感情を規定される
面白かった。わたしはしずちゃんをよく知らないのだけど、感情を断定しにかかってくるというテーマについてはなんだかわかる。
世の中、凄くそういうものが多い気がする。
誰かが死ぬドキュメンタリーは「悲しくなる」、恋愛ドラマは「ときめく」、高校生活は「甘酸っぱい」、友達との旅行は「思い出ができる」
そんなに具体例があるわけじゃないけど、イメージ戦略で安っぽくそういうものを押し付けられていることって、ある気がする。
誰かが何かを感じて、それを伝えるために音楽とかフィルターをかけて、訴えていく、とかは、悪いことではないんだろうと思うけど。
でも安っぽく量産するのってどうなんだろう。テレビのお涙頂戴番組みたいな。そんな見てないからわかんないけど。
経済が絡むからそうなっちゃうのかな。最短距離で、感動っぽいものを作って、視聴率なり売り上げなりを獲得する。
感動自体とかの気持ちだけでは世界は回らないからそれをお金に変えることは必要だけれど、自然に感動する→お金が集まる、じゃなくて、人工的に感動のボタンをショートカットで押しにかかるような感じ。
そもそもの伝えたいこととか、伝えたい気持ちとかもなしに、仕事として感動ボタンを押しにかかってることもあるのかもしれない。
それが存在することはしょうがないけど、それに自分が、周りが、気がつかないでそれに支配されてたら、健やかじゃないね。
しっかり自分の気持ちにチューニングを合わせていないと、すごく簡単に起こり得る。
ああ、でも、支配されちゃうの、すごい私わかる。
世の中の情報が膨大すぎて、知らない世界がありすぎて、自分の気持ちより、他の人が言う感情の方が、ほんとらしく思えちゃう、こともあった。
飲み会でふにゃんとしてる方が楽しいのかな、友達との旅行は大学生たるものいっておかなくちゃ、高校生今が人生のピークだよ、、
本当に誰かが実感して、伝えておいてくれていることもあるのかもしれない。けど、ほんとにそれ通りになるわけではないし、なんとなく口に出してるだけってこともあるよね。
そういう声に対する音量は、調節しないといけないね。
私が1人でいる方が好きだなって思う理由も、この感情の規定があるんだと思う。というか、変に真面目に受け取っちゃうから、どちらかというと規定されやすいんだと思う。
それを規定されないように自分の自由で居やすいのが、ひとりの方で。
映画とか、人と見にいくと、「面白かった」以外の方向が、私の中に用意されてない。
旅行もそう。「このメンバーよかった、楽しめた!お金かけた甲斐あった!」っていう成功の感情しか用意されてない。
これは別に、何かに規定されてるわけじゃなくて、自分で規定しちゃってる。
…感情が規定される、とか社会問題風に書いたけど、私の問題だわ笑
もちろん、別にそうじゃない時もあるけどね。
四年生の時、自分が旅行が好きか好きじゃないのかがわからなくなって、一人旅を2回した。それは、自分1人なら楽しくてもつまらなくても自分的に許せるから。旅行行く→楽しい、以外の感情を許す環境を物理的に作って、自分で自分に楽しいかつまんないか聞いてた。自分が何をするのが好きなのか聞いてた。
人とテレビとか映画とか見るの苦手だなって思ってたけど、自分の感情を動かす前に、脳みそが、今どういう感情を動かすべきなのか考えちゃうからだ。
テレビのお笑いみたいな、ボケ、ツッコミ、みたいなのが苦手なのは、そこで笑なわきゃいけない、みたいに思っちゃう。強制されてる感じがする。笑いどころを作るっていうのは、言い換えれば笑いを作り出されてるってことで、ほんとに面白くて笑うことももちろんあるけど、そうじゃないこともある。特に、少人数で、目の前に喋り手がいる時。
…もし、向こうが、笑わせてあげなくては、って思ってこっちのためにやってたとしたら、お互い不幸な人間関係だな。爆発する前に無理するのやめなきゃなあ。
最近、ひとりの時には、前よりはしっかり自分の感情を中心に考えられるようになってきた。そしてそれに予定を合わせれるようになってきた。
私は飲み過ぎるとだめだな、とか。
この人の話は、そんなに聞かなくていい、とか。
まだまだだから、がんばろう。自分照準。
ああ、今考えれば、ほんとに自分の感情を規定しちゃってたなあと思うし、なんならそれを外すのに1年も2年もかかってる。規定が少しずつ広がって、自分がどういう考えをしているのかを考えはじめて、最近、怒る、嫌だと思うってところまで自由になれるようになってきた。ほんと考えれば2年以上。
そう考えると、嫌いになれるようになってきたのもなんならお陰様かも。癪な話だけど。
今後も、自分の環境が合わなかった時に、嫌いだと認識できる勇気と脳みそをもってたいです。
困らないならいいんだけどね。
あー働き方も、迷うわあー。