『F・U』(旧題『あなたに刻まれたい』)

 この小説は『となりあう呼吸』(著:枯木枕)の二次創作を公募する「シェアード・ワールド企画」に応募し、落選した作品です。

 なお、ここに掲載するにあたって改題した他にも本文の加筆修正を行っていますが、最大5000字という字数制限はそのまま設けている、はずです。
 本文には暴力的・性的な描写や過激で下劣に満ちた言葉が含まれています。

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 これより生まれてくる総ての人に捧げる

 わたしたちの意識は完成された後も常に改築される厳かネスティな聖堂のようなもの。意識の聖堂には敬虔ビッチな悪魔が住んでいて、宿主が見たものや聞いたことを基に形を変え続ける。だからこそ、わたしたちは同じテクスト・同じ音楽・同じ景色を経験しても、その時々によって異なった感情を想起する。意識はさながら、さすらい人のように、一日を終えたのと同じ所では新しい日を始めず、大地がまどろんでる間にも終わりのない旅を続けてゆく。
 悪魔たちがその場その時で名前や権能を変えるように、人は場所や文化圏で仮面を被り変える。意識の聖堂で鳴らされた鐘の音は神経の中で響き渡って習慣付いた言動や挙動を生み、それは言動を通して自分自身のみならず、他人の意識の再形成に相互作用する。そう、人は環境的要因によって、つまり共同体の中で意識を再編集する。これがどういう意味か分かる? 人は意識の乗り物なの。人は遺伝子だけじゃなく、自分の考えを、自身の物語を、他人の意識に孕ませようとする。だから人は対話を好み、本を書き、曲を作る。意識の生殖という試みがかならず成功するわけじゃなくても。
 わたしは時々、自分たちがこの考えを理解できる最後の世代なんじゃないかって思考に囚われて、叫ぶこともうずくまることも震えることすらできずに、思考の総てが恐怖に押しつぶされることがあった。花々が咲き乱れる野原に横になって、大空の面を飛ぶ鳥や地を這う獣たちの小さなうそぶきを聞きながら、暖かな日の光に包まれているにもかかわらず、この世に祝福されたものは何もないと悟って絶望してしまうような、そんなクソみたいな畏怖いふの観念に。
 だからわたしは、この物語をあなたたちに、あなたたちの意識に残す。わたしが生きた証として、わたしの意識がここにあったことの証明として。まるで墓石みたいに。でも手向けの石や冥福の祈りなんてものは必要ない。ただその代わりにこの物語を最後まで読んで、これを読まぬ他者へと語り継いでいってほしい。そしてなにより、あなたの意識にわたしを刻み込んでいてほしい。

 むかし、科学技術の進歩が人間の身体を脆くさせると示唆した映画があった、と思う。
 けど格言にもあるように、事実はフィクションよりも奇妙でかつ冷酷で、わたしたち人類の身体は理由もなく、ただただ脆弱化の一途を辿っている。まるで宇宙の摂理でそう決まってるみたいに進行する崩壊現象を前に、わたしたちには為す術がない。その現象は対話を知らなくて、交渉も駆け引きも無い。飽きることも止まることもなく、ただ敬虔ビッチな天使のように、理性にも感情にも左右されないまま自分の不変的意志に従ってわたしたちの身体を蝕み続けるという最高度の自由を持ってる。
 この崩壊は有史以前から人類を滅ぼすためにいろんな形をとって現れてきた。約3000年前、人類は崩壊の一形態に過ぎない驚異としての自然から身を守るために防壁で囲われた都市を作り上げたけど、それは崩壊の付け入る隙を生む原因にもなった。都市が繁栄し人口が密集すると崩壊は感染性ウイルスとして、産業革命によって工場が林立すると有害な煙として、人類の前に現れた。20世紀の末にもなると、以前と比べれば幾分かは崩壊による被害も少なくなってたけど、崩壊が人類の誕生したその瞬間から既にわたしたちの身体に、その遺伝情報に、手を伸ばしていることなんて誰も想像がつかなかった。人類は被害の減少を勝利の獲得と勘違いした。あるいは勘違いしていたかった。けど、崩壊は不変的意志を持ってる。その手が止まることはない。
 
