Raison d'êtreの喪失──2023年5月28日

・筆者は今日、新橋の雀荘で開催された麻雀大会に友人たちと参加した。各人が他のチームと4半荘対局し、その総合成績で勝負をつける方式。誰かがラスでも誰かがトップを取ればほぼプラマイゼロだし、マイナスになりやすい3位以下さえ誰も取らなければかなりのプラス域で終われる。


・思い出すだけでも胸が締め付けられて泣きたくなるが、個人成績は4位→3位→4位→3位と散々な結果であった。他のメンバーが強いから総合成績は真ん中ぐらいだったが、自分さえいなければさらに良い結果となったであろう。そう考えると申し訳なく思い、しばらく彼らの会話の輪にさえ入れなかった。迷惑をかけた自分に楽しんで話をする資格はないと顔を俯かせてだんまりを決め込むしかなかった。

・まったく、自分は集団行動に向いていないと彼は痛感した。先日、数年ぶりに舞台に立ったときも自己嫌悪と自醜症と疑心暗鬼のせいで座組メンバーと仲良くできなかったし、以前、山登りをしたときも自分が頂上の直前で足を痛めてリタイアしたせいで、場の空気を悪くさせてしまった。それについては「いやあ、足痛めちゃいましたよお!僕のことはいいのでみんなで頂上楽しんできてください!」と明るく振舞えれば良かったのだが、何時間も歩いてあと少しで頂上だというときにそれを断念せざるを得ない状況で明るく振舞えという方が無理がある。つまり自分が足を痛めさえしなければ皆で楽しく頂上に到達できたわけだ。舞台の件にしろ登山の件にしろ、ひとえにそれは彼自身の能力のなさ("目的のために必死に努力できる"という能力の欠落も含める)に起因していた。

・もはや自らの存在意義を彼は喪失していた。恐れ多くも"誰かのためになることがしたい"を信条としている彼は、逆に誰かの足を引っ張っている状況がツラく、耐え難かった。一般的に存在意義の喪失は、その人をして自死に陥れる危険性がある(実際、歳を重ねるごとに希死念慮の度合いは増している)。だから、こうして毒素の溜まった心情を文字化して外部に排出することで、自らを責め立てるもう一人の自分に圧し潰されそうになる事態からの解放を求めているのである。

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