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あの選択は呪いであり、祝福だった。

【文字数:約1,000文字】
お題 : #あの選択をしたから

 先日に聴いたラジオにて、小説家・エッセイストの山崎ナオコーラさんが次のように話していた。

 若かったときは目標に向かって 1人で書いているような気持ちがあったと思うんです

 でも今は 今の時代にこの場所で書いていて 違う人たちと関わっていたら 違うものを書いていただろうっていうのを思う

「武田砂鉄のプレ金ナイト」
YouTube版 00:36:10あたり

 趣味の域を出ないけれど私も文章を書いており、今現在に取り組んでいるものは、若くして亡くなった友人がいなければ書こうとは思わなかった。

 過去の選択が今を作るのは自明ながら、選択されなかった、つまり実現しなかった架空の今を想像するのは、簡単なようでいて難しい。

 山崎ナオコーラさんは自身について、次のように語っている。

私はもう本当に 純粋に文章を書くの好きで
本を読むのが好きで 書くのが好きで 国語を勉強して
まぁ国語しかできなかったんですけど 勉強っていうものが
それで作家になったんで

「武田砂鉄のプレ金ナイト」
YouTube版 00:32:20あたり

 作家になった人は読書家が多く、自分でも書いてみようと選択したことが、おそらく重要な分岐点になったのだろう。

 私も本を読むのは好きで書くのも好きで、だけど作家にはなっていない。

 もちろん作家になれたらと夢みたことがあるし、それは自然かつ当然な願いであるような。

 こんな話にしたいと、イメージだけの大作に留めておくのではなく、作品という目に見える形にして評価を求め、結果として実を結ぶことはなかった。

 たぶんそれは私にとっての「書くこと」が他者を楽しませるためでなく、遊離しそうな自我を繋ぎ止める命綱だったことも無関係ではないと思う。

 培った性質を変えるのは難しいけれど、それでも私は他者を楽しませることができるような、あわよくば誰かの救いになるような話を書けたらと願っている。

 そうした願望もまた、かつて友人にかけた最後の言葉という選択あってこそで、それは命を縮める呪いであると同時に、生を欲するための祝福でもある。

 あの選択という首輪が緩められるのか、それとも締められるのかを決めるのは、ひとえにこれからの選択にかかっている。


 ちなみに番組では、ここから今年3月に刊行された著作『ミライの源氏物語』の話につながる。



なかまに なりたそうに こちらをみている! なかまにしますか?