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横田滋さん追悼番組、書き起こし(前編)

~はじめに~

令和2年6月5日、北朝鮮拉致被害者、横田めぐみさんの御尊父さまである横田滋さんが、天に召されました。
謹んで哀悼の誠を捧げますとともに、一刻もはやく、めぐみさんと拉致被害者の奪還、そしてご家族みなさまが心から安らげる日を迎えられますよう、心の底から願っております。

ここに、6月11日夜、ニッポン放送で再放送された「ニッポン放送特別報道番組『ただいま』を聞くまで…。母・横田早紀江の祈り」を書き起こしたいと思います。

「あの…」などの文字は、一般的には省いて読みやすくするのがセオリーですが、ここでは敢えて載せている箇所があります。すべてを省いて整った文章にしてしまうと、読みやすくはありますが、ご家族のみなさまらの苦悩や不安、動揺、悲しみなどが伝わらないのではないかと感じたからです。

途中、読みやすく変えてある箇所もありますが、できるだけ口調がそのまま伝わるように、ほぼ全文書き起こしました。文中の丸かっこ()は、便宜わたしが加えました。
また、文章から話し手が分からないところは(〇〇さん)、そのままで分かるところは省略しています。名前の漢字が不明なところはカタカナで表記しています。ご了承くださいませ。

<以下書き起こし>

時刻は午後10時をまわりました。ニッポン放送報道部の宮崎裕子です。
(中略)
今夜は、先日お亡くなりになった横田滋さんを偲んで。そして、北朝鮮の拉致問題を風化させてはならないという強い思いを込めて、 2003年に放送した「ニッポン放送特別報道番組『ただいま』を聞くまで…。母・横田早紀江の祈り」を改めて放送いたします。(略)

横田滋さん(以降、滋さん)
「北朝鮮にいるめぐみのことがね。やっぱりもう、一刻も早く連れ戻さないと。病気になって入院したとかって話もありますから。一日も早く日本に連れ帰らないとね」。

北朝鮮に拉致された横田めぐみさんの父、滋さんが、6月5日午後2時57分、老衰のため亡くなりました。87歳でした。

1932年昭和7年。徳島県で生まれ、日本銀行に勤め、新潟市で暮らしていた1977年11月15日。
当時13歳で中学1年生だった娘のめぐみさんが、北朝鮮に拉致されました。
以降、めぐみさん救出のために、長年拉致被害者家族会の代表として、妻・早紀江さんと共に、救出活動の先頭に立ってこられました。
拉致問題のシンボル的存在となった横田夫妻は 全国を飛び回り、これまで行なってきた講演は1400回以上に及ぶといいます。
滋さんは、救出活動に奔走する日々を、2006年当時、次のように語っていました 。

「多いときも少ないときもあるし。実際はもしそれが続けば、一年間に150回ぐらいになるんですけれども。少ない時もありますから…。やっぱり大雑把に数えれば、これまで1000回ぐらいはね。
全く何もないっていう日はほとんどなくて。そのような日がたまにあっても一時的な。もう、1日中手紙を書いたりってことになりますから、ただ寝転んでいるなんてことはないですね。
それでもこれも自分の子供のことですからね。それはもう、どこの親だって、それはやると思います」。

そんな両親について、めぐみさんの双子の弟、拓也さんと哲也さんは 当時、次のように語っています。

「どこにでもいるような家庭でありまして、夫婦なんですけども、そんな派手じゃないと思うんですね。両親も我々も。地味にむしろ過ごすことが、横田家のようなところだったんですけども。
本当に公人のような扱いになってしまいまして。
つまり、ストレスの連続ですよね。隙を見せられないと言いますか。
そういう意味では、非常に疲れが溜まっているんだろうなという風に思います」。
「父はご存知の通り、元銀行員でしたから、いつも家で家計簿を自分でやって。今日の収支というか、(お金が)合った合わないとかっていうのは、本当に1円刻みでいつもやるのが日課なんですね。
どっかに表立って賑やかワイワイ行くっていう一家ではなくて、本当に家庭の中で楽しく過ごしている。
そういう意味では、こんだけカメラの前、マイクの前でですね、必然的に出なくてはいけないっていうのは、過去の両親の姿と言うか、横田家の家庭像からはかけ離れてるんですよね」。

