真面目という逃げ―2023年4月18日

大学時代に所属していた演劇サークルの新歓公演のフライヤーがかなり高いクオリティで驚いた。
プロに頼んだのかと疑うレベル。宣伝美術の方、冗談抜きでその道に進めるのではないだろうか。

あらすじも普通に面白そうだし、OBとか関係なく観に行こうかな。学外の人間も予約できるのか知らないけど。


自分はよく真面目だと言われる。良い意味でも、悪い意味でも。良い意味の真面目は誠実とか礼儀正しいという言葉に言い換えられ、悪い意味だと無難とか面白みに欠けるといった意図が言外にある。大体3:7ぐらいの割合で悪い意味の方が多い感じがするし、自分でもそうだと思う。

ただ、自分は進んで真面目になってるわけではなく、誰かに"我"を晒すのが極端に怖いだけだと今日気付いた。

真面目とは絶対的なもの。世間一般が真面目な人物を求める以上、真面目であることに根拠も許可もいらない。

だがそこから逸脱する時、何かしらの理由が必要になる。誰かと打ち解けたいとか、笑いを取りたいとか、欲に駆られてとか。そこには必ず「自分がこうしたいから」という我がある。

つまり不真面目なことに対して理由を求められたら、己の我を晒して説明をしなければいけないし、納得させられなければ、その我ごと糾弾される可能性もある。自分にはそれがたまらなく恐ろしい。

代表的なものがユーモアだろう。本当は自分だって誰彼構わずギャグや冗談をかましてウケをいただきたい。ただそのためには自分のセンスを表に出さないといけない。それでスベったときのことを考えると、おいそれと口を開けない。だから無難な相槌や世間話でお茶を濁してしまう。それが真面目と悪く言われる原因かもしれない。

自分にとって真面目とは逃げでしかない。明日もきっと、真面目の殻にこもって自己防衛に努めるのだろう。

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