見出し画像

藤子不二雄(A)のこと

漫画家の藤子不二雄(A)が亡くなった。
好きな漫画家。けれども、よくよく考えるとあまり作品を読んでいないのではないか。『笑ゥせぇるすまん』や『怪物くん』と『忍者ハットリくん』、あと何だったか……それと短編をいくつか。だから、良い読者とは言えない。それで、好きだなんて言うのもおこがましいかもしれない。『まんが道』も『魔太郎がくる!!』も読んでいない。作者は死んでも作品は残る。未読の作品を読みたい。読めるのは幸福なことだ。

例えば、何かしらの表現者が亡くなった時、その作品が無条件に近い形で、程度の差こそあれ再評価されるということがたまにあるが、死によって上乗せされた評価というのは、正しい評価なのだろうか?
正当な評価をする/されるということは、厳しい体験であるべきで、死によって甘やかされるべきものではない。つまり、私には「死によって幾分感傷的になり、藤子不二雄(A)作品に対してもはや自然な読書が出来ないのではないか」というささやかな疑念がある。その一方で、感傷的になるということも悪いことではないというアンビバレンスな感情もあるのだけど……。

ともかく、そう後悔させる時点でもう作者の勝ちだ。それは素晴らしい漫画家であることの証左だ。正当な評価に耐えうる作品だということを私は無意識に認めている。読んだいくつかの作品だけで、そう思わせるだけの素晴らしい印象があった。それは未読の作品においても同様なんだろうと予感させる。そんなものが記憶のどこかに横たわっている。だからこそ、フラットな感情で未読の作品を享受したかった、という思いがある。

などと言いながら、死をきっかけに読み始める。そういうことがあってもいい。感傷的といえば感傷的なんだろう。とにかく私はA先生の作品を読むのだ。
ご冥福をお祈りします。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?