 人類史には絶えず崩壊と抗った人々がいて、ウルを建築した人々や長年の間オランダで水害に抗った人々、死すべき運命にある人々を救うべく医学を発展させた人たちがそうだった。けど、在るものはいずれ無くなる。半世紀前、カリフォルニアのM・I・L・F社、デトロイトのSUGOMA社、幾つかの企業と協定を結んで全世界の身体を機械に置き換える計画を指導した旧合衆国政府が最後の例となった。
 すべては諸行無常。水はいずれ干上がり、朝日もやがて沈む。自由に空を飛んでいた鳥も、いつかは落ちてゆく。崩壊は機械の身体にまでその手を伸ばし、ガラクタに変える。崩壊は人の身体じゃなく、人類そのものを世界から消そうとしてる。あるとき、崩壊の作用は意識や記憶の領域にまで達した。すると人間の最大な精密機械である脳は、エネルギーコスト削減のために休息を選んだ。わたしたちの記憶力は世代が変わる毎に低下してる。もはや、わたしの記憶や感情が真実かどうかも怪しい。
 この崩壊という現象に対して人類は一丸となって対抗すべきなのに、わたしたちは互いに相手の上に立つべく競争しあうことを止めずにいる。あのクソみたいな最後の合衆国政権は崩壊を回避するためにって“ホール国民”の意識データを機械のケツ穴ホールん中にある電子世界に射精して宇宙空間に精液みたいに打ち上げる糞尿まみれ計画をバカみたいに発表、数年の後に“凱旋車ザ・トライアンフ”ってクソみたいな名前のディックでクリームパイな方舟が国際社会からの批判を気にすることなくクソみたいにり出された。
 でも、わたしたちはここにいる。わたしたち多くの黒人と移民、そして貧困層白人は合衆国民なんかじゃないと見捨てられた。けど、わたしはこれで良かったと思ってる。わたしたちは皆、苦しんできた人々として互いの文化や肌の色の境界を尊重しつつ、自由・平等・機会を手に入れたし、これまで局所的あるいは個人的に過ぎなかったアメリカン・ドリームが旧合衆国全土を包み込んだ。アメリカは自由の地。それはアメリカが国家として成立する前から、国家という枠組みが無くなった今でも変わらない。けど、自由という言葉は光が当てられた場面にしか存在してたわけじゃない。19世紀末東アメリカでは縛られた自由からの逃れるために無法者が蔓延り、1920年代シカゴではマフィアが跋扈した。そして2010年代になるとボルティモアは麻薬帝国としての絶頂期を迎え、シリコンバレーの開発が進むと南カリフォルニアは多くの人々が悪としての自由を追い求めた。
 むかし、わたしはどこにでもいるようなボルティモアの少女だった。卑語ですら足りないほどクソな両親はクスリ漬けで、ヘロインを手に入れるためなら何でもやった。人を騙し、殺し、わたしを男たちに売りさえした。こんな地獄みたいな場所でも、それなりに生きていくことはできるけど、地獄にいることには変わらなくて、いつかは皆、クスリか銃で死ぬ。この街で強く生きるには、クスリと銃が必要だけど。ボルティモアの貧民街に住む子どもたちはギャングを見て育ち、憧れを持ってた。ギャングのボスは全てを持っている。目を引かれる美女や車、そして世界の大半を買うことができるほどの金。ギャングのボスにまで昇り上げることができるなら、自由に何だって手に入る。これが、自由の地アメリカの裏にある、もうひとつの自由。国家という枠組みが無くなった今でもここは自由の地で、それは未来永劫、変わることがない。

