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グッとくる瞬間 - 「森逸崎 海にとっての没入」について考える -


人が嫌いだ。
関われば関わるほど面倒くさく、時に悲しさや怒りをもたらし、全てのストレスのトリガーとなる。
同時に、私は人が好きだ。
関われば関わるほど心を豊かにし、鼓舞され、どこまでも私を遠くへ連れて行ってくれる。

つまるところ私は、どう転んでも人というものに生かされる。


のっけから青春小説よろしく語り出したのには訳がある。
ある人物に「私にとっての没入とは何か」と聞かれた際、しばらく考えてから思い浮かんだのが「共有」「伝達」「共感」という類のワードであり、その対象が自分を含む「人」だったからだ。

私は私を含めて誰かとその空間を共有できたとき、心の底から没入し、心の底から「グッとくる」。

今日は、没入とは何か、そして私自身がグッとくる瞬間はどういうときに起こるのか、調べたり自分について観察する中で見えたことについて、記載していこうと思う。




そもそも「没入」とは


◆言葉の定義

「没入」の辞書的意味を調べれば「しずみ入ること。おちいること。没頭すること。」とある。

日本では平安時代にはすでに「思い沈む」「心を深く注ぐ」「ひたる」といった表現で、恋愛や人との別れの和歌でも多く利用されてきた。

広く浸透したのは意外にも明治以降らしく、西洋の思想や文学、とりわけ心理学や哲学の概念として使用されることが増えてからだという。
その当時の意味合いとしては「特定の活動や状態に深く集中すること」を表す際に使われたらしい。明治・大正期の日本文学にも多く見られる表現である。
確かに森鴎外『舞姫』の豊太郎しかり、夏目漱石『門』の宗助しかり、彼らの精神状態を「没入」と言わずしてなんと言おう。

「没」は水に沈んで見えなくなることや手段や目的を失うこと。「入」は読んで字の如く、中に入ることや関わること。
合わせて「事柄や状況に十分に関与し、取り込まれる」という意味を持つ言葉になり、現在でも「夢中になること」を表現するために使われていることが多い。

改めて「没入」という言葉は、人の精神や心理、気持ちとは切っても切り離せない言葉なのだと思う。


「没入≒イマーシブ」の流行と本質


最近ではゲームやテーマパーク、舞台、映画などエンターテインメントの世界観を表すために「イマーシブ体験」という言葉が浸透を見せつつある。

しかし同じく「没入」を意味する言葉でありながら、この場合は、より具体的にいうならば「あたかも自分がその場所にいるように感じること」また「目の前で繰り広げられていること」を指して広く一般的に使われている。

余談ではあるが、「イマーシブ体験」をアンブレラワードとして、その下に配置する言葉については、テレビや新聞、Web記事の各メディアの表現は様々である。
例えば株式会社刀が手がけ、2024年にお台場にオープンした「イマーシブ・フォート」は「巻き込まれ感」と表現されることが多かった。並べてデジタルアートの「チームラボプラネッツ」や「チームラボボーダレス」については「一体感」である。

日本においては以前から存在するディズニーランドのシンデレラ城ミステリーツアー、秋葉原のメイド喫茶、謎解き・脱出ゲームもこの類だと考えられるし、そういう意味ではイマーシブ市場は以前から存在はしていた。

施設以外のパーソナルデバイス分野においても、2024年2月にアメリカで発売されたApple Vision Proによってさらにデバイス各社の競争は激化し、まるでそこにあるかのような「実在感」を持ったコンテンツ体験はより手軽になっていくと考えられる。

Stratistics MRCによると、世界のイマーシブ技術市場は2023年に319億6,000万米ドルを占め、2030年には1,176億2,000万米ドルに達すると予測されている。つまりこの6年ほどの間に3.6倍にも拡大する見込みである。

マーケターの策略ありきだったとしても、人がわざわざこの「イマーシブ体験」に高い金額を支払って実際に行っていることも、これから需要が増えていくことも、共に紛れもない事実だ。

では一体、何がそうさせるのだろうか。

イマーシブ体験の本質について、DNEGのジョシュ・マンデル氏は、「心を動かすこと」と記載している。

「技術者がついリアルさを重視してしまうのもわかります。しかし、究極的に言えばコンテンツにリアルさは不要。大事なのは、それによって人が心を動かされるかどうかです (中略) リアリズムを追求するのも、それによって人の心が動くからであって、リアルさ自体が目的ではありません。」

 『WIRED』日本版 空間コンピューティング特集より

例え体験が2Dの映画館だろうとVR空間だろうと、人は心が動かなければ「イマーシブな状態」にはならない。
至極シンプルで当たり前なこの主張に、私は痛く共感する。

今回は「私にとっての没入」をテーマにしているため、世間一般的に広く感動を与える、多くの人の心を動かす体験の構成要素については、また別の機会で触れるとする。


「心」の存在する場所


◆自分を含む「人」

人は心が動かなければ「イマーシブな状態」にはならない、というのはその通りではあるが、では、心とはどこに存在するのか。

この議論は実に様々な学者によって展開されてきた。
例えば哲学者のアリストテレスは、「心は胸(心臓)にある」と考えた。これは人が死ぬと心臓が止まり、また感情の変動でその働きが変化することを考えるとごく自然な発想である。

