鉄路を走る賭場にて、神の使者を見る
朝の通勤電車は、私にとって鉄火場と同義である。
午前8時19分、日暮里駅ホームに山手線が滑り込んでくる。その時点では乗客は少ないものの、ホームには大勢のサラリーマンや大学生が列をなし、扉が開くや否や堰を切ったようにぞろぞろと乗り込んでいく。
遅めの上野東京ラインから乗り換えてくる私はいつも列の最後方あたりに位置しているため、乗り込んだときにはすでに座席は埋まり、つり革に掴まりながらの立ちん坊を余儀なくされる。
だが、そのような状況に甘んじる私ではない。日暮里駅から新宿駅までを立ちっぱなしで過ごしては、足腰が壊れてしまう。私とて若くはない。
そこで、車内のどこに立ち位置を決めるかが重要となってくるわけだ。
その瞬間から、私の中でギャンブルが始まる。
車両の両端どちらにも乗客が並んで座っている。まず、その中から「誰がもっとも早めに降りるか」をジャッジする。
このスーツを着た男性は新宿に降りそうだから除外だとか、この若い女性は大学生と見て取れるから池袋か高田馬場に降りるだろうとか、年齢や見た目などから瞬間的にプロファイリングをかける。いわば競馬におけるパドックである。
そして狙いを定めた相手の目の前に立ち、じっと待ち続ける。
ターゲットが分析通り早めに降りれば勝利。座席でぬくぬくと仮眠がとれる。
案に相違して新宿まで座り続けたら敗北。馬券は破り捨てられ宙を舞い、腰をいわしながらの出勤を余儀なくされる。
毎朝、このような血で血を洗う賭け事が行われているのである。私の中だけで。
さて、本日も戦いの幕が切って落とされた。
私が目をつけたのは、進行方向右側の端から2番目に座るおじいちゃん。
この座席は端っこほどではないが、窓枠に頭を預けられるので意外と睡眠に適している。しかもご老人とくれば大勝利は確定したようなものである。
なぜなら、これは偏見ではなく事実として、おじいちゃんおばあちゃんは得てして巣鴨に降りる。私の統計上、7割程度は妥当性がある推測だ。仮にこれがスーツ姿なら話は別だが、ご安心めされよ、軽装の私服である。
しかも万が一巣鴨で降りなくても、新宿の手前にはこれまたターミナル駅の池袋がある。そこでさえ降りてくれれば、10分弱は眠ることができる。オッズ1.1倍の馬に複勝で賭けるようなものだ。負けるわけがない――。
ギャンブルにおいて、この思考が最も危険である。
田端駅を過ぎ、駒込駅を発車しても、1枠1番ハクハツノゴロウジンは電車を降りる気配がなかった。まだ手前とはいえ、私は少し焦る。おい嘘だろ。まさか降りないなんてことはないよな。
そんな私の思いに反して、電車が巣鴨駅に到着しても、老人は動かなかった。スマートフォンをいじるでも小説を読むでもなく、つぶらな瞳で中空を見つめている。私は絶望しながら心中で老人に語りかける。一体、今のあなたには何が見えているのか。私のよこしまな思いが、人間の行動を競馬に見立てる悪しき念が、透けているとでもいうのか。
しかも最悪なことに、老爺の両隣の乗客が同時に大塚駅で降り、私の両隣に立っていたOLとサラリーマンがその席をゲットしたのである。なぜ…?? 私は神を仰ぎ見る。私の台は設定6が確定していたはずです。どうしてふらっと入ってきた新参に万枚放出を見せつけられなければならないのでしょう。
池袋でも老人は降りない。
主よ、私が憎いのですか? 敬虔な信者でこそありませんが、信じる心なら誰にも負けません。霊柩車が通ったら親指を隠しますし、黒猫が横切ったら3歩下がります。そんな私がどうして……。
結局、ご老人は新宿まで降りることはなかった。私が腰の違和感に顔をしかめながら電車を降りるときも、老人はじっと中空を見つめたまま座っていた。
いま思えば、あれは果たして人間だったのだろうか。私の不謹慎なゲームを戒めるために派遣された、神の使者だったのかもしれない。心なしか体も不透明だった気がする。それは幽霊か。
そんなことを思いながらの仕事は何も手につかず、上司に怒られながら私は、痛みが引かない自分の腰をいつまでもさすっているのでした。
どっとはらい
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