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人、あるいは人のようなものとの距離:「呂好・太遊二人会」レビュー

 落語にはたいてい、登場人物がふたり以上いる。人が集まれば必然的にコミュニケーションが生まれ、コミュニケーションからは会話が、物語が、そして笑いが生まれる。

 笑福亭呂好と月亭太遊による落語会が、天満天神繁昌亭で行われた。呂好は古典落語と新作落語を1席ずつ、太遊は新作落語を2席、合計4席が披露された。

 この4席に、ストーリー上の関連性があるわけではない。しかし会全体を通して「距離感」というキーワードが浮かび上がってくるように感じられた。そのことについて、それぞれの落語を振り返りつつ考えてみたい。

呂好『たぬき』(古典)
罠にかかったたぬきを、男は助けようとした。律儀に恩返しのために男の家を訪ねてきたたぬきは、当たり前のように人間の言葉を話すのだが、そのことは落語のなかで、さして問題にはならない。知恵を出し合って何度も訪れるピンチを乗り越えていくひとりと1匹は、対等に語り合う。呂好の淡々とした語り口は、たぬきと人間が会話するということを、より自然に感じさせ、観客を落語の世界に引き込む。

太遊『幻影百貨店』(新作)
げんえいひゃっかてん、と書いて「マーヤーデパート」と読む(!)この落語には、人知を超えた存在(のようなもの)が登場する。その存在は、この落語において(おそらく)人の形をしている。そのため人のように扱われ、過剰に敬ったり、恐れたりといった対象にはならない。現代的な言葉で、日常生活の延長のように語られる言葉は、日常と非日常の境目をあいまいにしていく。

太遊『夜空ノテマエ』(新作)
そのまま宇宙につづくような壮大な星空を眺めながら、友達同士の会話が展開する。徐々に失われる遠慮や気遣いと反比例するように、観客の視点はより高い位置へと導かれる。体験したことのないかたちの落語だと感じる。

呂好『クチナシ(上)』(新作)
不登校、場面緘黙といった、ある意味ではセンシティブな題材を取り扱っている新作だからこそ、登場人物の言動が気になる。父と不登校の娘、その娘と幼馴染の男の子、男の子と父(男の子にとっては他人の男性)……どの関係性も相手に踏み込みすぎていて、思わずひやひやしてしまった。『たぬき』で感じた自然体とは違う、緊密な関係性は現代的とも言えるかもしれないが、その近さにはどうしても「しんどさ」が伴う。

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