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おかしのはなし ういろう

外郎がお好きという方は多いのではないでしょうか。

外郎・外郎餅とも呼ばれ、上新粉などを溶かした砂糖に混ぜて蒸したお菓子です。枠蒸しういろうが多いですが、餡玉を包んだ茶席菓子としても供されます。

その由来は、同じく「ういろう」と呼ばれた薬。
室町時代に中国から亡命した陳順祖という医師が、中国(元)の官職名「礼部院外郎」 から外郎の字を「ういろう」と読みを変えて名乗りました。その子。大年宗奇は中国伝来の薬をもたらし、将軍足利義満の招きで京へ。薬が評判を呼び、天皇から「透頂香」の名を賜ります。
戦国時代に入り、北条早雲の招きで拠点を小田原に移して以降、豊臣秀吉や江戸時代の歴代藩主の保護のもと、東海道五十三次の重要な宿駅でもあったことから、多くの人に薬の外郎は利用されたそうです。

お菓子の外郎は大年宗奇が朝廷に仕え、大陸からの使節をもてなす場で自ら考案した菓子を提供し、 それが始まりと言われ、透頂香の口直しに食べられたとも伝わります。

多くの人に愛されたのでしょう、各自に名物とする地域がありますね。

平安の色

はじめに 2で京菓子を構成する要素に「宮廷の行事や公家の風習」があるとご紹介しました。
これは「有職故実」と置き換えることができると思います。

有職故実とは八条忠基氏は「はるか昔から受け継がれた数多くのルール、日本人が長い間慈しみ紡いできた美意識の精華が表れており、その根底に「平安への憧れ」がある、と言っています。
現在まで受け継がれる日本人の美であり、文化であり、それは私たち日本人が日本人であることの拠り所の一つではと感じてしまいます。

平安時代は【年中行事をつつがなく行うこと】が大切にされたと聞きます。
年中行事は、季節が変わるたび、自分や家族の安寧を祈り息災を願う心から、その願いを行事祭礼をもって満たすことからできたとも考えられています。
そして自国の国風に沿って発達することが原則でした。

日本に続く年中行事は、こうした願いや祈りであり、自然への恐れと感謝の心から行われると思うと、改めて諸々の行事が尊く感じます。

平安時代には季節感を大変気にかけ、細やかに感じ取ったのでしょう、この頃に多様な色彩ができ 多くの色名が生まれたそうです。日本独自の色彩文化が発達したのです。

日本の色は、太陽の出没に関する「明-暗」「顕-漠」の光の二分法からはじまり、そこから徐々に色を現す言葉が生まれたと考えられるそうです。
古代の色彩表現は4色、アカ、クロ、シロ、アヲでした。
アカは明(めい) 明るい、夜明けの空が赤く色づく頃
クロは暗(あん) 暗い、太陽が没した暗黒
シロは顕(けん) 明瞭、夜が明けはっきり見える様子(物がはっきり見える'しる(著)'に由来か)
アヲは漠(ばく) 曖昧、明と暗の間、非常に広い範囲の色(黄や緑なども)を含む

…少し余談となりました。


平安時代に戻ると、「重ねの色目」「襲の色目」 という言葉を耳にします。
これはこの時代の蚕の糸は細く、生地が薄くなるため裏地が透けたそう。それを利用して裏表の色を変えて風情を表現したのが「かさねの色目」です。
八条忠基氏は『「重ね色目」は自然の美しさを衣に反映させる雅な美意識』と、
城一夫氏は、『 「襲」は龍の衣と書くが、紅葉は龍田姫が龍になって天に昇るときの鱗であるという。平安人は自然を身にまとったのである。』と、 それぞれ著書で美しい説明をされています。


重ねの色目には、数多くの組み合わせがありますが、私が面白いと思ったのは緑色に白色を重ねたもの(表白 ・裏青の色目)。
春は「柳」、夏は「卯花」、秋は「菊(当時、菊といえば白菊だったよう)」 、冬は「松の雪」と、 同じ色目も呼び方を変えることで季節の風情を楽しんだのは、自然に心を寄せる日本人らしさを感じます。


今日は緑に白のういろうを重ね、いただくのはいかがでしょうか。



【参考文献】
『事典 和菓子の世界 増補改訂版』2010中山圭子
『図説 和菓子の歴史』2017青木直己
『有職故実の世界』2021八条忠基
『有職故実研究』1957石村貞吉
『時代別 日本の配色事典』2020城一夫
『有職の色彩図鑑』2020八条忠基
『歴史に見る「日本の色」』2007中江克己
『色の名前の日本史』2021中江克己
『神道はなぜ教えがないのか』2013島田裕巳
『日本の装束 解剖図鑑』2021八条忠基
知恵の燈火HP「銘菓ういろうの由来と歴史」chienotomoshibi.jp
株式会社ういろうHP ういろうの歴史 uirou.co.jp

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