトにエサをあげている公園を指定された。公園に着くと、小夜さんはベンチに座って、ぼーっとしていた。
僕に気付いていないのか、少し紅葉し始めた木々の葉を眺め、遠い目をしている。白い長袖のTシャツにゆるいデニムのパンツ、グレーのコンバース。長い髪を珍しく下ろしている。木漏れ日の下、心ここに在らずといった顔をした小夜さん。こういう顔を見ると僕は、この愛おしい気持ちをどこに向けたらいいのかわからなくなる。小夜さんにこの気持ちをぶつけても、あんな遠い目をした彼女には、到底届かないのではないか。小夜さんは一体、何を見ているのだろうか。
仕事中の小夜さんとも、陽菜ちゃんや恵さんと一緒にいるときとも違う、一人のときの小夜さんの顔だな、と思った。
僕はしばらく一人で座っている小夜さんを眺めた。
少ししてから声をかけると、小夜さんは振り向いて、すっと目を細めて微笑し、誰かと一緒にいるときの顔になった。
僕は小夜さんの隣に座り、意味もなく足元の砂を靴でこすってみたりする。言いたいことをすぐに言えない、僕の悪い癖だ。
「夏休み、久しぶりに実家に帰ったんです、これ良かったら、お土産もらってください」
大きな勇気と一緒に取り出した、小さな取っ手のついた小箱。透明の蓋から中身が見える。細かい突起のついた回転する筒のようなもの、目の細かい銀色の櫛のようなもの。小さい美しい精密な金属。小箱の端にOTARUと彫ってある。
「オルゴール? 小樽? ご実家、北海道なの?」
「そうですよ、前にも言ったじゃないですか」
「ごめんね、忘れちゃった」
小夜さんはその華奢な機械を受け取り、そっと取っ手を回して音を奏でる。
「きれい。シューベルトのセレナーデ」
「そうです。セレナーデって日本語にすると小夜曲っていうから、小夜さんにぴったりだなって思って。ロマンチックなお土産でしょ」
渡しながら、結構緊張していた。僕としては、結構思い切った選曲だった。でも、お店で探しているとき、これしかない、と思ったのだ。
小夜さんはふふっと笑いオルゴールを回す手を止めてじっと手元を見る。
「僕の歌は夜の中を抜け、あなたへひっそりと訴えかける、静かな森の中へ降りておいで、恋人よ、僕のもとへ、僕はあなたを待ちわびている、来て、僕のもとへ、僕を幸せにして」
それだけ言い終えると、小夜さんはまたオルゴールを鳴らした。
「え、なんですか、それ」
「何って、シューベルトのセレナーデの歌詞。こんな感じだった気がする」
僕を見て首をかしげる小夜さんの、耳にかけていた髪がほどけてなびく。「知らないで買ったの?」と苦笑している。
セレナーデの意味は知っていたが、そんなに直接的な愛の歌だったとは。
恥ずかしくなって、「ところで」と話を変える。
「小夜さんって、きれいな名前ですよね。小夜さんの小夜は、小夜曲の小夜が由来ですか?」
「どうなんだろ、聞いたことない。そうなのかもしれないし、違うかもしれないわ」
僕は苦笑した。
「そりゃ、そのどちらか、ですからね」
小夜さんはときどき、真顔で変なことを言う。
「セレナーデって、愛の歌だから情熱的なイメージですけど、確か由来はイタリア語のセレナーレで、『なだめる』とか『穏やかにさせる』とかいう意味なんですよ。知ってました? メロディにはぴったりですよね」
さきほどの歌詞で無知を晒してしまったので、名誉を取り戻したい。
「知らない。佐久間くん、物知りね」
「あ、いや、受け売りなんですけど。兄の奥さんの親友が音楽の先生で」
「お兄さんの奥さんのお友達? ずいぶん遠い知り合いね」
「そうなんですよ。でも、兄の家に遊びにいくとその奥さんの親友もよく来ていて、よくいろんな音楽の話を聞かせてもらいました」
「セレナーデって、夜に恋人が窓の外で歌ってくれる歌のことでしょ。その愛の歌を聞いて、気持ちがなだめられたり穏やかになるなんて、熱烈な愛の歌よりずっと、ロマンチックね」
「僕もそう思います」
「ありがとう。私オルゴール好きなのよ、大切にするね」
小夜さんはすっと目を細めて笑った。残暑の日差しは傾き、少し秋めいた涼しい風が吹いている。
僕は、ずっと気になっていたことを小夜さんに言おうか迷っていたが、何気ないふりで言うことにした。
「小夜さんって、陽菜ちゃんとか恵さんと一緒にいるとき、ちょっといつもと違いますよね。いつもより楽しそうっていうか、にこにこしていて、バーベキューのときもちょっと妬いてました」
言った途端、小夜さんは僕をパッと振り返り、ふっと吹き出した。
「やだ、それ、陽菜にも言われた」
「え?」
「だから、佐久間くんと一緒のとき、いつもの私より楽しそうだって」
「え、ええ? 本当ですか? わー嬉しいな」
ふふふと笑いながら僕を見て、けど、と言う。
「けど、佐久間くんは、そう思ってなかったの?」
少し首をかしげる小夜さんの、長い前髪が揺れる。
「佐久間くんは、佐久間くんと一緒にいるときの私、楽しそうに見えてなかったの?」
すっと目を細めて僕を見る。
「え、いや、わからないですよ、自分では。そりゃ、楽しいって思ってもらえたら嬉しいですけど、それは僕にはわからないし」
しどろもどろが嫌になった。まったく、だから僕では頼りないって言われてしまうんだ。
「佐久間くんからどう見えてるのか知らないけど、私、こう見えても、佐久間くんと一緒にいるとき、いつもより気持ちが落ち着いてるのよ」
「え」
ふいに真面目な口調で言うから、思わず見つめてしまった。
小夜さんは、すっと目をそらし、それきり無言で秋の高い空を見つめていた。
11 小夜 晩秋
十一月に入って、職場の夏季休暇をとった。だからって、別にどこにも行かない。ポットがいるから旅行は行けないし、ポットがいなくても、旅行に行く気分でもない。
ただぼんやりと一週間過ごせばいいだけだ。陽菜と過ごせる時間が増えるのは嬉しいことかもしれない。数少ない独身の友達(中学生だから当たり前だけれど)の存在は、やはり大きい。
二本目の煙草を携帯灰皿に捨てて、すぐに三本目に火をつける。
陽が暖かく、コートがいらない。陽菜も、着てきた紺のダッフルコートをベンチの背中にかけて、セーターとジーンズ姿でハトにパン屑をあげている。空気の間延びした午後。花壇で子供と父親らしき男性が花を見ている。指に挟んだメンソールは、どんなときでも私の肺を薄藍に染めてくれる。
どうしてあんなことを言ってしまったんだろう。
「佐久間くんと一緒にいると気持ちが落ち着く」
