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フィクションにおける洗脳の難しさについて──2023年5月19日

・テレビ東京『SIX HACK』を観た。ビジネスにおいて自らの価値を高めるためのハックを6週にわたって提供するという番組だが、制作にダ・ヴィンチ・恐山、大森時生、Franz K Endoが関わっている時点でまともなビジネス番組なわけがない。

・明らかに実践したら敵しか作らないであろうハックだらけだし、スタジオで映像を観ている出演者たちも発言やら仕草やらが何かちぐはぐで不安になる。

・極めつけはシンバルを鳴らさんとする場面に対して視聴者に音量を上げろと指示する謎の映像と、番組終了後のFranz K Endoによる電子ドラッグのようなイカれたトリップムービー。こんなに心がザワザワする番組が6週も味わえるなんて嬉し……いや怖くてしょうがない。『このテープもってないですか?』みたいに段々と狂っていくのだろうか。


・Obvious Repeatの定型文五十音表は何となく『くーろんず』シリーズっぽくて恐山みを感じた(あと地味に"な行"がない)。



・昨日に引き続き『無能なナナ』を読み返している。

・ナナの直属の上司であり、彼女を島に送り込んだ首謀者である鶴岡という人物が、巧みな話術でもって、彼のやり方に反発する生徒たちをものの数分で懐柔いや洗脳してしまう描写がある。鶴岡の恐ろしさと人心掌握の術をまざまざと見せつけられる重要なシーンだ。

・ただ、本作のみならずフィクション全般に言えるのだが、人々を舌鋒鋭く説き伏せて信奉者にしてしまうという描写は何だか現実味が欠けるように思える。「そんなんで人って簡単になびくの?」と小首をかしげてしまう。

・ただ、それも仕方ないのかなと思う。

・現実世界でも、狂信者・被害者を数多く生み出すインフルエンサーや芸能人や詐欺師や独裁者は、おしなべて弁が立つ。

・彼らは自らの主張を、身振り手振りを加えつつ、良質な歌謡曲でも奏でるように、抑揚をつけてよどみなく語る。だから聞いてて心地よささえ覚えるし、引き込まれる。内容云々より、その話し方だけで心を持っていかれてしまう求心力があるのだ。

・それはきっと、世の中の人々の大半がそんなに上手く喋れないからだろう。家族との他愛ない雑談でさえつっかえたり噛んでしまうことがあるのに、群衆を前にした壇上でよどみなく喋るなんて無茶にも程がある。だからこそ、彼らの存在が際立つのだろう。

・だが、それはフィクションの世界では通用しない。なぜなら、フィクションの登場人物は全員、しゃべるのが上手いからだ。どんな長台詞や難しい単語だらけの会話もお手の物。そんな世界で巧みな話術を披露されても、「はあ、そうですか」となってしまう。

・フィクションにおける洗脳シーンがご都合主義に見えてしまうのは、つまりそういうことなのだろう。町内一の腕っぷし自慢が、ボディビルダーの大会に出るようなものだ。

・それでいうと、以前みた『グリーンバレット』という映画は良かった。胡散臭い社長が少女たちを巧みな話術で懐柔するシーンがあるのだが、彼以外の登場人物たちが平気でどもったり噛んだりとリアルな話し方をするから、社長の弁舌が際立って説得力がきちんと担保されていた。 

・他の話術のレベルを下げることで、相対的に説得力を上げる。これも作劇論のひとつだろう。

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