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モヤモヤ怪獣・誰かのためお化け

ずっと自分を抑え続けてきた。ずっとずっと自分がどうしたいか、よりも、どうすべき、に比重があった。それが当たり前だと思ってきた。苦しかった。苦しいという自覚もないまま、だけど、モヤモヤ心にずっと霧がかかった状態だった。

毎朝、今日こそはこのモヤモヤを克服するぞ!と朝日を浴びて丹田呼吸をして、自分の中のモヤモヤ怪獣と必死で格闘しようと挑んだ。そして、「あー、今日もダメだった」そんな風に思うことの連続だった。外的要因があったわけじゃない。だから、誰のせいにも、何かのせいにも出来なかった。それがなお一層、自分を責める以外に方法が思い浮かばなかった。

喜びに変えることの出来ない私が間違っている。大いなる何かに生かされて、愛されている事への感謝が足りていない。苦しい、その心を喜びに転換することの出来ない私はダメな人間、落ちこぼれ人間だと。いろんな美しい人生訓で自分を縛り、自分を奮い立たせ、自分に鞭を打ち、必死で、その意味の分からないモヤモヤ地獄から這い上がろうとしてきた。憎しみ、怒り、嫉妬、真っ黒な渦が自分の中で渦巻いていた。だけど、表面では、笑顔を作り、必死で時間をどう乗り切るかに集中した。

今、こうして書き出して思うこと。自分の外側にいる人間、自分以外の人間、誰か、は、一切関係ない。すべて自分の中の問題。以前は頭で自分にそのことを言い聞かせようとしていたけれど、今は本当に心からそう思っている。自分と向き合うことが全てだと心から感じている。

何とか人生を全うしたいと、10代の頃から自分なりに努力して自分と向き合ってきた。どうしたら、幸せを感じられるのか。楽しいと思えるのか。私は固定化した幸せ、というものを目指して、必死に山を登ろうとしていた。生まれ変わりというものがあるのなら、ある宗教的な考え方で「輪廻転生からの解脱」、と言うことが目標であるのなら、私は今世でそれを成し遂げて、永久の幸せをつかみたいと本気で思っていた。(注:私はなんの宗教的団体にも属してはいません。自分の中の概念を文字化するために、上記の言葉を引用させていただきました)

もう二度と生まれてこなくていい、何も探さなくていい、悟り、と言うものがあるのなら、それをつかみ取って「解脱」をしたいと真剣に思っていた。その世界に行って、誰とも関わらない、自分だけで完結する、「解脱」というものをしてみたいって真剣に思っていた。

人と気持ちをシェアして喜びを共有できる、それは嬉しく、ありがたいこと。近くにいる人たち、とくに家族には怒りも出てくるが、愛しさの方が大きい。それでも、それでも、人間は、私は、誰にも寄りかかれないって思う。究極的に、自分を面倒見るのは自分以外に、誰もいないって思う。

自分の幸せの追求に貪欲になって!もう自分だけに集中して!

今まで生きてきて、心から思えることがある。自分が幸せじゃない人は誰のことも幸せには出来ないって事。自分の幸せだけに集中して、自分の幸せだけを追い求めて、自分が心地よい状態であることを求めることに、決して妥協してはいけない。自分が幸せじゃない人が、人に幸せを語ることなんて出来ない。自分が幸せじゃない人が「あなたのために」なんて重たくて、苦しくて、窒息しそうになる。

誰かを見てそんな風になりたくないって思ったら、徹底的に自分の中の「誰かのためお化け」と向き合って。

そうしてその原因を掘って、掘って、掘って、掘りまくって。そして、聴く。苦しかった。淋しかった。悲しかった。幸せが何か分からなかった。ずっとずっと探してた。そして今も探してる。幸せが何か?ってさまよっている自分の声を。



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