あの時、自分で口に出してから、一瞬で後悔した。恵や陽菜が言うように、佐久間くんが私に好意を持っているとしたら、なんて軽率な発言だったんだろう。しかも、セレナーデなんて、意味深げな選曲のお土産まで受け取っておいて。
「サヨちゃんは何もわかってないね」
「佐久間さん、サヨちゃんのこと、好きだと思うよ」
陽菜とのやり取りを思い出す。陽菜のほうが大人なんだろうか。そりゃそうだ。私なんかより、陽菜のほうがずっとしっかりしているし、客観的だ。
「思わせぶりな態度はやめてあげなね」
恵に言われたことを思い出す。その通りだ。やっぱり私の態度が悪かったのだ。
「一緒にいると気持ちが落ち着く」
そんな発言、誤解されるに決まっている。恵に言われるまでもなく、鈍感で、思わせぶり。最悪だ。佐久間くんが本当に私に好意があるのなら、私は最低だ、と思った。
私は本当に何もわかっていない。こんなんだから、人を容易に傷つけたり、自分が泥沼に沈んだりするのだ。
三本目の煙草を深く吸いこみ、煙をゆっくり吐き出す。肺は優秀な臓器だ。肺みたいに、何かで私の存在ごと濾過して、純粋な状態に戻してほしい。
「ねえ、陽菜」
「んー?」
「陽菜の言う通りだったわ」
「何がー?」
陽菜は近くまでパン屑を取りに来れず、離れたところで首を伸ばしているハトに、大きめのパン屑を投げる。
「私、なーんにもわかってなかったわ」
陽菜はちょっとだけ私を見て、またハトを見る。
「そっか。わかってなかったか」
「うん。全然、何にもわかってなかった。今も、まだわかんない」
煙草を深く吸い込んで、ふーと遠くに煙を飛ばす。
「あー、何で世の中、こんなにわかんないことだらけなんだろ」
無意味であるのに嘆いてしまう。私には、わからないことが多すぎる。
「生きていくのって難しいなー」
私の独り言を聞きながら、陽菜はハトのエサやりを終え、両手を上にあげて伸びをする。驚いたハトが数羽飛び去る。ハトの首のまわりはきれいな緑色だ。土鳩ではなく、キジ鳩。陽菜は私のほうを見て、「そうだね、難しいよね。私も、何にもわかんない」と同意してくれた。
「ねえ、一緒にいると落ち着くって言われたら、どう思う?」
陽菜に聞いてみる。
「落ち着く?」
「そう、例えば陽菜が、誰か友達に『陽菜ちゃんと一緒にいると気持ちが落ち着く』って言われたら、どう思う?」
「そりゃ、嬉しいよ」
「……だよね」
「佐久間さんの話?」
陽菜は何でもお見通しらしい。それとも、私の顔に書いてあったのだろうか。
「うん」
「言われたの?」
「違う」
「え、サヨちゃんが言ったの?」
「そう」
「そりゃ、佐久間さん、喜んでるでしょ。っていうか、サヨちゃん、そんなこと言ったの?」
「言っちゃった。変な意味じゃなくて、本当に気持ちが落ち着く気がするから、言っちゃったんだけど」
陽菜は私をしばし見つめたあと、ふーっと息を吐いて「佐久間さんはどう受け取ったんだろうね」と言った。
「わかんない。勤務もずれてたし、今月になってからは私が夏休みになっちゃって、全然会ってないんだ」
「実際、サヨちゃんはどう思ってるの? 佐久間さんのこと」
「どうって、ただの同僚だよ。同僚の中では、仲の良いほうの同僚」
「……ふーん。そう」
「ふーんって。だって、そうでしょ? これ以上仲良くなる必要もないし」
二人でしばらく宙を見つめていた。秋の日向は無駄に優しい。
「さよならだけが人生ならば、またくる春はなんだろう」
陽菜がつぶやく。
「寺山修二?」
陽菜は中学生だけれど、いろんなことを知っている。
「そう。けど、元があるよね、たしか」
「うん。元は井伏鱒二で、さらに元は干武陵だね」
『ハナニアラシノ タトエモアルゾ サヨナラダケガ 人生ダ』
『さよならだけが人生ならば 人生なんかいりません』
そこまで言い切れるほど私は別離を恐れているわけではない。
でも、だからこそ、佐久間くんへの態度は良くなかった、と後悔するのだ。
花を見ていた親子はいつの間にかいなくなっていた。
『引用:
井伏鱒二「勧酒」
干武陵「勧酒」
寺山修二「幸福が遠すぎたら」』
12 佐久間 冬
小夜さんに避けられている気がする。
僕の休暇中、一度会ってお土産のオルゴールを渡した。そのときまでは、いつもの小夜さんだった。僕と一緒にいると「気持ちが落ち着く」なんてことまで言ってくれて、僕はオルゴールを買ってきて本当に良かったと思った。でも、そのあとから勤務がすれ違いばかり。まともに会ったのは、十一月の小夜さんの休暇が明けてからだ。
介護施設は、当たり前だが24時間365日、年中無休だ。日勤だけでなく、夜勤や早番遅番があって、ようやくシフトが成り立っている。だから、休みがかぶることも難しいし、同じ勤務に重なることも、なかなか難しいのだ。下手したら二週間くらいまともに顔を見ない同僚もいる。小夜さんとも、入れ違い勤務は何度かあったけれど、なかなかゆっくり顔を合わせるタイミングがなかった。
そのうえ、小夜さんは、僕と日勤が同じで休憩時間が重なっても、窓から外に出て煙草を吸いにいくことがないのだ。禁煙なんて、ちょっと小夜さんには似合わないのだけれど、吸いにいかない。
その行動が、小夜さんの禁煙ではないことが、最近になってわかった。
それは例によって、噂好きなマダムたちから聞かされた。小夜さんが休みの日で、お昼休憩をしているときだった。僕は職員食堂でチャーハンを食べて、職場の休憩室に戻ってお茶を飲んでいた。
「佐久間ちゃん、最近、小夜ちゃんと何かあったの?」
一緒にお茶を飲んでいたマダムに聞かれた。
「え、何かって何ですか?」
「いや、小夜ちゃん、佐久間ちゃんが一緒のときだけ、煙草吸いに行かないから」
「え、そうなんですか?」
「うん。前まで小夜ちゃんが煙草吸ってるとき、佐久間ちゃんいっつも一緒に外に出ておしゃべりしてたじゃない? それが、佐久間ちゃんがいるときに限って、小夜ちゃん煙草吸わなくなったから、あの二人何かあったのかしらって、みんなで話してたのよ」
小夜さんは僕のいない日は煙草を吸いに行っている。それは、喫煙所で僕と二人になりたくない、ということか。
僕は原因を考える。思い当るのは、やはり「セレナーデ」なんて意味深な選曲のオルゴールをプレゼントしたことか。あのお土産を、僕からの告白だと受け取って、今避けられているのがその告白への返答、ということか。
でも、小夜さんはそんな、まわりくどいことをするだろうか。断るならはっきり断りそうなものだ。それとも、好意が伝わったことで、気持ち悪いと思われたか。喫煙所に出ていくのも、偶然を装って公園を見に行くのも、ストーカーのように感じたということか。だから避けているのか?
