【砂漠に咲く一輪の花】

2005年の8月末。
上海に行く船の中で
水をキレイにするお仕事をされている方々に出会った。

「兄貴ーーーー!!」
「おーーー妹よーーー」

と、呼ぶ仲になり、
兄貴はいつも困ったときに相談に乗ってくれた。


2007年3月。
確か新卒で1年ほど経った頃、
わたしはまたもがいていて、兄貴に連絡をした。

そのときにしてくれた話、
【砂漠に咲く一輪の花】が今でもずっと、
胸にあたたかく残っている。

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【砂漠に咲く一輪の花】

戦前の話。

日本の外交官(林出 健二郎さん)で
天皇の親書をモンゴル皇帝に届ける任務を
受けた人がいてね。

その外交官がゴビ砂漠を、
駱駝の小隊で越える時の話です。

駱駝の小隊を率いて、
と言うか当時は、これしか方法が無かった。

ゴビ砂漠で当然の様に、砂嵐に会う。

砂嵐の時、御者(駱駝の持ち主)は手綱を手に、
駱駝を座らせて砂嵐が過ぎるのを待つ。

駱駝は連帯感が強いと言うのか、
主体性が無いと言うのか、
一匹が立つと次から次から立って逃げてしまうから、
必死に手綱を持っているんだ。

何回か砂嵐をやり過ごして、
ある時、とてつもなく大きな砂嵐が来てしまった。

御者は必死に手綱を手に、駱駝をなだめていたが、
とうとう一匹の駱駝が立ち上がり、
あれよあれよ全部の駱駝が立ち上がり、
何処かへ逃げていてしまった。

食料も水も自分の体につけていた物しか無く、
途方にくれ、それでもとぼとぼモンゴルを
目指して歩いたそうだ。

3日目が過ぎようとした時、
とうとう目がカスミ、喉も乾ききって、
「あーもうだめだ」とへたり込んでしまった。

ふっと、意識がもどり目を開けると、
そこに一輪の花が咲いている。

その花を見詰めているうちに、
「あーこの花は、私が出会わなかったら、誰が見たのかなー」
って思い、

「いや!この花は誰に見られる事もなく、ただ咲き誇っているんだ」

って思いがして来たそうだ。

そして、
「私も、誰に見られる事もなくても、自分の使命を果たそう」
とまた、歩き出したそうだ。

その後、別の小隊に出会い、
無事モンゴル皇帝に新書を届ける事が出来たそうだ。

日本に帰り、故郷に行き、
山を見ると桜が満開に咲いていた。

そこで、見る人の為にはあらぬ、
山奥の己が誠を咲く桜花 と歌を読んだ。

この人が後の満州皇帝溥儀さんの御用係を勤めたひとです。

おわり

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あー…この話は、
23のときの私にも、今35になったわたしにも
何度思い出しても沁みる。。

一年に一回くらいmixiの過去の日記から探し、読んでいた。


23歳の春。
『砂漠に咲く一輪の花』になろう、
わたしにならなれる!

そんなよくわからない希望に満ち溢れ、
体中にパワーが漲ったのを覚えている。

当時「みゆきは何の花?」と聞かれ、
「ニコニコしたひまわりー♡」
と、答えた。なんとも23の私っぽい。


兄貴、今どこで何をしているんだろう?
きっとまだ中国のどこかにいるんだろうな。

老子のように。


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と、ここで締める予定だった今日の文章。

そのあと衝撃的な出来事があり、
偶然とはいえ、心臓が飛び出しそうだった。

息子を迎えに行き、
そこから娘を迎えに行く車の中で

「お母さんに見せたいものがあるんだー。
今日も図書室で本借りてきたよー!」

と、見せてくれた本が、、

画像1


【砂漠に咲いたひまわり】

・・・・・・・・・・。

ほんと?

そんなことある?


図書室で唯一ある日本語の本らしい。


第二次世界大戦のときに、
祖先が日本人というだけで信用してらえず
日系アメリカ人が囚われた収容所での話だった。

「とても苦しい中でも尊厳を保つよう努力し、
画家だった祖父母が『アート』で
家族の心の平和と生きがいをもたらし、
収容者全員に自分を表現する機会を与えた。」


泣いた。


昨日もソーシャル・ジャスティスの
公開セッションがあり、
この本もわたしの前にやってきて、
もうわたしの器では受け止めきれないモノが
降りつづけている。

わたしは、どうしたらいいのだろう…?

自分は今どういう情景の中にいるんだろうと
考え浮かんだのは、

目を瞑り、空を見上げながら、
すべては手ですくえないけど、
悲しみや、希望の雨に打たれているような感覚。

雨に打たれながら、
ときどき、涙を流し、
ときどき、笑う。

なにかものすごい力がうごめいていて、
心が熱く燃えているのは確か。

なんなんだろう。


そして老子の言葉を思い出す。

「自然にしていれば、いいんだよ。なにも、しなくていい。」

循環が循環を生むのがすきです。サポートしたいただいた循環を、文字で循環していきます♡