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小説:橋【3583文字】

「地方の伝承を研究なさっているのですか?」
 前を歩く女性が僕を振り返って言った。
「研究というほどでもないんですけど。ちょっと興味があるというくらいで」
 日本の各地にある伝承に興味があるのは事実だ。しかし、案内してくれるこの親切な女将さんに「実は全然売れていないオカルト誌の取材です」とわざわざ言わなくていい気がして、昔勤めていた民俗学研究室の名刺を渡した。研究室は予算不足でつぶれたし、名刺はもう十年以上前のものだけれど、仕方ない。
 案内されたのは、泊る予定の旅館から車で二十分ほど走って、車を停めてからさらに二十分ほど歩いたところにあった。山間を抜ける涼しい風に、ジリジリジリというアブラゼミの声が響く。十分に暑い日ではあったが、それでも木漏れ日は優しい。眼下を流れる川がサラサラと鳴っている。
「例の橋は、ここですよ」
 思っていたより古い吊り橋だった。足場の板はところどころ抜けており、手すりの蔦はいかにももろそうだ。「橋姫がいるらしい」と言われて取材に来たから、もっと大きくて立派なものを想像していたのだが、それは森林に囲まれた、今にも朽ちそうな橋だった。
「これが、橋姫伝承の残る橋ですか」
 橋姫は本来、大きな橋に棲むと言われている。少し期待外れではあったが、それをもっともらしく書くのが、たとえ二流であっても、ライターの仕事なのだ。
「はい。もっと大きなものを想像していましたか? すみません。古いですよね」
 僕の胸中を察したように、女将さんは苦笑した。
「古い橋だそうです。今は誰も使っていませんが、もともとは向こう側の集落の人たちがこちら側に来るために、必要不可欠なライフラインだったそうですよ」
 女将さんは橋の蔦を触りながら話す。たしかに、このあたりは橋が少ない。旅館に来る前にタクシーで大きな橋を通ったが、それ以外にはほとんどなかった。その大きな橋にしても、もうずいぶん古そうで、建て直したほうがいいんじゃないか? と思う代物だった。地方のインフラの老朽化は、現地にきてみると実感する。
「貴重なものが見られて良かったです。写真を撮ってもいいですか?」
「もちろんです」
 女将さんは、少し離れたところで待っていてくれた。僕は角度を変えて何枚かそれらしい写真を撮影する。僕は、文章力より写真のうまさでライターとして生活できているようなものだ。学生のころから趣味でやっていた写真が中年になってから役にたつとはね、と若い頃の自分が嗤ってくる。嗤いたければ嗤えばいい。何歳になったって、生きていくには金がいるのだ。
「ありがとうございます。もう大丈夫です」
 あらかた写真を撮り終え、女将さんに言う。女将さんは少しいたずらっぽく笑ってから「渡ってみます?」と言った。
「え?」
「この橋、もう使われていないんですけど、一応まだ渡れるんですよ」
 女将さんは、ぎしぎしと鳴る蔦を握って、今にも落ちそうな足場の板に足を乗せた。僕は一瞬、体が浮くような緊張感に包まれる。
「だ、大丈夫なんですか? 落ちたら……」
「それが、意外と丈夫なんですよ」
 そういって女将さんは、ぎしりぎしりと音を立てながら、一歩ずつ橋を渡っていく。
「ちょっと、待ってくださいよ」
 女将さんに置いていかれたら、僕は帰り道がわからない。いや、車は橋のこちら側に停まっているのだから待っていればいいのだろうけれど。でも、実際に渡ってみたほうが良い記事が書けるかもしれない。見学するだけで書く記事と、体験してみて書く記事とでは、やはり違う。あの崩れそうな足場に立って足元の川を撮影したら、きっと迫力のある写真になるだろう。そのほうが記事に価値が出るかもしれない、というあさましい気持ちを、いい記事が書けるかもしれない、という純粋な気持ちで上書きして、僕は古い蔦を握り、足場の板に一歩足を乗せた。ぎしり、ぎしりと一歩ずつ橋がきしむ。
 揺れる吊り橋の足元に清い川が流れている。思っていたより高さがある。背筋がぞわりとした。高いところはそんなに得意ではない。
「怖ぇえな」
 ひとり言で気を紛らせながら、橋の真ん中あたりで、足元の朽ちた板からのぞく川を撮影する。期待通りの迫力は出せそうだ。それに、渡り切れば反対側からの写真も撮れる。僕のような二流ライターの素人写真なのだ。取材の写真は多ければ多いほどいい。
 残り半分渡ってしまおう、と思った瞬間、激しいめまいに襲われた。危ない、と慌てて蔦をつかむ。おかしい、めまいがおさまらない、と思ったら、それはめまいではなく、吊り橋が激しく揺れているのだった。驚いて岸を見ると、渡り切った女将さんが蔦の手すりを両手でつかんで、激しく揺らしている。ぎしぎしと橋が揺れる。
「何しているんですか! やめてください!」
 僕は振り落とされないように蔦にしがみつく。冗談かと思ったが、女将さんはさも楽しそうに歯を見せて笑いながら、全身を跳躍させて橋を揺らしている。その姿には狂気が滲んでいた。親切な人だと思っていたのに、どういうことだ。僕は何か気に障ることを言ったのだろうか。命を狙いに来ているとしか思えないような激しい揺れに恐怖が沸き起こる。蔦を握る手に力がこもる。足元の板木がぎしぎし鳴ってしなる。怖い。危ない。もうだめかもしれない、と思った瞬間、足元の板が崩れ、僕は川に吸い込まれるように落下した。
 