どちらにせよ、僕はまだちゃんと告白していないのだし、小夜さんからはっきり断られてもいない。今年中には、はっきりさせよう。僕だって、いつまでもただお喋りしていて楽しければいいなんて、思っていないんだ。
十二月に入って、世間が一気にクリスマスムード一色になる。
休みの日に公園に行ってみても、小夜さんと陽菜ちゃんが座っていたベンチは空いていた。誰もいないベンチに座ってみる。乾いた冷たい風に枯れ葉が揺れている。ここで小夜さんは何を見ていたのだろう。陽菜ちゃんとハトにエサをあげながら、何を思っていたのだろう。
楽しそうに笑いながら陽菜ちゃんとしゃべっていた小夜さん。なんとかブルトンの話を楽しそうにしていた。僕も、その、なんとかブルトンの話を一緒にできれば良かったのだろうか。もしくは、お好み焼き屋の帰りに小夜さんがよく歌う、僕の知らない歌を、一緒に歌えれば良かったのだろうか。ベンチが冷えていてお尻が冷たくなって立ち上がる。公園に三毛猫がいたから携帯電話で写真を撮った。小夜さんに見せたら、博士の猫だと言って笑ってくれるだろうか。
久しぶりに職場で会った小夜さんは、やっぱりそっけなかった。休憩時間も煙草を吸いに行かない。僕は、現状を打破するために、小夜さんとちゃんと話さなくては、と思った。
「小夜さん」
廊下で、女性用更衣室から出てきた小夜さんに声をかけると、小夜さんは「わ!」と言って驚いた。さすがに更衣室の前で待ち伏せされているとは思わなかったのだろう。
「あぁ、佐久間くん、どうしたの。びっくりした」
あまり目を合わせてくれない。
「小夜さん、僕、何かしました?」
「何かって?」
「何か、小夜さんの気に障ること、しました?」
「気に障ること? したの?」
「いや、僕が聞いてるんです……小夜さん、僕のこと避けてますよね」
小夜さんはふーっと息を吐いて、床を見て、ゆっくり僕を見た。
「避けてないよ」
「嘘ですよ。僕がいないときは煙草吸ってるって聞きました」
小夜さんは困ったような顔をした。
「節煙だって」
「節煙?」
「うん。禁煙しようと思ったんだけど、まずは無理せず節煙」
嘘だ。ちゃんと気持ちを伝えなければ、僕は後悔する。
「小夜さん、クリスマス、空いてますか?」
「え?」
「クリスマスです。僕のこと避けてるわけじゃないなら、クリスマスの夜を、僕にください」
小夜さんは困った顔でため息をついた。そのため息はどこまでも長く、僕は小夜さんの返事を聞きたいような聞きたくないような、複雑な気持ちで冷たい廊下の床を眺めた。
13 小夜 冬
「クリスマス、空いてますか?」
佐久間くんに聞かれたとき、思わず身を硬くした。更衣室を出たら廊下にいたから、すごく驚いたし、こんなことするのは佐久間くんらしくない、とも思った。もっと慎重で、適度な距離を保ってくれる人だと思っていた。
私は、自分が思わせぶりな態度をとっているんじゃないか、と自覚した日から、佐久間くんと二人になることを避けてきた。そのことで佐久間くんが、私への好意(もしあるのだとしたら)を諦めてくれたらいい、と都合よく願っていた。でも……
「クリスマスの夜を、僕にください」
あんなの、「デートしてください」と同義だ。そのくらい、いくら鈍感な私でもわかる。いや、少し前の私だったら平気な顔して一緒に食事に行っていたのかもしれない。その行動が相手にどんな感情を起こさせるか、ここまで気にしたことはない。それもこれも、「佐久間くんと一緒にいると気持ちが落ち着く」なんて言ってしまった私の自業自得であるし、そのせいで仲の良い同僚を失うのは全くもって腑に落ちないのだけれど、こんなことになってしまったんだから、もう佐久間くんとの友情は諦めるしかない。
佐久間くんは寂しいときの便利屋さんじゃない。
「年末年始仕事だから、クリスマスは実家に顔を出さないといけないの。姪っ子が楽しみにしてるから」
かろうじて笑顔を作って、佐久間くんの誘いを断った。
いつ帰っても、実家は実家特有の匂いがする。
出迎えてくれる母の足元で、母の愛犬が興奮して飛び跳ねている。灰色のミニチュアシュナウザー。賢くて甘えん坊でやんちゃだ。少し長い毛が巻いていて犬特有の土のような匂いがする。
リビングで母と紅茶を飲んでいると玄関がガチャンと開いて「ばーば! こんにちは!」という姪の声が聞こえた。
「賑やかなのが来たわよ」
母が笑う。
弟は三十五歳という年齢らしくお腹が出てきている。でも、屋外の仕事なので、冬でも日に焼けているし、太っているというより、ガッチリしている感じだ。弟の奥さんは専業主婦で、おしゃれな今時のママという感じ。三十歳になったばかりで、今日も二十代の若者のような恰好をしている。姪は確か五歳くらいだろうか。私が今のアパートに引っ越ししてすぐに生まれた気がする。
人の家の子供の成長は早い、というが、本当にその通りで、親戚であっても年に二、三回しか会わないから、いつのまにかどんどん大きくなる。
弟が私を見るなり「お、クリスマスなのに実家に来ちゃう寂しい独り身がいるぞ」と冷やかす。弟の憎まれ口は気遣いの裏返しと知っているので、私は「うるさいな」とだけ返して笑ってみせる。何にでも興味をもつ年齢なのか犬を撫でていた姪が「ヒトリミって何?」と聞くと「いいから手洗ってきなさい」と、弟の奥さんが姪を洗面所に追い立てるのでおかしくなってしまう。私は、自分が独身だということなど、何とも思っていないのに。
夕食は豪勢だった。母が焼いた大きなチキンを見て、姪が「すごーい!」と嬌声をあげ、弟の奥さんが彩り豊かなサラダを取り分ける。弟が買ってきてくれたケーキを、食後にみんなで食べた。
お腹いっぱいになった姪は、犬を撫でながらテレビゲームに夢中だ。難しいらしく、弟に「パパ、ここやって」と何度もせがんでいる。
そんな光景を眺めながら、私は母とお茶を飲む。そうだ。これが実家の過ごし方だ。久しぶりに触れる、家族という名の空気。それはとてもこそばゆいのだけれど、やはり居心地の良い不思議な空気だ。
「ねえ、私の名前の由来って、小夜曲の小夜?」
「あら、どうしたの、急に」
「いや、友達に聞かれて。きれいな名前だね、ってほめられたの」