このインタビューの翌年2007年、滋さんは体調不良を理由に家族会代表を退任。近年は体調を崩して歩行や会話が不自由となり、おととし4月から入院し療養していました。
妻の早紀江さんは毎日病院に通い、病床でめぐみさんの写真を見せては「必ず帰ってくるから頑張りましょう」と話しかけ、滋さんは「頑張る」と口を動かしていたと言います。
しかし今月5日、めぐみさんとの再会が果たせぬまま、滋さんは旅立たれました。

これから放送する番組は、今から18年前の2002年、史上初の日朝首脳会談が行われた年に取材制作し、2003年に放送されたものです。
拉致問題を風化させてはならないーー横田滋さんの意思を受け継ぐ思いで、今夜 放送いたします。

「横田滋さんを偲んで『ただいま』を聞くまで…。母・横田早紀江の祈り 」

==ここから、2002年の番組放送部分です==


( 童謡『浜千鳥』歌い出し流れる)

(横田早紀江さん(以降、早紀江さん))
「わたくしは、横田めぐみの母親でございます。
北朝鮮に拉致をされた子供達を救出するための、署名活動を行っております。
親であるならば、自分の命を削っても何とかして救い出さなければならないとお思いになりませんでしょうか。
どうか、なにも考えないで素通りをしないでください」。
「わたくしも、こういうことが起きなければ、本当に普通の近隣のお父さまお母さま方と同じような普通の夫婦で。普通のおじさんおばさんで。普通の娘で。普通に過ごしてたんですけれども…」

横田早紀江さん。66歳。
25年前のあの日のことを、今でもはっきりと覚えている。

1977年11月15日。日本海に面した新潟市内から、一人の少女が忽然と姿を消した。
横田めぐみさん、当時13歳。新潟市立寄居中学校に通う1年生。歌の好きな少女だった。

めぐみさんには、銀行に勤める父親の滋さん、母親の早紀江さん、そして4つ違いの双子の弟がいた。
家族5人は、市の中心からさほど離れていない、新潟市水道町にある木造一戸建てに暮らしていた。
家を出て、北へ伸びるまっすぐな坂道を下ると、まもなく日本海に出た。

近くには広い境内を持つ護国神社があり、その先に防風林の松林が続いていた。
街灯もないあたりは、夜になると、漆黒の闇に包まれた。
冬は海鳴りが聞こえて、時折吹き付ける突風で、雨戸がガタンゴトンと物凄い音を立てた。

その日は、冬の新潟では珍しく天気のいい暖かな朝だった。
めぐみさんは、中学校でバドミントン部に所属していた。
練習を終えて帰ってくる頃には冷えるだろうからと、早紀江さんは廊下を走って、玄関にいるめぐみさんにレインコートを手渡そうとした。
『どうしようかなぁ。今日はいいわ。置いていく』。
めぐみさんはそう言うと『行ってきます!』と元気に家を飛び出していった。

それが早紀江さんが見た娘の最後の姿だった。

「 ニッポン放送 報道特別番組『ただいま』を聞くまで…。母・横田早紀江の祈り 」

めぐみさんは、クラブ活動の練習がどんなに遅くなっても、午後6時には家へ帰ってきた。
しかしその日は、すでに7時を過ぎていた 。

(早紀江さん)
「その日はあの…夕方になっても遅いんで。それでどうしたんだろうと思ってもう…とにかくあんまり遅いから。今日は遅いって言ってなかったし。『学校まで見に行ってくる!』って言って。
それでもうあの…弟たちにそう言って、鍵かけて。ダーッてつっかけ履いたままでもう…でもう、一直線ですから…学校の方まで行ったわけです。見に。
 それであの…2~3人ぐらいの人にすれ違ったんですけど。もう暗いんですよ、あそこは本当に寂しい道でね。それであの…こう、まさか違うだろうなと思って学生さんのような人を見たりしながら行ったんですけど、他の人で。
 で、校門まで来ました時に、体育館の入り口のところからパッと中を覗いたら、そこにはもうあのバドミントンの選手たちいなくて。それで、ママさんバレーのお母さん方が、みんなで練習してらしたんです。
それでもうビックリしちゃったんです。
その時に『いやー大変だ!』っていう感じでね。どうしたんだろうって。その時にもうなんかゾクッとなってね。
 で、ダーッと戻ろうと思ったら守衛さんがいらしたので『バドミントン子供達もう帰りましたか?』って。『もうとっくに帰りましたよ、みんな』って仰って。これは大変だと思って。それでまた、もと来た道をダーッと走ってね、帰ってきたんですよ」。