「おい、お客さん、大丈夫か?」
 目を開けると、男の人がいた。
「ああ、良かった。気が付いた」
 ジリジリジリとアブラゼミが鳴いている。サラサラと川の音がする。
「あの、ここは」
「お客さん、さっきタクシー乗ってこのあたりで降りただろう。俺はそんときの運転手だよ」
 よく見れば、タクシードライバーのユニフォームのような服装だ。帽子もかぶっている。僕は森林に囲まれたところで横になっていた。少し頭がゆらゆらする。
「あの、何があったのでしょう?」
「お客さん、もしかして“橋姫さま”にお会いになったか?」
「橋姫……あ、橋姫の伝承が残っている橋の取材に来たんです。それで、旅館の女将さんがその橋まで案内してくれたんですけど」
 タクシードライバーは、大きく肩で息をした。
「このあたりに旅館なんか、ねえよ」
「え?」
「まあ、生きていてよかったな」
「どういうことですか?」
「橋姫さまの伝承があるのは、お客さんがさっきタクシーで通った大きな橋のほうだ。お客さん、あそこを通ったときに『地方ではインフラも老朽化していますね』みたいなこと言っただろう? 『都会の橋はもっときれいだ』なんてことも言ったから、ちょっと危ないんじゃないかと心配していたんだ。橋姫さまは非常に嫉妬深い神様なんだ。あんなことを言って痛い目を見ていないといいな、と心配になってきてみたら、こんな森ん中で寝転んでいるから、やっぱりと思って」
 僕には何のことかわからなかった。たしかに、タクシーで大きな橋を通ったときに、橋の老朽化を話題にしたかもしれない。では、さっきまで一緒にいた女将さんが、橋姫?
「そうだ、あの吊り橋は?」
 体を起こして見渡すが、さっき渡ったはずの吊り橋は、跡形もなく消えていた。
「橋姫さまに化かされたんだろうよ。死ななくて良かったな」
 僕は今さらながら、吊り橋を揺らす女将さんの狂気に満ちた姿を思い出してぞっとする。たしかに橋姫伝承では、嫉妬に身を焦がした神様が、次々に人々を殺してしまう。下調べはしてあったはずなのに、伝承やオカルトを扱うにしては迂闊だったと反省する。
「あ、カメラ、カメラは!」
 僕の大事な商売道具はどうした!
「これか?」
 タクシードライバーは僕の横に置いてあるカメラを持ち上げた。僕は慌ててデータを見てみる。
「ない」
 タクシーから撮影した写真が最後のデータだった。
「写真がない? まあ、仕方ないね。命があっただけでも良かったと思いなさいな。麓まで行くなら車乗っていくといい」
 タクシードライバーは笑って立ち上がる。
「はい、ありがとうございます。よろしくお願いします」
 まだ少し頭がゆらゆらしているが、ゆっくり立ち上がった。すぐそこに停めてあるタクシーまで歩く。そのとき、前を歩くドライバーのお尻から、ぼわんと何かふさふさしたものが生えてきた。何度か目をこすって確認するが、やはり何か生えている。
「あの……ドライバーさん、お尻のそれ」
 声をかけるとタクシードライバーは自分のお尻を見たあと、一瞬くるっとまわって、そのふさふさの何かを消した。
「お客さんが無事だったことがわかって安心したからかな。つい出ちゃったね。会社には内緒にしといてね」
 僕は思わず頬が緩んだ。神様の次は、優しい獣に化かされているらしい。得意の写真はないけれど、素晴らしい記事が書けそうだと思った。書いたところで、誰も信じてくれないかもしれないけれど。
 
 
【おわり】


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