私を好きかもしれない佐久間くんという男の子に。
「お父さんがつけたのよ、小夜の名前。由来は小夜曲じゃなくて、小夜時雨。あんたが生まれたの、夜で、サラサラと静かな雨が降っていたのよ。それでお父さんが、小夜時雨のときに生まれたから小夜って」
「小夜時雨? そんな言葉、初めて聞いた」
「そうよね、お母さんもそのときまで知らなかったわ」
そう言って母はお茶を飲む。カップを持つ華奢な手。いつの間にかシミの増えた、裁縫の得意な、器用な母の手。
「寒い季節の夜に降る雨のことをそう呼ぶんですって。あんたは、産声も小さくてね、ちょっと儚いような赤ん坊だったから、小夜時雨って静かな響きがぴったりで、お母さんも賛成したのよ」
「ふーん。小夜時雨か」
だから私は雨が好きなのかな、と思った。
「ああ見えて、ロマンチックな人なのよ」と笑う。
父はとうに還暦を過ぎても、現役で現場仕事をしている。その仕事を弟が継いでいるのだが、今日はお得意先との飲み会があると言っていた。
いつの間にかゲームを手放して、そばでじっと話を聞いていた姪が「ねぇロマンチックって何?」と聞いてくる。母が「きれいなものが好きってことよ」と姪に話している。
きれいなものが好き。それは何て素敵なことなのだろう。きれいなものを愛せる感性。私は、まだ持っているだろうか。
小夜曲じゃなくて小夜時雨だったよ、私の名前の由来。心の中だけで佐久間くんに報告して、私は弟が真剣になっているテレビゲームに参加した。
14 佐久間 新年
神社は空いていた。年が明けて、十日以上が経ち、ようやく初詣に来た神社は、もう人は疎らだった。年明けから連日晴れていたのに、今日は久しぶりに、あいにくの曇天。
小夜さんは、暖かそうなグレーのロングダウンを着て、待ち合わせ場所に来た。白衣じゃない小夜さん。やっぱりきれいな人だな、と思う。長い髪を下ろして、耳にかけている。小さな青いピアス。
「来てくれて良かったです。ドタキャンされるかと思いました」
冗談めかせて言う。
「さすがに、ドタキャンなんてしないよ。子供じゃないんだから」
クリスマスを断られた僕は、初詣は一緒に行ってほしい、と半ば強引にお願いした。初詣ならデートっぽくないと判断したのか、小夜さんは了承してくれた。
お賽銭を投げて鈴を鳴らす。あまり作法は気にしないのか、小夜さんはパンパンと手を叩くだけで、さっさと参拝を済ませた。僕は急ぎ気味に、でもちゃんと作法に倣って参拝を済ませて、小夜さんのあとを追う。
二人並んで少し歩く。長い参道は白い砂利道で、お正月ならもっと出ていたであろう出店が、少し残っている。りんご飴、綿あめ、やきそば。
「何か食べますか?」
小夜さんは出店を眺めて「うーん、いいや」と言い「らくがきせんべいがあったら、食べたかったな」と言った。
「らくがきせんべいって何ですか?」
「知らない? えびせんみたいな平べったいおせんべいに、シロップで絵をかくの。そこにカラフルな甘い粉みたいなのをかけてもらって、完成」
「食べたことないですね」
「時代ね」
ふっと笑う小夜さん。久しぶりに笑うのを見た気がする。でも、自嘲めいた笑い。僕が見たいのは、こんな笑い方じゃない。
「小夜さん」
「なに」
立ち止まって、小夜さんを見る。
「結婚を前提に、僕と付き合ってください」
突然すぎる僕の発言に、小夜さんは眉間にしわをぎゅっと寄せた。
「何それ、急に」
「本気です。僕は小夜さんが好きです。お付き合いしたいと思っています」
小夜さんは、鳥居のずっと向こう、重く曇った空よりもずっと向こう、遥か遠くを眺めてから、ゆっくりと僕を見た。そして「やっぱりそうだったんだ」とぼそっと言った。
「結婚を前提にって言うけど、佐久間くんの思う、結婚って、どんなの?」
真剣な、悲しそうな顔をしていた。あまりに辛そうに話すから、僕が何も言えずにいると小夜さんは小さな声で続けた。
「例えば、お互いが好きで、一緒に暮らしていて、でも、それだけじゃ幸せな結婚じゃないでしょ。夫婦になって、子供が生まれて、みんな仲良く暮らしていて、子供が大きくなって、その成長を見守って、それが幸せな結婚でしょ?」
「まぁ……そうです。僕は小夜さんと結婚したいし、できれば子供もほしいし、おじいちゃんおばあちゃんになって一緒に孫をかわいがって……そうやって死ぬまで一緒にいたいです」
さーっと風が吹き抜けて、神社の木々を揺らす。海が近いから、少し潮の香りのするその風が、小夜さんの何もかも、一緒に洗い流してどこかに飛ばしてしまったように見えた。小夜さんの髪がなびく。僕から視線をはずし、僕のうしろ、遠く、去っていった風を追いかけるように遠くを眺めて、それからまた僕を見て、珍しく、静かににっこりと笑った。僕にはその笑顔が、防護壁のように思えた。一瞬で、閉ざされた気がした。
「ありがとう、佐久間くん。でも、私はもう結婚するつもりはないし、ましてや佐久間くんが思う幸せな結婚はできないから、ごめんね」
やたらにこやかなのが、余計に距離を感じさせる。
「私が今日一緒に初詣に来たのは、もう『困ったときの佐久間くん』をやめるね、って話そうと思っていたからなの」
「なんですか、それ」
「困ったときに、すぐ佐久間くんに頼ってしまう癖を、直そうと思って。付き合ってるわけでもないのに、食事に行ったり遊びに行ったり。もう、そういうことはやめようって、言おうと思っていたの」
「やめないでいいいじゃないですか。僕はこれからも困ったときはそばにいるし、困っていないときも、そばにいたいと思っています」
「ありがとう。でも、もう決めていたの。それを伝えにきたの。ごめんね。私が佐久間くんと仲良くしていたのが悪かったと思う。もっと早く佐久間くんの気持ちに気付いて、ちゃんと態度で表すべきだった」
「小夜さんは何も悪くないです。小夜さんの態度がどうであっても、僕は小夜さんが好きです」
「私もう四十歳だよ。佐久間くんの言う、幸せな結婚はできない」
さっきより強い風が吹き抜け、小夜さんの髪を乱した。木々がざわざわと音を立てて揺れている。
「僕が、諦めないって言ったらどうするんですか?」
