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RINGO_先生の自己紹介

どうもこんにちは。
RINGO_先生です。

昨年アラサーの仲間入りをした
20代の♂です。

これから自己紹介を
していこうと思います。

どうぞお付き合いくださいませ。


RINGO_先生のプロフィール

<職業> フリーランス(以前は学校教師)
<趣味> 写真や動画の撮影、編集・筋トレ・陸上競技
<特技> ガジェット(特にApple製)を使いこなすことや使い方を教えること

私は大学を卒業後、
3年ほど学校教師をしていました。

中学校で英語教師としての経験と、
小学校で学級担任としての経験があります。

しかし、3年目の途中に
仕事が原因でうつ病の診断を受け、
退職しました。

今はそれなりに回復し、
抗うつ薬を飲みながら
一応働いています。

学習支援員として
子ども達の学校生活を支えたり、
バイトをしたり、
PCで仕事の依頼を受けたり…。

…とまあこれらが
ここ数年の出来事ですね。

続きはより深い話になります。

子ども時代の話と、
うつ病になったきっかけ、
現在の働き方、考え方について
長々と話します。

お付き合いいただけたら幸いです。


少年時代

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まずは小学生の頃の話になりますが、
私は極端に自己肯定感の低い子どもでした。

いきなり暗い出だしですみません(笑)

勉強が苦手で、運動も苦手で、
肥満で根暗で…。

学校では馬鹿にされたり
いじめられたりするし、
習い事も何をやってもすぐに諦めるし、
親からもかなり呆れられていました。

「どうせ僕なんか…。」

が口癖の、とても残念な少年でした。

そんな感じで
小学生時代を終えます。


青年時代

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中学生になり、
陸上競技部に入ることで
人生が変わり始めます。

初めは大会はおろか、
小規模の記録会でさえも
100mで毎回ビリを取るような成績。

しかし毎日部活を頑張り続けた結果、
3年時には県大会の決勝に
進めるまでに成長しました。

これらの経験から
粘り強く頑張り続けることの
大切さ
を学びました。

その後、高校も大学も
陸上競技を武器に進み、
途中には全国規模の大会なんかも
経験できるレベルにはなりました。

性格はパリピとは程遠い
根暗な人間でありながらも、
考え方は体育会系そのもの。

・「努力と根性」
・「頑張ればなんでも叶う。」

本気でそう信じ込んでいました。

今思えば、
希望いっぱいでしたね(笑)


教師になろうと思ったきっかけ

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高校生くらいの時から
将来の仕事について
考えるようになりました。

世の中にどのような仕事が
あるのかをあまり知らなかったため、
選択肢は限られていましたが、
そんな中なりたい仕事で一番に
思いついたのが教師でした。

理由は

・元々人に物事を教えるのが好き。
・公務員なので、安定してそう。
・子どもが好きで、共に高め合いたい。
・昔の自分のような子どもを救ってあげたい。

以上4つです。

特に、最後の
「昔の自分のような子どもを救ってあげたい」
が一番大きい理由です。

私はたまたま中学で陸上に出会い、
変わることができましたが、
自分に失望するのは本当に悲しい事です。

実際、「どうせ僕なんか…。」と
空に閉じこもったまま、
大人になっていく子も
たくさんいることでしょう。

そんな悲しいことはありません。

やはり学校は
希望のある場所にしたいです。

「僕は教師になって、子どもが『学校楽しい』と思えるような温かい学級を作ろう。そのために、自分がまず子ども達を認めることから始め、子ども達同士でも認め合いの輪を作ろう。学力は、その後だ。」

そんな具合に、
夢と希望を持っていました(笑)

ある意味、
私自身が子どもの時に
出会いたかった教師像です。

こんな希望を持って、
講師をしながらでも
教員採用試験を
頑張り続けました。


社会人(教師時代)

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大学を卒業し、
まずは講師としてですが
教師になるという夢が叶います。