家に着いても、玄関にめぐみさんの靴はなかった。
「お姉ちゃん帰ってない?」
テレビを見ていた弟たちに聞くと
「まだだよ。どうしたの?」
と言いながら二人は母親の元へ走ってきた。
早紀江さんは懐中電灯を持ち、弟たちを連れて再び学校の方へ向かった。

「それでもう、探し回って。呼んで探して。今度護国神社の方…こっち海の方なんですけど、そちらの方もずーっと境内歩いたり、暗い電気も点いてないところで怖かったんですけど。もうなんかね、どっかに連れ込まれてるかもしれないと思ってね。大きな声で呼んで、探しまわって…それでもう…また今度戻って海岸の方行って。海岸の方もずーっと照らして。車が停まってまして、懐中電灯を持ってましたから『中学生の女の子見ませんでしたか?』と言って、怒られながらね。ものすごく大きな声で怒鳴られたりしながら、本当に不安で不安で凍りつくような感じでした」。

車のトランクに、入れられたのかもしれないーー
早紀江さんは、駐車している車に近づいた。
「触ったりすると怒られるよ」。
幼い弟たちが言った。
不安と恐怖心で、胸が潰されそうになったが諦めきれず、再び海岸を照らし、娘の持ち物が落ちていないかと探し歩いた。

夫の滋さんが勤務先から帰宅するのを待って、すぐに警察へ届けた。
午後9時50分。新潟中央署と東署の署員が駆けつけ、周囲の空き地や廃業したホテルの中、神社、松林などの捜索を始めた。
草やぶを棒で突きながら探したり、海岸に出て遺留品が流れついていないか、くまなく見てまわった。
が、めぐみさんの消息は一向に掴めない。

めぐみさんが卒業した小学校の校長、馬場ヨシエ先生は、早紀江さんの様子をこう振り返る。

「必死になって探されておりましたけれどもね。なんかやっぱり…絶対、変な所…形ではいなくなったんでないと。必ず、彼女はいると。めぐみさんはなかなか賢い子でしたからね。あの変な形でなくなるわけがないって言う、やっぱり自分の子供を信じるという気持ちがあったと思いますね。そういう様子がわかりましたね。はい」。

娘は、一体どこへ行ってしまったのか。早紀江さんは、色々な可能性を考えた。
家出…自殺…それは、どうしても思い当たらない。
交通事故か…不良グループに連れ去られたのか…。

警察は、一週間後、公開捜査に踏み切った。
地元の新聞、新潟日報も、めぐみさんの写真入りで事件を大きく報じた。

めぐみさんが失踪してからというもの、早紀江さんは、家事を終えるとまだ行ったことのない工場街など、新潟市内をあちこちと歩き回った。
「もう疲れたよ」という二人の幼い息子。
「もう少しだから頑張ろうね」と励まし、
「めぐみちゃん!めぐみちゃん!」と叫びながら、海岸線を何キロも歩き続けた。

家族の思いも虚しく、手がかりのないまま月日だけが流れ去った。

(早紀江さん)
「どんなことでも何か、手がかりにならないかと思ってですね。ちょっと変な電話でもあって名前を聞くと、同じ名字の人をずーっと電話帳で探したりして、全部かけたりとか。色んな事やってましたね、あの時は。
似てる人がいると…もうあの…本当に写真が似てると、新聞の中にある写真がよく似てるなと思うと、何年か経ったらこんなになってるかもしれないとか、思ってしまうんで。そんなに似てないって言うんですけどね。絶対似てるとか言って。
それで新聞社にお電話して、聞いたらすぐにこう…大きく写して写真を送ってくださったりね。
それをいただくとやっぱり全然違ってね。
あぁやっぱり違うわと思ったりね。
よく似た人がまちなかにいるとちょっと追っかけていって、こうやって見てみたりとかね。
展覧会でも似た絵があると見に行って、絵描きさんに聞いて『それは違います』って『モデルさんはこういう人です』とか言われてガッカリしたりね。
もういろんなことを本当、あらゆることをね、やってきましたね」。