「今までみたいには、佐久間くんと話さなくなるわ。だって、好かれていることを知っておいて、今までみたいに仲良くはできない。私には、何もできないんだから」
「迷惑ってことですか?」
風になびいて顔を隠す髪を手でゆっくりとかきあげて、小夜さんは悲しそうな顔でそっと笑った。
「迷惑じゃないけど、辛いわ」
空気が湿っていて、さっきより色の濃い雲が流れて空を埋めていった。雨が降りそうだ。
15 小夜 新年
行くところがあるという佐久間くんと神社で別れて、一人で電車に乗って、一人で駅に降りて、一人で歩き出した。しっぽの長いきれいな三毛猫がいて、思わず携帯電話で写真を撮る。佐久間くんに知らせようと思ってしまってから、何をしているんだ、と自制し、のろのろと携帯電話をバックに戻した。気温が低く、手袋越しに指が冷える。ダウンコートを着てきたけれど、風が冷たく湿っていて寒い。雨になりそうだ。
駅から家まで半分くらい歩いた時、案の定雨が降り出した。駅まで引き返して傘を買う気が起きない。少しずつ雨脚は強まってきた。
仕方ない。ひとつため息をついて、バックを抱え、走った。はねた水でブーツが汚れる。
家に着くころには土砂降りになった。コートは重く冷え、髪からしずくが伝って首に入り込む。寒い。玄関まで出迎えてくれたポットが、私から滴る雨水に少し怯んでいる。
「ごめんね、びしょびしょだから抱っこできないよ」
中まで水の染みたブーツも、びしょびしょの靴下も、重くなったコートも玄関で脱ぎ、脱衣所で全裸になり、そのまま熱いシャワーを浴びる。
立ったまま顔に熱いシャワーを浴びる。あーもういやだ。この憂鬱な気分は何事だろう。
佐久間くんが私を好きだったのは本当だった。恵や陽菜の言う通り、本当だった。でも私は佐久間くんの気持ちには応えられない。だから、振った。それだけのことじゃないか。
冷えた体がシャワーで温められていく。佐久間くんはもう家に帰ったのだろうか。
髪を乾かし、温かいミルクティを淹れ、ソファに座るとため息が出た。なんだか疲れた。すり寄ってくるポットに改めてただいまを言い、抱き寄せて毛をもじゃもじゃにして撫でる。
「ポットー。これでよかったんだよね……」
膝の上でグルグル喉を鳴らすポットは、その姿勢のまま顔を伸ばして私の顎を舐めた。後悔はしていない。そう言い聞かせる。これで良かったんだ。
ベッドに入っても眠れそうにない。
携帯電話を眺める。何の連絡も入っていないことに傷付く自分がいる。何を待っているの、私は。誰からの連絡を待っているの。
今日撮影した三毛猫の写真を見る。共有する相手がいない。誰と共有したいの。三毛猫の写真、誰に見せたいの? 恵? 陽菜? そうじゃなかったら、誰?
佐久間くんに会いたい。
唐突に感情がこみ上げた。信じられない。馬鹿らしい。恥ずかしい。佐久間くんに会いたい? なんで? わからない。わからないけれど、佐久間くんに会いたくて涙が出てきた。
私を好きだと言ってくれたときの真剣な顔。いつも隣で笑わせてくれた、優しい声。お好み焼きをひっくり返すのが上手で、よく食べて、真面目に働く好青年。
困ったときの佐久間くんは、困ったとき「だけ」の佐久間くんだと思っていた。でも、もしかしたら、困ったときも、寂しいときも、驚いたときも、嬉しいときも、いつでもそばにいてほしい佐久間くんだったのではないか。私は、あの笑顔にどれだけ救われたか。煙草やめたほうがいいですよ、といつも私を心配してくれて、そのくせいつも喫煙所にやってきて、にこにこ喋ってくれる。佐久間くん。
一緒にいると落ち着くと思っていた。落ち着くというのは、恋愛とは別の感情だと思っていた。でも、セレナーデは熱烈な激しい曲じゃない。気持ちを落ち着かせる、なだめてくれる愛の歌。
本当にどうしてなんだろう。涙が出てくる。もう二度と誰かを恋しく思うことはやめようと決めたのに。どうしてこうやって、特定の誰かに会いたいという気持ちが沸き出てきてしまうんだろう。頬を伝う涙を手でぬぐう。誰かに会いたい、と思ってしまう自分が情けない。もう会いたいなんて感情は持ちたくなかった。会いたい人に会えないことが、どれほどつらいか、私は知っているじゃないか。会いたければ会いたいほど、会えないときが悲しいんだ。会いたい相手が、ほかの誰かと一緒にいるという事実に、どれほど傷付いてきたんだ。それなのに、私はまた懲りもせず、佐久間くんに会いたい。本当に馬鹿じゃないの。泣いても泣いても答えは出ない。自分で決めるしかないんだ。
「小夜は、一人でも大丈夫でしょ」
またあの声が聞こえてくる。結局、五年前の呪縛からは逃れられないのだ。苦しいような悲しいような、惨めな気持ちで、逃れられないならいっそのこと全てを思い出して、悲嘆に暮れるのもいいかもしれない、と抵抗を諦めた。
春だった。桜が満開の、四月上旬。夫は、薄いブルーのシャツを着ていた。結婚して、三年だった。夫は、マンション前の公園に咲いている桜を窓から眺めている私の背中に「離婚してくれ」と言った。え、と振り返った私は、本当にまぬけな顔をしていたと思う。私は、おめでたいことに、本当に何の予兆も感じていなかったのだ。夫に言われたことを、理解するのに時間がかかった。
突然切り出された別れと、その理由を、窓から注ぐ平和な温かい日差しの中で聞いた。
「どうして?」と聞くと夫は、まるで当たり前のように「付き合ってる人に子供ができた」と言った。何を言われたのか、わからなかった。
確かに私たち夫婦に子供はいなかった。でも、私はそれでもいいと思っていた。でも夫には恋人がいて、しかもその恋人は、妊娠しているのだという。
「僕には、彼女と、産まれてくる子供を守る責任があるんだ」
そして言われたのだ。
「小夜は、一人でも大丈夫でしょ」
家の窓から、桜の花びらが飛んできた。
私はあの日から今日まで、大丈夫だったことなど、一瞬もない。
16 佐久間 雨
雨に降られて髪も服も濡れて、うつむいて突っ立っている僕を恵さんは家にあげてくれた。「どうしたの、こんな時間に。とりあえず、あがって」
「すいません」
リビングに入ると恵さんの旦那さんがスウェット姿でソファでくつろいでいた。娘さんはもう寝ているらしい。