非常勤で複数の中学校の
英語の授業を
受け持つことになりました。

初めてのことだらけで
毎日授業準備や
宿題のチェックに追われながらも
何とか乗り切りました。

翌年は小学校での勤務となり、
5年生を担任することに。

はじめは子どもとぶつかりながらも
理想に近い温かい学級を
作ることができました。

今思い返しても、
本当に良い1年間でした。

年度末には異動が言い渡されましたが、
「新天地でも頑張ろう。」
と希望に満ちていました。


人生最大の挫折を経験

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「今年も頑張ろう!」

そう意気込んで
新しい学校へやって来ました。

担当学年は前年度と同じく5年生に。

前年度の反省点も振り返りながら、
より良い一年にしようと思っていました。

その時はまさか
自分が教師を辞めることになる
未来など、全く想像していませんでした。

ーーーーーー

4月初め、
子ども達は私を
とてもキラキラした目で
迎えてくれました。

お互いの自己紹介や
私が大切にしたいことなんかも
伝えました。

スタートは良しです。
あとは気を抜かず、
子ども達を認め続けて
質のある授業を心がけ続ける。

そう思ったのも束の間。

またすぐにコロナによる
大型の休校期間に入りました。

休校期間も毎日出勤しますが、
やはり子どもありきの学校です。

子どものいない学校というのは
正直言って退屈でした。

「早く子ども達と授業したいな。」

そう感じる日々でした。

ーーーーー

コロナ休校が終わり、
再びクラス全員で
授業ができるようになった6月。

子ども達は見違えるほどに
骨抜き状態になっていました。

無理もありません。
コロナに振り回されて、
小さな子ども達が
生活を奪われ続けたら
そりゃ元気もなくなります。

だからこそ
私の原点に立ち返って、
私自身がそんな子ども達を
認めることから
始めようと思いました。

いざ向き合うも、
4月初めのキラキラした
表情とはとって変わり、
力のない表情。

授業でも
挙手しない、
書かない、
考えてもみない。

そんな子ども達が
次々と現れてきました。

それだけではありません。

あまりの活力のなさに、
子ども達に喝を入れる
専科の先生なども現れました。

喝を入れられた結果、
「どうせ俺らダメだもんな。」
と卑屈になりました。

更にはいじめも起き始める。
生活のルールも次々破られる。
管理職に相談しても
「自分のクラスで起こったことなら自分で何とかしろ」
と投げ返される。

まだまだ引き出しの少ない私には
どうすれば良いのか
分かりませんでした。

それでも自分のクラス。
自分の大事な児童達。

何とかしようと
必死に面白い授業を考えて、
仲間づくりの工夫も考え続けました。

そんなある日、
子ども達の口から
次のような言葉が聞こえました。

・「担任が変わってから、学校楽しくないよな。」
・「今年の担任マジハズレだよな。」
・「隣のクラスが良かったな。」

それらを聞いた瞬間、
私の中で何かが壊れました。

心が折れるって、
こういうことを言うんだと思います。

初めての感覚でしたが、
本当に全身の力が
抜けてしまいました。

頭の中がそれらの言葉で
埋め尽くされました。

それでも私はこの子達の担任です。

自分の持てる力を使い、
次の学年へ良い形で
繋げなくてはなりません。

ーーーーー

何をやっても
良い風が吹かない
自分の学級。

一方で、どんどん
明るい雰囲気で前へ進んでいく
隣のクラス。

「自分が担任になってしまったせいで、子ども達はこんな風になってしまった。」

そうやって私は
自分を責めるようになりました。

そんな私にとどめの一撃が
繰り出されます。

学期末の保護者懇談会で
一部の保護者から
猛攻撃を喰らいました。

・「先生が担任になってから子どもが学校が楽しくないって言うんです!」
・「専科の先生が言うことに何とも思わないんですか?」
・「うちの子は男の先生嫌いなんでやっぱり先生には持ってほしくなかったです。」

もうとっくに
私のライフは0ですよ(笑)

