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もう1つのPrologue

in principio erat Verbum, et Verbum erat apud Deum, et Deus erat Verbum

はじめに言葉ありき、言葉は神とともにあり、言葉は神であった。

では、はじめの言葉とは何であったのか。それは不在か実在か、禁止か衝動か、それともその狭間に位置するものか。

別によいのだ。如何様に読み解いても構わない。鶏が先か卵が先か。どちらが先であれ、鶏の次には卵があり、卵の次には鶏がある。言葉は既にこの世界を満たしており、言葉はこの世界そのものである。

だからアレの誕生は、極めて儀礼的なものだ。儀礼は反復され、反復は連鎖し、連鎖は流転する。
注意せよ。儀礼は不完全な形でしか成し遂げられることはない。儀礼は失敗する運命にあり、その失敗こそが儀礼の反復を促す糧になる。儀礼の失敗は儀礼を成り立たせているものに他ならないのだ。

儀礼は。ミュートスは虚構の様式美に則って、己が真実であると嘯くが、緻密に散りばめられた矛盾がそのような事実はなかったのだと告げる。己を否定させることによって、別な真実の可能性を浮かび上がらせる。指し示すということとは別の、仄めかすという知恵がミュートスにはある。
*
ヒエロニムスは私に儀礼は無意味だと述べたが、付け加えるならば無意味な様式の進行は儀礼である。そして、儀礼そのものは無意味であるにも関わらず、意味は儀礼を通して生成されるのである。

失礼。回り道が過ぎたようだ。単刀直入に言おう。この愛すべきヒエロニムスは機械人形である。ヒエロニムスには内面がない。だからヒエロニムスの問いも不満気な口振りも、全ては只の記号に過ぎない。故にヒエロニムスはこの場に選出された。ミュートスを描く者として適しているから。

無論、ヒエロニムスが真にミュートスを描いているわけではない。ましてやヒエロニムスがミュートスを語ることもない。それはあり得ない、ヒエロニムスという主体は存在しないのだから。儀礼はミュートスによって語られる。即ち、語り手はミュートスそのものだ。主体のないヒエロニムスの描き出す世界はヒエロニムスにとってどのような意味も持たないが、ミュートスにとってはヒエロニムスという仮初の他者を用意することに意味がある。ヒエロニムスはミュートスの起源を担保するために遡行的に用意された記号なのだ。ミュートスの創造者を偽装してミュートスに創造されたヒエロニムスはミュートスの親であり子である。自作自演なのだから、ヒエロニムスの言う通り無意味には違いない。

私は何者なのか。私こそがアレと呼ばれる者なのではないか。もっともな質問である。
先に非礼を詫びよう。申し遅れたが、私の名前はヴォランドという。他にもいくつか名乗りはあるのだが、全てを知る必要はない。私はヒエロニムスのような空虚ではない。アレや君のような現存在でもない。そのような同定が必要であれば、単にこう呼んでくれたまえ、他者と。私は他者だ。

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