「おお、佐久間くん、どうしたの、何かあったの」
「すいません」
僕は、情けなくて仕方なかった。
「とりあえず、体拭いて、座って」
「すいません」
すいませんしか言えない。
恵さんがタオルを持ってきてくれて、僕はその柔軟剤の香りのする柔らかいタオルで、顔や髪や服を拭かせてもらって、ソファでくつろぐ旦那さんの隣に座った。「飲む?」と言われたグラスにはお酒が入っているようだが、断った。酔っぱらってしまったら、何を言ってしまうかわからない。
恵さんが熱い紅茶を淹れてくれたので、ひとくち飲んで、長い溜息をついた。
「どうしたの、小夜と何かあったの?」
膝の上で握った手に力が入る。
「告白、したんです、小夜さんに」
恵さんと旦那さんは、二人同時に同じ表情で驚いて見せた。夫婦というのは、やっぱり似てくるものなのだな、とこんなときなのに思ったりもした。僕と小夜さんは、たしかに、どこも似ていない。
「振られました。少しは脈があるんじゃないかと思っていたんです。でも、全然だめでした。小夜さんは、その、小夜さんは……過去に、結婚していたことがあるんですか?」
恵さんは旦那さんと顔を見合わせてから、小さくため息をついた。
「いくら友達でも、人の過去のことは勝手に言えないわ。本人に聞くべきじゃないの?」
優しく恵さんは言う。
「そうですよね」
そりゃそうだ、と納得する。どうしてこんな非常識な時間に突然押しかけてしまったんだろう。ひどくみじめに思えた。でも、誰かに聞いてもらいたかった。そして、小夜さんのことを、教えてもらいたかった。
「僕の告白を断るとき、小夜さん、『もう』結婚はしない、って言ったんです。それって、一度は結婚していたってことですよね。一緒に食事したり、公園を散歩したりして、いろんな話してたつもりでいたんです。職場で見せない少し無邪気な小夜さんも知っていて、僕は自分が少し特別な気分でいたんです。でも、思い返してみると、小夜さんって、昔のこと何も話していないんです」
温かい紅茶をまた一口飲む。
「僕はバツイチなんて全然気にしないんです。結婚していたことがあるっていう事実がショックだったんじゃなくて、僕は小夜さんのこと、何も知らなかったんだな、と思って。小夜さんは、僕に、何も教えてくれてなかったんだな、と思って。そのことに、とても落ち込んでしまって」
「それで、雨の中、うちまで歩いてきたわけ?」
「はい。すいません。何も考えられなくなってしまって。前に、小夜さんが、僕と一緒にいると気持ちが落ち着くって言ってくれたんです。楽しいでもおもしろいでもなく、落ち着く、です。そう言ってくれたことが、僕は本当に嬉しかったんです」
自分の心を支えていた根拠も、今となっては、ひとりよがりなエゴに思えた。
「でも、小夜さんが過去の誰かとの恋を、その結婚していた人との気持ちを引きずっているのなら、僕は小夜さんを諦めなきゃいけないのかな、と思って」
僕の話を静かに聞いていた恵さんは小さくため息をついた。
「ねぇ、佐久間くん、小夜の過去がそんなに大事?」
恵さんは穏やかに話し出した。
「四十年も生きてくればさ、そりゃ、親しい人にだって言いたくない出来事の一つや二つあるものよ。四十年も生きてきて、一晩中泣いても気持ちがどうしようも整理できそうにないくらい辛いことが、一つもない人なんていると思う? その、一つ一つ全てを知らないとダメなの?」
僕は考えてみる。小夜さんにも、一晩中泣いても気持ちが整理できそうにない夜が、あるのだろうか。
「そんな風に、小夜の過去に戦いを挑むような、なんていうか、過去を全て清算してやる! みたいな考えでいるのって、どうなのかな。過去はもう永遠に過去だから消えないんだよ。消えないけど、もう決しても巡ってこない。だから、小夜の過去は過去でそっとしておいて、その過去を持ったままの、ありのままの小夜の、ただそばにいてあげるってことはできないの?」
「ただそばに?」
「そう。ただそばに。あの、寂しがりで強がりの小夜のそばに。ただいてあげてほしい」
それを聞いた旦那さんが笑った。
「おいおい、それは小夜ちゃんに甘すぎないか? 俺は佐久間くんの気持ちもわかるよ」
そう言いながら旦那さんも「まあ、小夜ちゃんはあぁ見えて甘えん坊だからね」とグラスに口をつけた。
「ただ、そばに」
僕はその言葉の意味を繰り返し考えた。僕はどうしたかったんだろう。
僕が受け入れてもらえないのは、小夜さんの過去に何かあったせいだと決めつけて、その過去を清算すれば、僕はまっさらな小夜さんと恋ができると思っていた。でも、過去に何かあったせいだ、なんて、おかしな話だ。生きていれば毎日が、大きな小さな「何か」の積み重ね。一瞬一瞬の「何か」の積み重ねで今があるのだ。もう巡ってこない過去の「何か」。それらがなかったら、今もない。今の僕もいないし、今の小夜さんもいない。
「とにかく、今日はもう帰って、ゆっくり休みなさい。一晩ちゃんと寝て、少し冷静になってから、またゆっくり考えたほうがいいわ」
「ありがとうございます。僕、小夜さんのこと、ちゃんと考えられてなかったのかもしれません。人を好きになることって、難しいですね」
「ふふふ。そんなに思いつめないの。それに、そんなに難しいことじゃないわ」
そう言って恵さんは僕の肩に手を置いて「小夜のこと、よろしくね」と言った。
僕は曖昧に返事をして、まだ少し湿っているコートを着て、傘を借りて帰った。
17 小夜 朝
いつの間にか眠ってしまっていたらしい。朝になっていた。雨はあがったようで、窓から冬の冷たい光が差し込んでいる。
携帯電話を握りしめて、泣いていたことは覚えている。そして、まったく馬鹿らしいことに、目が覚めて、冷静になった今でもなお、携帯電話に何の連絡も入っていないことに落ち込んでいる自分がいる。振ったのは自分なのに、馬鹿みたい。
布団の足元でポットが丸くなっている。今朝はなんだかとてつもなく寒い。寝汗をかいたのか、肌着が湿っていて冷たい。体を起こそうとすると、ぐらっと眩暈がした。おかしい。肌の表面がぴりぴりする。頭も痛い。なんか体調が悪い。明らかに体調がおかしい。息が熱い。
