死を飼いならす──2023年6月16日〜19日

・しばらく日記を更新していなかった。サボっていた、というより物理的・精神的に書けなかったというのが正しい。

・とにかく忙しかった。金曜日に仕事終わりに友人と焼肉を食べてからオールカラオケをし、朝帰りして部屋の掃除や洗濯をしてから少し眠り、夜に後輩と我が家で謎解きゲームをしてまた夜を明かし、仮眠をとってからお昼頃に金土とはまた別の友人たちと赤羽で酒を呑んで夕方頃に帰宅し、酔いと2日連続でオールをした疲れからそのままベッドに倒れ込み、気付くと朝まで眠り込んでいた。

・いかに日記を書くタイミングがなかったか分かるだろう。今日からまた更新を再開します。




・30歳を目前に控え、急激に死を意識するようになった。

・私は死が怖い。人並みに希死念慮を覚えることはあるけど、総合的にはやっぱり死ぬのは怖いし嫌だ。いま生きているこの空間と時間、心の気持ちと頭で考えていること、知覚している感覚、大切な記憶……それら全てが失われてしまうことの想像のしがたさ。そしてその状態が文字通り永遠に、5億年ボタンより長く、終わることなく続いていく途方のなさ。

・そんな死後の不可解さと恐ろしさを、寝る前や嫌なことがあったときに想起しては、涙が出そうになる。そんなことが以前に比べて明らかに多くなった。


・作品を観ていても死への恐怖を感じる。フィクション・ノンフィクション問わず、「ドラマ」には多かれ少なかれ死が伴う。難病を患って、殺人鬼に殺されて、戦争に巻き込まれて、交通事故にあって、登場人物は作者の都合や史実通りにポンポンと死を迎える。

・昔の自分はあくまでキャラクターの死を──語弊覚悟で言えば──「物語を盛り上げるための一要素」としか捉えていなかった。何故なら自分には縁遠い話だと思っていたからだ。もちろん誰にでも等しく死のリスクはあると頭では分かっていても、実感は伴っていなかった。

・ただ最近は、例えば『戦国無双』で叩き斬られる万の軍勢の一人にも同情し、「もしこの人の立場だったら…」と自らを重ね合わせてしまう。それぐらいにはナイーブになってしまった。

・「自分はこのまま何も成し遂げず、伴侶となるべき大切な存在すら見つけられずに人生を終えるのか──」そんな焦りを感じる今日この頃である。


・といっても、ただ死の恐怖に閉じ込められてガタガタ怯えるだけの自分でもない。「どうせ死ぬならとにかくやれることはやっておこう」と自らを動かすエネルギーに変換する技術を身に着けつつある。ツラさや苦しみが想像できる険しい道も、その道を進む意義さえあれば「死ぬよりマシだろう」と思い切って足を踏み出せるようになってきた。

・死を飼いならして生を満たす。自虐思考もたまには役に立つ。


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