滋さん、早紀江さん夫妻は、娘が失踪した原因について何度となく話し合い、時には自分達の子育ての仕方が間違っていたのではないかと、自らを責めることもあった。
やりきれない絶望感が、早紀江さんを苦しめていった。
毎晩、息子達が寝付いたあと、静まり返った部屋で一人娘の事を思った。
「めぐみはどこへ行ったのだろう…」
夜の訪れが怖くて仕方なかった。

 白々と夜が明けるころ、早紀江さんは、浅い眠りの中でめぐみさんと会った。

「桟橋があって、木のような桟橋で。セージ色(灰緑色)みたいな色の緑っぽい…川か海かわからないんです…川のような気がしたんですけど。そういうとこにずーっと出た桟橋のようなのがあって、そこにたくさん並んでるんですよ、人が。 わたしたちもいるんですね。そこにめぐみとわたし、二人だけなんですけど、並んでて。
 それで、めぐみが持ってたレインコート。白なんですけど、それじゃなくて、セージ色のね、なんだか知らない寂しい色なんですけどね。『なんで学生なのにこんな色を着てたんだろう』と思ったんですけど、セージ色のレインコートみたいなのをめぐみが着てて。一緒にこう、なんか沈んだ感じでね。どちらもが沈んだ感じで船を待ってるんですね。
 船を待ってるってのがおもしろいでしょ?桟橋で。そんなこと考えたこともないのにね。いっぱいたくさんいるんですよ、他の人も。で、みんなシーンとして困ってるわけですよ。船が来るとか、それはなかったんですけどね。そういうのがなんともかんとも言えない寂しい夢で。
 それはもうそれで目が覚めたんですけど、それからあんまりね…ハッキリとした夢というのもないんです…はい」。

警察の公開捜査に使った制服姿のめぐみさんの写真は、どこか寂しげで内気そうな少女に写っている。
あの写真は、風疹にかかり中学校の入学式を欠席しためぐみさんのために、始業式が始まる前の日曜日、桜が散り始めている中学校の校門の前で、滋さんが記念に撮ったものだった。めぐみさんの顔には、まだ発疹の痕がポツポツと残っていたという。

(早紀江さん)
「あれはね…あれはちょっと失敗しちゃいましてね…。あれを出すのは本当によろしいかなぁと思ったんですけどね」。丁度いなくなった時の制服の写真が何枚かあるんですけど、いつもみなさんに言うんですが、あれはちょっと病気上がりの写真でね。自分も嫌ってたんですよ『こんな変な顔に…だから嫌だって言ってたでしょう』と言ってたので、ちょっと出したくないなと思ったんですけど…。
一番顔が大きく写ってるんですね。あの写真がね。
 制服のも何枚かあるんですけど。やっぱいなくなった時の…こんなことになると思ってませんからね。『すぐに見つかるんだったらこれが一番わかるから』って言うんで。出したんですよ。
やっぱり全然イメージが普通のあの子と違うんで、やっぱり可哀想なことしたなぁ…っていつでも言ってるんですけどね…」。

明るく朗らかなめぐみさんは、面白いことを言っては周囲を笑わせた。
家に帰ってくると、その日あった出来事を大きな声で話すので、めぐみさんがいるところはいつも賑やかだった。

(早紀江さん)
「音楽はなんでも取ってましたけどね。そうですね『希望のささやき』とか『埴生の宿』とか『浜千鳥』とかの…。よくあるね、そういう歌ですね。『みかんの花咲く丘』とか…。よく大きな声で歌ってましたよ。わたしも好きだったからよく歌ってましたけどね。
(聞き手:お家で、お母さんの前で…。)
もう人の事なんて考えないで、大きな声でそこら辺を歩きながら歌ってましたからね。廊下なんかで大きな声で…。『もう、歌うのやめたほうがいいよ。そんな声で歌ったおばあちゃんが裏で聞いてるから笑っちゃうよ(笑)』なんてわたしが言ってたら『いいんだよ。歌ぐらい歌うんだよ』とか言って、歌ってましたよ。ええ」。

めぐみさんは、本格的な発声練習をしたことはなかったが、歌が上手だった。小学校の卒業式の謝恩会で、6年生全員がシューマンの『流浪の民』を歌った。
コーラス部に所属していためぐみさんは、担任の勧めもあってソプラノを独唱することになった。
透き通るような高い声で…。

(めぐみさん独唱の箇所が流れる )