熱があるのかな、と思い、揺れる体でどうにか洗面所へ行き、引き出しから体温計を探す。脇にはさんで、アラームが鳴るまでずいぶん長い。
──ピピピピ。ようやく鳴る。38.9℃。
「……うそでしょ」
体中が重くて痛くて、悲しくなった。昨日、雨に濡れたままシャワーだけで眠ってしまったから風邪をひいたのか。確かに昨日の雨は冷たかった。でも、38.9℃って。仕事が休みで本当に良かった。
昨日ほとんど何も食べずに眠ってしまったから空腹なはずなのに、お腹もすかない。スポーツドリンクかゼリーでもあればいいのに、と冷蔵庫をのぞくが、見事なまでに何もない。
おじやを作るにも、卵もなければ野菜も全然ない。かろうじて、冷凍保存してあるご飯が一膳分。ため息が出る。これだけじゃどうしようもない。
寝汗で冷えた肌着を着替える。この体調を我慢してまで買い物に行く元気はない。立っているのも辛くなって、とりあえずベッドに戻った。
布団に潜っていても寒い。高熱なのに氷枕もアイスノンもない。まったく、看護師の不養生だ。
携帯電話を見つめる。今、助けてほしい相手を考えると、どうしても佐久間くんの顔が浮かんでしまう。
私は、昨日振った瞬間にもう後悔していたのだ。でも、そのことに気付くのが、遅かった。遅すぎた。私はもう、佐久間くんの好意を断った。はっきりと振ったのだ。今更、やっぱりもう少し考えさせてほしいなんて、言えない。それこそ都合が良すぎる。
でも、と、ぼーっとする頭で考える。でも、今みたいな、自分が弱っている状況で、頼りたい、甘えたい、と思える相手がいることは、とても大切なことなんじゃないかと思う。私は五年前に離婚してから、誰かに頼ろうとしたことはなかった。陽菜も恵もとても優しくていつも支えてくれたけれど、甘やかしてほしいと思ったことはない。でも今もし佐久間くんが来てくれて、アイスノンやスポーツドリンクを買ってきてくれたら、私はきっと穏やかな気持ちで安心して休めるだろう。それは、好きという気持ちとは違うのか?
なんたる甘えた考え。ひどい女。懲りないやつ。わかっている。でも、もう一度だけ、誰かのそばにいて落ち着く気持ちを味わいたい。もう一度だけ、私は誰かを好きになってみてもいいんじゃないの。あんなに泣くほど恋しい相手だったことに気付けたなら、この気持ちに素直になってみてもいいんじゃないか。まっすぐに気持ちをぶつけてくれた佐久間くん。私はその気持ちに応えられるのかな。目を覚ましたポットがのそのそと布団の上を歩いて私の顔を見に来た。
「おはよう、ポット。ねぇ、どう思う?」
ポットはグルグルと喉を鳴らし、頭をこすりつけて甘えてくる。こんな風に、惜しみなく甘えられたら。私はもっと素直になれるのだろうか。
横になったまま携帯電話を持つ。緊張する。信じられないくらい緊張する。受け入れてもらえないかもしれない。そしたら、そこでもう一回傷付けばいい。傷付くことなんて、もう五年前にしっかり経験したじゃないか。
佐久間くんの電話番号を表示して、一度息を吸ってから、通話ボタンを押した。
コール3回。
「はい」
「あ……佐久間くん?」
「小夜さん? おはようございます! 朝からどうしたんですか?」
涙が出そうなのを堪える。今まで以上にいつも通りの、元気な佐久間くん。私が昨日振ったのに、失恋したばかりなのに、その相手からの電話なのに、どうしてこの人はこんなに優しいんだろう。
「もしもし? 小夜さん? どうしたんですか? 今日休みですよね」
「あ、うん、そうなんだ。佐久間くんは?」
「僕は遅番なので、午後からですよ」
「あ、ごめん、じゃまだ寝てたね」
「いや、大丈夫ですよ、っていうか、小夜さん鼻声ですね。大丈夫ですか?」
こうやって気付いてくれるところに、私は甘えているんだ。そして、今はこの優しさに甘えたい。
「そうなの。実は、熱出ちゃって」
「え! 大丈夫ですか? 何度くらいあるんですか?」
「それが39℃くらいあって」
「えー! 大変じゃないですか」
「そうなの。だから、その、ちょっとしんどくて、それで、佐久間くんに電話しちゃったんだ」
一瞬の沈黙。やっぱり引かれたか。そりゃそうか。
「ごめん、何でもない」
「え、いや、しんどくて僕に電話してきてくれたんですか?」
「うん。心細くなっちゃって。でも、ごめん、やっぱり何でもないよ」
「何でもなくないですよ! 僕今めっちゃ喜んでるんですよ」
「え?」
「だって、小夜さんが僕を頼ってくれたの、初めてですから」
「……ごめん。誰に頼ろうかって考えたとき、佐久間くんの顔しか浮かばなかった」
「うわー嬉しいこと言ってくれますね」
「でもさ、その、昨日の今日だから、嫌がられるかと思って」
「え、何でですか?」
「だって、私、佐久間くんのこと振ったから、気まずいっていうか」
「あぁ、でも、電話してきてくれたじゃないですか。嬉しいですよ、素直に」
「ありがとう」
「こっちこそ、ありがとうです。飲み物とか買ってお見舞い行きますよ、欲しいものメールしてください」
「……ありがとう」
声が小さくなった。人に優しくしてもらえることは、本当に貴重だ。私はこの貴重な相手を、失わずに済むだろうか。来てくれたらちゃんと自分の言葉で、自分の気持ちを伝えて、まだ間に合うのか、怖がらずに聞かなければいけない。
18 佐久間 朝
スーパーマーケットが好きだ。
スーパーマーケットでカゴに入れていくもの、それは生活だ。これから食べるもの、飲むもの、使うもの。生活そのものがこのカゴに選択されていく。節約しているときは特売品、自分にご褒美をしたいときは少し高めのチョコレート、時には辛いことから逃げるためのお酒かもしれない。このカゴに入っていくものは、生活そのものだ。
自分の大切な人を思いながらの買い物というのは特別なものだ。野菜を多めにしようとか、好き嫌いがあるかとか、果物やプリンも買ってあげようかとか、ただ相手のことを思い、大切に思う人の生活を、今僕が選択している。それは、とても特別で心安らぐ行為だ。
タイムズスーパーは、いわゆる普通のスーパーマーケット。蛍光灯の明るい店内。クラシックのBGMが流れているのに、それをかき消すように特売品のアナウンスや、商品のCMソングがあちこちから溢れてくる。それに加え、お菓子をねだる子供の嬌声や叱る母親の声、「安いよ~」などという鮮魚コーナーの店員の大声。