その後、夏休みに入りましたが、
コロナで授業が遅れていることから
夏休みが2週間に短縮。

夏休みも自粛を
求められ続けたので、
遊びに行くわけがありません。

研修などもあり、
あっという間に夏休みは
終わりました。

そして2学期も
地獄のような雰囲気で始まり…

私はしばらくして
働けなくなりました。

心療内科にて診断書をもらい、
2ヶ月の療養を求められました。

病休扱いにして
2ヶ月後に復帰するのが
通常だと思いますが、
もう気持ち的にどうでも良くなり、
退職を選びました。

これにて私の短い
教師人生は終了です。


療養期間のしんどさ

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担任を途中で退き、
退職を選んでからの数ヶ月は
地獄そのものでした。

とにかくエネルギーが湧かない。

何もする気になれない。

ご飯を食べることや
お風呂に入ることさえも
億劫に感じ、
一日中ベッドに横になっている
ことも多々ありました。

体重もみるみる下がりました。

ただ時間だけはたくさんあるので
学校のことを考え込んでしまいます。

・「自分のせいで他の先生に皺寄せが行ってしまった。」
・「自分は子ども達に最低の見本を示してしまった。」
・「なんで自分は教師なんかめざしてしまったのか。」

ひたすらに自分を責めました。

もう自分は終わったと
本気で思いました。

収入も途絶え、
奨学金や車のローンだけが
残りました。

正しく地獄の日々です。

「自分は世界一不幸な人間だ」
と本気で思っていました。

ーーーーー

それでもできるだけ
一日三食を心がけ、
適度に運動し、
薬も飲むようにしていたら
だんだん良くなっていきました。

退職3ヶ月後に失業保険も適応され、
深刻なお金の問題も
少しだけ緩和されました。

同じくらいのタイミングで
前任校から
「支援員やSSSとして少しだけ働かないか」
と声がかかります。

最も、現在も学習支援員として
働かせてもらっている学校です。

私がお金に困っていることを
分かった上での声かけでした。

失業保険を受給していることも
了解の上で、最低限の
シフトを組んでくれました。

本当に、この学校には
感謝しかありません。

やがて失業手当の受給期間も終わり、
学習支援員として
フルタイムで働きながら
副業をする生活が始まりました。


現在の生き方

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現在はまだ定期的に診察に通い、
薬も飲み続けてはいるものの、
間違いなく改善に向かっています。

正規教諭でも正社員でもない
不安定な立ち位置ですが、
気持ち的に大きな負担なく
働くことができています。

そんな現在目指しているのは
「消耗しない生活」です。

何よりうつ病の再発が嫌ですから。

とは言え、
性格的にも能力的にも
何かと無理をしてしまいます。

だからこそ安定を捨ててでも
消耗しない生活を
目指したいと思っています。

そして、現在の過ごし方は
それが一時的に
実現できています。

今後は目指すとすれば
「自分の好きな分野の仕事を捨てることなく、よりお金に余裕を持てるようにする」
ですかね。

自分に合ったポジションを
今後も探し続けたいと思います。


最後に

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教師になって
とても苦しい思いをしました。

「どうして子ども達のことを
こんなに想っているのに、
あんな目に遭わなくては
ならなかったのか。」

そう思う日々でしたが、
今はだいぶ割り切ることが
できたのではないかと思います。

それでも、
「学級担任を途中で投げた」
という事実は今も
強烈な劣等感として残っています。

でも、そうなってしまった以上は
仕方がありません。

若いうちに撤退できただけ
マシだと考えることが
できたらなと思います。

何よりですが、
こんな痛い目に遭ったのに、
私は未だに教育現場から
離れていないんですよね。

教師に戻りたいという
気持ちはありませんが、
結局私は学校という場所が好きです。

立場を変えて、前任校の
子ども達と関わっていますが、
毎日が楽しいんです。

一度潰れることで
体力だけでなく
気力にも限界があることを
学んだので、
これからは自分を大事に
生きていきたいと思います。

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