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【ラフマニノフ】

5月1日の朝、私の実姉である白戸美佐子が旅立った。母に起こされ義兄からの電話を渡されて訃報を知る。

姉は私の音楽人生に大きな影響を与えた人物である。所謂ポピュラーミュージックはあまり聴かず聴くのはもっぱらクラシックだった。

生後間もない私を抱っこする姉
姉に寄り添う私


たしか姉が中学3年の時、原里中学校に吹奏楽部ができたのだが楽器がなくて演奏しないまま卒業という悔しい思いをしたのだったと記憶している。

その中学生の時に「ベルサイユのばら」が人気を博し歌劇の方でも宝塚の最重要演目となっていた。とうぜん田舎の御殿場では上演することなどなく上京して観にいっていた。しかも先生に懇願して許可を得て…だ。スジを通す人だった。

その後御殿場南高校に入学してブラバンライフを満喫していた。音楽専門の顧問とかはいなかったみたいなので部員が一丸となり自由に自主的に活動していた。

姉が高校2年か3年の時の鍾駿祭(御殿場南高等学校の文化祭の呼称)を観にいったときの吹奏楽部の演奏はストーリーテラーがいて、そのストーリーに合わせて楽曲を組み立てるという見事な構成であり演奏も素晴らしく今だに鮮烈な印象として記憶に残っている。

私が中学の時に生まれて初めてミュージカルを観たのも姉と一緒だった。それは「劇団四季」の久野綾子さんと市村正親さんという日本のミュージカル界を牽引していた2大ミュージカルスターによる『エビータ』。最初に超一流のミュージカルを観てしまったら、そりゃ好きになるわ。

頭が良かった姉は無類の読書家でもあった。中学の時に姉の本棚から『新撰組血風録』を盗み読みして、それから司馬遼太郎にハマった。姉の愛読書である遠藤周作の『沈黙』を勧められて読んだが中学生の俺にははまだ早かった。中学〜高校と司馬遼太郎を読みまくった。

私の心にサムライの心があるとしたらそれは姉の本の影響だ。

姉が高校を卒業して東京の専門大学に行った時にも東京まで見送った。寂しさよりも“頑張れ”という気持ちが強かった。

速記を学んだ姉が専門学校を卒業して御殿場に戻り普通にOL勤めをしながら地元のブラスバンド団体に入団。そのときコンダクターだったのが今の私の義兄…つまり姉の旦那さんである。

滅多に姉の夢など見ないのだが、1度だけ真っ赤なウエディングドレスを身に纏った姉の夢を見たことがある。まだ結婚どころか交際も知らなかった頃に。その夢を見た後に結婚することを知り義兄との結婚式では夢と同じ真っ赤なウエディングドレスを着た姿の姉が目の前にいた。予知夢ってあるんだね。

夢で見たのと全く同じ光景
義兄も姉も日本人の標準より大きく、豪快に笑う姿はどことなく坂本竜馬の姉・乙女を思わせた


数年前、姉が癌で入院した。その時には「たいしたことないから」と言って実際すぐに退院してきた。ずいぶん安心した。

その数年後…がんが再発して浜松のがんセンターに再び入院。母と見舞いに行こうと思ったがコロナで来ても会えないと言われ自宅から無事を祈った。まもなく退院。この時も姉は「大丈夫だよ!」と笑い飛ばしていた。

今年の4月になって母の元へ姉から「手が動かなくなってしまったから車の運転ができないのでそっち(御殿場の実家)に行けなくなっちゃった」と電話があり心配になり俺と母で隣町の姉の家にへ出掛けた。

そこで目にした姉の変わりように泣きそうになった。左腕がパンパンに浮腫んで膨れ上がり丸太のようだった。容姿も随分と老け込んでいた。

それでも病気のことは一切言わずに気丈に「大丈夫!」と泣き言ひとつ言わなかった。後で義兄に聞いたら悪性リンパ腫で余命宣告も受けていたらしいが「心配かけたくないから病気のことは家族(俺や母)には言うな」と口止めされていたらしい。

このとき姉がコッソリ私に「お母さんを頼むよ」と言った。間違いなく死期を悟っていたその言葉に私は泣きそうになり返事ができなかった。

それから週イチで3回ほど姉の嫁ぎ先に通いゴミなどを片付けてあげた。家事は義兄がやってくれていた。

最後に会ったのが亡くなる前日の4月30日の夕方。玄関の戸を開けると姉が母の姿を見て細い声で「待ってたよ」と言う。泣きそうになる気持ちを抑えて少しばかり会話して「また来るから」と言いゴミを持ち姉の家を後にした。

翌朝、姉の訃報が届く。私と母は急いで寝巻きから普段着に着替え姉の元へと向かった。

警察が検死を終えたばかりだった。

枕元にあったアップライトピアノの譜面台にはラフマニノフのスコアが置いてあった。

姉の部屋のアップライトピアノにはラフマニノフの楽譜が


それから変わり果てた姉を見て泣いた。 

冷たくなった頬を撫でながら「おねぇ…」と声をかけるのが精一杯だった。

娘に先立たれた母はガックリと腰を落とし姉の体をさすりながら泣いている。

その姿を見て私は更に泣いた。

いったん家に戻る車の中で母と絞り出すように少しばかりの会話。

「今は痛みや苦しみから解放されて大好きだった父とあっちで歴史の話でもしてるだろ」

「でもさ、ひとこと言ってほしかった。痛みは共有できないけど苦しみは分かち合えたのに…」

姉が最期に遺したメモには以下のように書かれていた。

「厭離穢土欣求浄土」

姉自身のペンによる最期の自筆メモ


“おんりえどごんぐじょうど”と読む。

意味を調べてまた泣いた。

「穢(けが)れた現世を逃れ清らかな仏の国(あの世)に生まれることを望む」という仏教の教えを説いた言葉。

最期のお別れに泣きながら話しかける母
寂しそうな母の背中…

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