 わたしは時折、まだ活気があった頃のボルティモアの街並みを頭に思い浮かべて、そこを散歩することがある。その度に思い出すのは、むかし読んだ小説の一文――わたしたちの身体にはどんな記憶でもすっかりきちんと仕舞われている。
 わたしはその考え方に同意したいところだけど、人の記憶というのはドラッグをキメた後のセックスみたいに曖昧で初体験の陰茎ディックよりも信頼できなくて、わたしたち自身をクソ騙してくれる。そんなわけで、わたしの頭の中にあるボルティモアの風景はきっと差異あるものなんだと思う。けど、これだけは間違いないということがある。わたしの住んでいたギルモア・ホームズには痛々しいほどの白光を照り返してくれるアスファルトの道路があって、インナー・ハーバーやフェルズ・ポイントにはそれに加えて高層建築のコンクリートや窓ガラスすらもわたしの目を焼かんばかりの光を反射してくれる。
 できるなら今のボルティモアを見て回りたいけど、わたしの足は既にボロボロで数時間も歩けない。これは崩壊現象なんかじゃなくて、痛み止めとして摂取ブロウ・ジャブし続けてきたヘロインがわたしの身体を徐々に蝕んできた結果だと思う。信じられないけど、まだ人類に対する崩壊現象が緩やかだったころ、ドラッグと生涯摂取ファックすることなく生き続けた人は少なかったらしい。わたしたちはといえば、血中のヘロインやTHC――ちくしょう、最早これが何の略称だったかも思い出せない――が切れれば、たちまち暑さと寒さに同時に苛まれて、苦痛と恐怖の汗が止まらなくなるのに。昔にもわたしたちみたいな中毒者フィーンドは多くいたみたいだけど、その中にはわたしたちみたいな、なりたくてなった訳じゃない人も多かったらしい。例えば、痛み止めとしてモルヒネを使っていた患者が完治しているわけでもないのに保険会社から見捨てられ、薬品も買えず、麻薬に頼らざるを得なくなる、みたいに。その先になにがあるか、わたしたちはよく知っている。
 ここボルティモアには、“フレディへの冒涜”と呼ばれる薬がある。極微量のヘロインにかさ増しとしてベーキングパウダーや粉ミルク、そして劇薬のフェンタニルを足す。本来、粉末上の麻薬はうっすらとして灰色を帯びてるけど、不純物でかさ増しされた白い麻薬が出回っている。むしろ、伝統的な灰色の麻薬を見たことある人の方が少ないと思う。いまから数十年前に白人警察の黒人殺害事件を切っ掛けに起きた大暴動の中、薬局を襲撃した暴徒たちの手によって、裏社会にフェンタニルが提供された。それ以降、世に出回っては次々に中毒者たちをオーバー・ドーズで殺すフェンタニル入りの白い粉末麻薬は、殺された黒人の名を取って“フレディへの冒涜”と呼ばれるようになる。彼に祝福があらんことを、敬意を込めてF
 白人が黒人を殺し、黒人が黒人を殺す。政府や社会システムが市民を殺す。強者が弱者を殺す。悪人が善人を殺し、善人が悪人を殺す。時には善人が善人を殺すことも。そうして積み上げられた、社会の負債とも言うべき死体の山の横には無関心という名のクソみたいな木が植えられてるだけで、誰の目にも留まらない。権力者たちは社会を意のままに操りながら、それに縛られまいと苦悩し奮闘する市民を見てほくそ笑む。これがアメリカ。この地に祝福があらんことを、くたばっちまえ F・U 

 こんな身体だと一時間ペンを持つだけでも疲れる。休憩がてらに窓から夜空を見上げると、星々が煌めいてるのが見えた。人々の意識をデータとして乗せた凱旋クソ車は、いまごろ、震えるおおぐま座の方へと向かって飛んでってるんだろうけど、きっと崩壊からは逃れきることはない。崩壊は手を伸ばしてるんじゃなくて、世界はずっと崩壊の手の中に浮いてるんだから。
 むかしこの国の先住民は北極星を“歩き回らない星”と呼んで、世界の終末には移動すると考えてた。北極星がその玉座を離れて南の星が夜空を支配するとき、空の星々は地上に降りて、人は空へと昇るんだって。けど、北極星は天の北極を離れるどころか最接近してる。それは今後数千年にわたって夜空に君臨し続け、崩壊の末に地上の人類が滅んだとしても、世界は終末の影すら見せようとすらしない。
 これから生まれてくるあなたたちは、自分の身体が脆くなってくことすら認識できなくなって、意識もおぼろげで、この物語わたしのことも思い出せなくなる。けど、親愛なる皆様、安心してほしい。萌える草木とかコンクリートが照り返す日光を見たとき、あなたたちの脳では火花が散る。あなたたちがわたしを読んだとき、わたしはあなたの意識に刻印ファックされる。わたしが存在した証が。わたしという意識が。
 信仰も肌の色もなく、いつまでもわたしはあなたたちと共にいる。身体の崩壊現象の結末として、人類が種の保存能力を失い、地上に残された最後のひとりが息の根を止めるその時まで。
 すべての意識ビッチに祝福があらんことを。
 愛を込めて、フェFイス・Uップチャーチより。

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