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いい人、いい人、"どうでも"いい人

「いい人、いい人、どうでもいい人」
浪人をしていた18才の時、年上の友人がふと雑談中に発したこの言葉に衝撃を受けた。
なぜなら、いい人でいれば救われると、その日までは本気で思っていたから。

この言葉の意味合いはおそらく恋愛的なもので、所謂「いい人」と呼ばれる当たり障りなく優しいだけの人は恋愛的な魅力としては毒にも薬にもならないし、箸にも棒にもかからない、という意味であろうと個人的には思うし、その面においてももちろんショックを受けたが、それだけではない何か大きな衝撃があった。

思えば、小学生の頃よく先生に怒られていた。

褒められたくて縄跳びを無理矢理先生の前で飛んだら、近くにいた子に縄を当ててしまったり、国語の教科書を授業中に先に読みすぎたり(謎にそれをわざわざ先生に報告したり)、自分の机の周りを極端に散らかしてしまったり、協調性がなかった。悪気はなく、周りが当たり前にできることや気を配れることで、できないことが多かった。

ただ、テストの成績だけはまあまあ良く、よく先生や周りの人に褒められていた。それと、近所の人に挨拶をするといい子だねってよく褒められた。だから会う人会う人に挨拶をしていた。

できないことが多くても、テストの件とか挨拶とか所謂世間一般的な「いい事」をすれば褒められることが多く、それが「いい人でいれば救われる」ということを本気で信じる所以になったのかなと、今になると思う。

そんな「いい人」教信者の自分としては、冒頭の言葉は衝撃だった。青天の霹靂だった。本気で数日寝込みたくなった。
そして実際「いい人だけど...」と言う断り文句を雨のように浴びた。彼女に「優しすぎる」と別れを告げられたこともあった。誰かと深く仲良くなるのにかなりの時間を要した。

かといって、本心で向き合おうとすると、元々が協調性のない人間なので、大いに空回った。思い出すと叫びたくなるような失敗を数え切れないほど重ねてしまった。人との距離感がうまくとれなかった。

気づけばどんどん自分の本心を曝け出すこと、誰かのパーソナルスペースに深く上手く入り込むことができなくなってしまっていた。そして、やはり本気で向き合わない人間に、本気で向き合ってくれる人は少なかった。

「たまに自分という人格を辞めたくなる」と言ったら、人によって笑い飛ばしてくれたり、面倒な奴だなと冗談半分で怒られたりもした。でもわりと本気で思ってる。

その反面、自分の足りなさとか拗らせとか、自分が足りない拗らせてると思ってしまう浅はかさとか、そういうものに苦しみながらでも一生向き合っていかなきゃとも思ってる。あと人とも。

でも、こんな自分にも本気で向き合ってくれるような人、スピリチュアルな意味ではないけど魂が同じような人とたまに出会う。その人達は自分にとって必要な本当の意味での「良い人」なのかもしれない。
ぼくもその人達や、誰かにとっての「良い人」になりたい。


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