不思議にも、めぐみさんの独唱部分は『慣れし故郷を放たれて、夢に楽土求めたり』。
唯一残されためぐみさんの声。
早紀江さんは、時々このテープを聞いては、とりわけ「慣れし故郷を放たれて」の箇所で、たまらない気持ちになり、ひとり、泣いた。



めぐみさんが失踪した翌年、富山県で奇妙な事件が起きた。
海岸を歩いているカップルが、4人組の男にすれ違いざま襲われたのである。

男たちは男女を押し倒し、後ろ手にして手錠をかけ、足を紐で縛った。
口にタオルを詰め、さらに特製の猿ぐつわをはめた上で、頭からすっぽりと布袋をかぶせ、近くの松林に運んだ。

その襲撃は素早く、4人の役割分担もはっきりしていた。
彼等は、2つの袋を前に、じっと何かを待っていた。
30分ほどして、近くで犬の吠える声がすると、なぜか4人は急いでその場を立ち去った。

被害にあった男性が、袋を被ったままうさぎ跳びをして、近くの民家にたどり着き、助けを求めたため、事件が発覚したのである。

4人の男達が残していった外国製の布袋、手錠、猿ぐつわなどの遺留品。
以前、警察が逮捕した、北朝鮮工作員から押収したものと同じだった。
北朝鮮による犯行であることが明らかになった。

この事件が、その年の夏に各地で連続して起きた、3組のアベック蒸発事件の謎に結びついた。

そのアベックとは他でもない。
新潟県の蓮池薫さんと奥土祐木子さん、
福井県の地村保志さんと濱本富貴恵さん、
鹿児島県の市川修一さんと増元るみ子さん。

この3組も、北朝鮮員工作員によって連れ去られたのではないかーー
『拉致』の可能性が急速に強まった。

早紀江さんは、めぐみさんについて何か手がかりがないかと、毎日、新聞の隅々まで目を通していた。そんな早紀江さんに近所の人が、この「アベック失踪事件」を報じた産経新聞を持ってきた。

「もしかして、めぐみも同じ被害にあったのかもしれない」

早紀江さんは、その記事を持って産経新聞新潟支局に行き、その後、新潟中央警察署へも足を運んだ。

支局も警察も、誘拐事件の被害者が全て20代のカップルであったことから、めぐみさんの失踪とは無関係ではないか、という見解だった。

これでまた、一つの可能性が消えてしまった。
正月気分がまだ残る新潟市内に、大粒の雪がふわり、ふわりと舞っていた。


早紀江さんは、この寒空の下、
「あの子は一体…どうなっているんだろう…」
そう思うと、涙が溢れて止まらなかった。

「もう毎日毎日泣いてたんですよ、あの頃は。
今はなんか、涙が枯れ果てちゃってもう。なんかもうドライアイみたいになっちゃってね。人生の、ドライアイになっていつも目が痛いんですけどね。水分もなくなっちゃって。
 だけどもう…本当にあの…もう雪が降ってきて。もう雪が降るまでになったか。帰ってきてほしいと思ってたんですけどね。もう…雪が降り始めるともう…寂しいんですよね。新潟はね。深々とね。雪が積もってきてね」。
(聞き手:11月下旬から12月ぐらいには…もう降り始めますよね)
「そうなんですよね。それでもう、本当に寂しくてね。もうあんなに人間の寂しさをね、感じたことなかったですね。もうこんなに人間って寂しい思いするものかなぁって思いましたね。あの頃は。本当に寂しかったですね…」。

1983年昭和58年。滋さんの東京への転勤が決まった。
もし娘が帰ってきて、わが家が真っ暗で鍵がかかっていたら、家族に見捨てられたと思うかもしれない。
早紀江さんは転居先を書いた紙を、雨に濡れないようビニールに入れて、玄関の格子にくくりつけた。家族は、後ろ髪を引かれる思いで、新潟を離れた。

東京に移った当初、周囲がめぐみさんの失踪事件を全く知らない環境の中で、早紀江さんは、少し解放されたような気分になった。

しかし、その開放感もすぐに寂しさへと変わっていった。
東京には、めぐみさんの面影を残すものは何もない。
娘がいた、新潟の風景から離れてしまうと、もう二度と娘に会えないのではないか。
都会のにぎやかな大通りを、ひとり、泣きながら途方にくれたこともあった。

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渋谷


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