大阪の加害性

 最近、おそらく九州出身の大阪在住者Aさんと話し、いささか対立したが、教えられることが多かった。
 わたしは大阪出身(いうても伊丹)の大阪住人であり、東京の暴力(東京に「政治的意図」があるとは思っていないが、結果としての「社会的」な暴力・抑圧はある。現に東京の力の拡大の下、大阪弁は衰退しつつある。わたしの大阪在住の甥姪たちは小学生から大学生まで、東京弁話者である)に反対し、「東京弁反対」「標準語廃止」運動をしている。彼とのすれ違いはこうである。
わたしが「大阪における東京の抑圧」について語っていると、Aさんは「大阪もそうだ」という。彼は、「小さいころ九州から大阪の小学校に転向してきて、大阪弁を強制され、差別された。大阪人は抑圧者である」という。わたしも、大阪は東京に比べたら小規模やが、より小さな地方を東京と同時に抑圧してるやろうな、とは考えていた。それで、「大阪の加害」にも目を向けねばならん、と自分に言い聞かせていたが、全然理解してへんかったわ。

 Aさんは、普段東京弁をしゃべる。それで、本音を言えば「嫌な奴」と思っていた。「九州人やったら九州弁をしゃべるか、そうせんねやったららここは大阪やねんし、大阪弁しゃべるべきやろ。なんでわざわざ東京弁しゃべるねん。」とか思ていた。
 彼の考えにも、やはりおかしいところがある。彼に「わたしは東京弁をしゃべられたら苦痛を感じる」(これは、彼の東京弁を非難したのでなく、一般論として)、旨言うたら
(*なぜ「東京弁が苦痛か」というと、東京資本・東京政治の前に大阪生活・大阪弁が危機に瀕している。文化・方言は人間の形式的なものでなく「身体」であり、それが大勢力に晒されたら衰退するし、そこで「文化苦痛(ことばや文化を奪われる苦しみ)」を感じる、、、云々をかつて論文で述べた。要は、この方は「文化苦痛」を知らない‐つまり文化の大事さを知らないわけや。これは感性の押し付けといわれるかも知れないから、何時間も何年でもかけて説明したい)、「東京弁を聞いて傷つく、ということが東京人を傷つける。あなたは東京弁に傷つく必要はないでしょう?」と言われた。
これには驚いた。

つまり「傷つく必要がない」というのは、殴っておいて「傷つくな」ということやし、「傷つくことで東京人を傷つけることになるからやめろ」というのは、殴っている側が、「痛がられたら俺が悪いみたいやから痛がるな。痛がるのは俺を傷つけているぞ」という理屈や。
まあ、文化苦痛のはなしは抜きにしても、相当な鈍感である。「こうされたら痛いねんで」とこっちが教えているのに、「いや、痛くないんだよ!」と向こうが教え返すわけやし、話の中でなぜかわたしが加害者になっている。

一度ブロックさせてもらったが、気になるので解除して、なおも話を聞いた。
そして考えた、大いに反省した。

 基本的な、反東京=反権力(大阪v.s.東京の縄張り争いではないぞ?)の考えは変わらないが、大阪の加害性ないしは帝国主義についての認識である。

例えていえば、
「大阪=フランス」
「東京=アメリカ」
「各地方=西アフリカ諸国」
である。
わたしは、「フランスは英語アメリカに抑圧を受けているから、立ち上がれ!フランスとアフリカ諸国は連帯しよう!」とベナンやコートジボアールの人々に呼びかけた形になる。
かつてわたしは、アイヌ民族に「アイヌと大阪にとって、東京は共通の敵」といって袖にされたが、それはそうなるわな。

西アフリカ諸国は、かつてフランス帝国主義に侵略され、いまも事実暴力を振るわれている。その反省もないまま、こんな都合のよい利用の仕方があるか。

アイヌは、東京のみならず、大阪にも支配され、政治的経済的文化的に暴力を振るわれ、大阪人は東京人といっしょになってアイヌを差別している。
この、「自分は日本人や」という立場が、東京憎しのあまり見えてない。

わたしの「反東京大連合論」は、暴論であった。
見えてなかった。社会関係も、人の心も。
実際恥ずかしいが、Aさんと、アイヌの方々には謹んで謝罪したい。

なお続けるが、余計かもしれない。
Aさんには、しかし彼にも見えてない部分がある。
あるいは、以下の理屈も、わたしの不明によるものか。

「イスラエル=大阪」
「パレスチナ=各地方」
「ナチスドイツ=東京」(東京をナチスにしてしもたら言い過ぎとは思うが、例えの都合上)
であり、
「パレスチナ人」の氏は、「イスラエル」のわたしをたたくため、「ナチス」的な意見を言うのである。
もっとも、第二次世界大戦で、マレー半島を侵略した日本軍に加担したセマン人という民族がいる。かれらはマレーポリネシア人やイギリス人に日ごろ迫害を受けていた。それで、進軍してきた日本軍の味方をして、自らを解放した。

近くは、ウイグル・香港・台湾などの中共に抑圧を受けている人々で、彼らはアメリカ寄りになりがちであり、トランプ支持者も多い。

すると、やはり上でわたしが示した「大状況論」は、現場の論理からして、クソリクツでしかないのかもしれない。

エンパシー(他人の胸の推し量り)は難しいが、
・九州弁自体、大阪でしゃべるとバカにされるであろう。大阪人は、実際地方人をバカにしている。
・九州で、おそらく標準語はしゃべっていたやろうし、慣れない方言の大阪弁など話せるものではない。
・大阪地元のわたしからみれば「大阪・東京の選択肢あるなら大阪弁選べや」と考えがちやが、九州の彼からみれば、大阪弁も東京弁も帝国主義言語である。どちらでもええわけやし、ならば慣れている東京弁を選ぶであろう。

絶対、以上の考察、わたしでは考えたつもりやが、地方出身者からみれば、「鼻持ちならない」「勘違い」にあふれた、呑気なことばの羅列やと思う。
なんなら、そんな実例は西洋人や東京人のことばで何度も見てきたわ。

Aさんは、「立場性(ポジショナリティ)」の問題を強く言う。たしかに社会関係・人間関係はこれに尽きる。以上の不完全な考察を人前に出すのは恥やし、恨まれると思うが、一歩おずおず踏み出すつもりで書いてみた。

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