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もしかしたら、美しいのは削り屑のほうかもしれない

木に向かいながら、思い描く形を目指してそれを刻んでいく。出来上がってくる形は作り手の意に沿ったものとして、それが正確である限り、確かに正しい形ではある。

けれどふと、まわりに落ちているくるくると細かに丸まった削り屑を見たとき思うのは、「もしかしたら今日自分が生み出したもので一番美しいのは、こちらの方じゃないのか」ということだ。

美しさは、意図の裏側に生まれるものだろうか。
木を削ることは、それを裏から見れば、削り屑を作り出すことだとも言える。
ある形に削り出そうとするのは人の意図であって、純粋に客観的な視点というものがもしありえるなら、形を削り出すことも、削られて屑が出てくることも、「木に鑿が押し付けられて動いていく」という同じ一つの現象についての別の切り口からの表現にすぎない。‹1›

しかし、一方には意図があり、他方にはそれがない。削り出された木には意図が宿り、削り屑には意図が通り過ぎた空白が残る。
意図が存在しなかったら、削り屑は生まれなかったわけだから、何らかの形で削り屑にも意図が作用したと考えなければならない。削り屑は、意図の影として生まれたのであり、それは意図という動きによって生じた風のようなものである。
人の意図に沿った行為というものは、いつでも作為という醜さに染まる危険と隣合わせである。しかし、意図はそれが起こそうとする作用によって生み出される影を意図することはできない。
そこに救いが差し込むのかもしれない。

楽器という道具を作ることに、意図が介入しないということはあり得ない。
けれど、たとえば削り屑を生み出すように楽器を作ることはできないものだろうか。
作為を捨てることはできなくとも、何かを思いつつ、その裏側で影のように自然に、楽器が生まれでてくることは可能だろうか。


・注
‹1›実際には「木に鑿が押し付けられて動いていく」という表現もまた、ある一つの視点に立脚して為されたものに過ぎないのであって、視点というものを定めることのない「事態」についての純粋な記述というのは現実には不可能である。また事態というものを、他の事態と区切られたある一つの記述可能なものとして切り出すことすらも、世界というものを持続する現象の流れであると考えるならば、あくまでも認識主体による恣意的な操作であることになる。



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