「屈伸」という二文字と祖母

祖母が6月に亡くなった。
21年間「おばあちゃま」と呼んでいたし、血が繋がって結構会っていてもずっと敬語が抜けなかった間柄だったから、悲しさを根底に持ちながらもどういう感情になればいいか分からずにいた。

彼女は生きてるだけでドライアイになりそうなぱっちりした目を持ってて私より小顔で超美人で、晩年まで仲が良かったイケメンの祖父と結婚して裕福で多趣味で。世の中の幸せを絵に描いたような完璧さは眩しかった。

エネルギッシュで多趣味で、自我が強くてとにかく頑固。気高く厳格な人だったとも思う。

今思うと、おばあちゃん!という距離感というより、1人の人間として一歩引いて見ていたのかもしれないな。頑固なところとか、ちょっと似てるところもあったんだと思うし。

完璧主義の日本代表みたいな人だったから病床でもメイクをしないと私たちとは会わなかった。
人間味はあんまりなくて「おばあちゃま」という名前の神様のような気がしてた。
「鶴の一声」という慣用句を小学校で習った時、瞬間的に頭に浮かんだのは祖母だったのを今でも覚えている。私たち親族の鶴みたいな人だった。

亡くなってからそんな祖母の気品溢れる家をじっくり見てみた。「おばあちゃんち」という言葉のイメージとは遠くて、神の家におじゃましてる感覚でずっといたけど、改めて見ると一人暮らしのちょっと子綺麗な家だった。

急にトイレのドアに紙が貼ってあるのが目に入った。
雑用紙の裏に大きく2文字、「屈伸」と書いて貼ってあった。相変わらず綺麗だけど頑固さが滲むしゃきっとした文字だった。でもそれは、私に送る手紙の文字よりちょっと気が抜けている、祖母が生きるために自分にだけ向けた文字だった。

あんな神みたいな人も、屈伸しなきゃと思うんだなとじわじわきてちょっと笑った。

子綺麗な空間にアンバランスな2文字を見て、祖母の人間としての一生を唐突に考えた。
祖母は、祖母の時間で、祖母の言葉で、祖母の空間でしっかり踏みしめて生きてたんだなと急にすとんと理解した。

おばあちゃまは、神様なんかじゃなくて鶴なんかでもなくて、ちょっと気が強くて愛情深い普通の1人の人間だったんだと。

そして急に走馬灯のように思い出した。変な距離感はあったし普通の祖母 - 孫の関係じゃなかったけど、たくさん愛してくれたこと、色々教えてもらったこと。病院に駆けつけた6月からどんな感情になればいいかずっと分からなかったけど、すごくシンプルに、ありがとう、と思えばいいや、と腑に落ちた。最後くらい敬語は抜いていい気がしてる。

生前いきなりくれたワインは、当分は眺めていようかなと思います。

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