人生の中の一部。それぞれの生活が作られていく場所。僕はスーパーマーケットに来ると、ここにいるみんながそれぞれの場所で生きているんだな、と感じることができて、穏やかな気持ちになる。
そんなスーパーマーケット、今日は一人でショッピングカートを押しながら、好きな人の生活をカゴに入れていく。今までにないほどの、穏やかな気持ち。僕は好きな人を想うとき、情熱でも熱烈でもなく、こんなに穏やかで優しい気持ちになることを、今改めて実感している。
今朝の小夜さんの電話には驚いた。
確かに僕は昨日振られたばかりだ。だから、電話が来たときは正直、何の用事なのか見当もつかなかった。何か忘れものでもしたかな? そんな的外れなことを思ったりした。まさか、小夜さんが高熱を出してしまっているなんて、思ってもみなかったから驚いたし、とにかく心配した。小夜さんに言われるまで、いわゆる気まずい関係であることなんて忘れてしまっていたくらいだ。
それに加えて、小夜さんは「誰かに頼ろうと思ったとき、佐久間くんの顔が浮かんだ」と言ってくれた。僕はもう期待はしない。でも、恵さんに言われた通り、小夜さんがそばにいてほしいときだけでも、ただそばにいようと思う。自分の想いが届くとか届かないとか、そんなこと関係なく、小夜さんが誰かと一緒にいたいとき、僕がそばにいられればいい。そう思うと、小夜さんの過去なんてどうでもよくなるから不思議だ。やっぱり恵さんに相談に行って良かった。
一通り、買い物を済ませ、自転車で小夜さんの家に向かう。
ドアチャイムを鳴らすと、スウェットのまま、すっぴんの小夜さんが出てきた。
「あぁ、佐久間くん、本当にごめんね」
「大丈夫ですか?」
「うん、解熱剤飲んで、なんとか熱は下がってる」
「飲み物とか買ってきましたよ」
「ありがとう。いくらかかった?」
「お金はいいですよ、お見舞いなんで」
「いや、悪いよ」
「そんなことより、寝てていいですよ。おじやで良ければ作りますから」
「え? 何言ってんの。風邪うつるから、お茶だけ出すけど、そしたら帰りなって」
言いながら小夜さんはゲホゲホと咳き込む。
「ほら、寝ててくださいって」
僕は部屋にあがる。
「キッチン借りますよ。せっかく『困ったときの僕』が来たんですから、小夜さんは寝ててください」と言うと、小夜さんはふっと小さく笑って、「じゃ、お願いしちゃおうかな」と言い、のそのそとベッドに向かい布団に潜りこんだ。
「佐久間くん、料理できるの?」
ベッドから小さな声。
「まあ、一応、独り暮らしなんで、あんまりやらないですけど、たまに自炊しますよ」
「そうなんだ。知らなかった」
「熱出ると食欲出ないじゃないですか。そういうときに、母親がよく野菜いっぱい入れた中華粥作ってくれたんですよ。中華スープの素で作るおじやみたいなもんです」
「美味しそうだね」
「作るんで、食べてから感想教えてください」
「うん、ありがとう」
今日の小夜さんはずいぶん素直だな、と思う。
「ありがとう……おいしい」
できあがった中華粥をひとくち食べて、小夜さんはふにゃっと笑った。腫れぼったい顔、ぼさぼさの髪、熱っぽくうるんだ目、かさついた唇、いつもの小夜さんと全然違って、そこには、四十年生きてきた生身の小夜さんがいた。それは今まで見た小夜さんの中で、圧倒的にきれいで、圧倒的に愛しかった。いったいどうして、一瞬でもこの人を諦めようと思えたんだろう、と自分で驚く。いったいどうやって、この人を忘れられると思えたんだろう。
散らかった部屋、趣味のよくわからないインテリア、本棚からあふれる本と漫画。ただこの人のためだけに、この人との「今」だけのために、生きればいいじゃないか。恋人を癒し、なだめるために歌ったというセレナーデ。この人にセレナーデを歌えるのは、きっと僕だけだ。
「ねぇ、佐久間くん」
「はい」
「昨日の話だけど」
小夜さんの声は鼻声で、かすれている。
「なんですか」
珍しくもじもじしている。
「その、昨日の返事のことなんだけど、昨日は断っちゃったんだけどさ、実は、もう少し、保留にしてくれないかな、と思って」
「え、保留ですか」
「うん。保留。なんていうか、その、私、佐久間くんと一緒にいると、とても気持ちが落ち着くの。これって、私も、佐久間くんのこと、好きってことなのかもしれないって、昨日帰ってから思って」
「え! 本当ですか!」
驚いた。
「うん……困る?」
そう言って僕を見る小夜さんは本当に可愛らしくて、あまりにも愛おしくて、思わず僕は近づいて横からそっと抱きしめた。
「ちょ、佐久間くん」
「すいません。でも、ちょっとだけ、こうさせていて下さい」
驚いて体を硬くしていた小夜さんが、すっと力を抜いて、僕にもたれかかってきた。
「佐久間くん、昨日はごめんね。今からでも、間に合う?」
小夜さんが囁くような声でつぶやく。
「もちろんです。間に合います。僕は、ただそばにいるって決めたんです」
「ただそばに? 何それ?」
「いいんです。小夜さんは知らなくて。僕だけの決心なので」
小夜さんはふふふっと笑って、鼻声で「ありがとう」と小さな声で言った。
「でも、あんまりくっつくと、風邪うつるよ」
そう言って僕から離れようとするから「小夜さんからうつる風邪ならいくらでももらいます」と言ってまた小夜さんを抱きしめた。離さない。この人を僕は離さない。
ただそばにいて、少しでも小夜さんの気持ちが落ち着くなら、なんて素晴らしい。
「ねえ、ただそばにいるって言いながら抱きしめるのって、矛盾してない?」
と言いながら小夜さんが笑うから、僕は少し体を離して目を合わせて「そうですね」と言って微笑み合ってから、また世界で一番好きな人を抱きしめた。
『僕の歌は夜の中を抜け、あなたへひっそりと訴えかける、静かな森の中へ降りておいで、恋人よ、僕のもとへ、僕はあなたを待ちわびている、来て、僕のもとへ、僕を幸せにして』
心の中でシューベルトのセレナーデがリフレインしている。僕と小夜さんの、穏やかな「今」のために。