一方、医学の祖とされるヒポクラテスは「心は脳にある」と考えた。感覚器と脳がつながっていることから、視覚、聴覚などの感覚や、喜怒哀楽などの感情、さらに思考や判断などの精神活動の場さえ脳が司ると彼は主張した。

ローマ時代になると、脳室に意識や精神のもととなるプネウマ(霊気)が蓄えられ神経を介して働くという「ガレヌスの学説」が出され、これは18世紀の終わり頃、ラボアジエらによって生体の熱が脂肪や炭水化物の酸化作用という化学反応であることが明らかにされるまで続いた。(新潟大学脳研究所コラム参照)

化学的に「心」の所在を明らかにすることは非常に有意義であり興味深いが、脂肪や炭水化物の酸化作用と言われても私にとっては少々味気なく感じてしまう。

ではお前が考える心の所在はどこなのかと聞かれれば、私の回答は、「自分を含む人と人の間」である。

なぜなら心が動くのは、ポジティブなシーンばかりではない。ストレスを受けている状態も立派に心は動いていると言えるからである。

例えばストレスは「自分が期待すること自分や相手」と「実際の自分や相手」とのギャップがあることで起こる。
情報処理(内部モデルという)が人ごとに異なる以上、他人が自分と全く同じ感情を持ったり行動をするということは不可能である。あくまで「似たような」感情や行動であり、それが「共感」と呼ばれるものである。

自分に対しても、行動を変えるためには情報処理から変える必要性は少なからずある。

それに気づかないまま自分や相手に過度に期待しすぎたときに、人は裏切られた気持ちになり、悲しくなる。

自分を含む人と人の間で、心はどうしても揺れ動く。


◆没入のファーストステップは自己一致から

私はXR関連の企業で広報担当をする傍ら、通信制大学の心理学部に通う学生という側面も持つのだが、心理学に携わる人やカウンセラーの卵が一番最初に習うことが「カウンセラーに求められる基本的態度」としての「自己一致」である。

これは心理学者ロジャーズの「来談者中心療法」に基づいた受容・共感・自己一致という三原則で説明されることが多いが、「自己一致」とは、カウンセラー自身が感じていることと、相手に対しての言葉や態度が一致しているということである。

カウンセラーがありのままの純粋な存在であろうとすれば、相手もありのまま自分となって心を開く。自己一致は相手と信頼関係を築く上で非常に重要なファクターとなる。

カウンセリングというシーンでなくても、このスタンスは全ての環境で応用できる。

自分がどういう人間なのかを的確に把握し、言語化し、相手とコミュニケーションを取る。

自分を取り繕わず、自分が一体何が好きなのか、どういう体験をしたら感動するのかなど、情報の処理の仕方を含めて全ては自己一致をするところから始まるし、始めた方がいいというのが私の持論である。

私はこれを「没入」のファーストステップとして捉えている。


森逸崎海という人間

実際に私がどういうときにその心を動かすについては、森逸崎海という人間の、人に対しての情報処理について触れておく必要がある。

結論、「人に慣れているが得意ではない」、というのが的確であろうと今は分析している。
自分語りに付き合わせて恐縮ではあるが、ダイジェスト的に記載していく。


◆大家族

私の人格に大きく影響しているとすればその家族構成で、私は7人兄弟の6番目に生まれ、嫌でも常に大人数に囲まれた幼少期を過ごした。

姉や兄たちが一様に皆お喋りな一方で、私は最も口下手で、自分が考えていることや感じていることを母親にさえ伝えることができずに泣いてしまうような子供だった。

私が泣いていると「なぜ泣いているのか」を周りは聞いてくる。
自分が思っていることとは違う「こうだからでしょ?」という決めつけがぶつけられる。それに対して「違う」と言えずにまた泣き、周りを困らせる。「泣き虫でへそ曲がり」が私の代名詞だった。

親戚の集まりとなると必ず端っこに座り、さっさと食事を済ませ、片付け役に回るか別の部屋にこもるか、とにかく人と喋らなくて済む状態にすることを優先させた。
みんなが集まっている部屋から聞こえる笑い声や、おしゃべりな姉たちの楽しそうな声を聞きながら、その輪に入れずに「悲しい」という感情だけを大きくさせた。


◆信頼のない人付き合い

ありがたくも観察対象はたくさんいたため、姉たちの立ち振る舞いを真似ることで、小学校高学年からは多少人付き合いを表面上でできるようになっていた。
しかし幼少期に植え付けられたその人格は、中学・高校時代も根底には居座り続け、その都度自分が周りに伝えていることと実際に考えていることとのギャップは自分を苦しめた。

そして厄介なことに、人にうまいこと伝達ができないことがわかると自分との向き合いもサボるようにもなった。大人になってからも、「森逸崎はどう思うの?」「何が好きなの?」「何を考えているの?」という問いが最も苦手な部類になった。自分が本当はどう思っているかすら当時の私はわからず、それを聞かれてもなお、さして自分と向き合う時間を設けようともしなかった。

仕事をしていく中で、傾聴さえしていれば人を不快にさせることもなく、その場を凌げることを知った。だからどんな場でも自分の話は全くせずに、人の話ばかりを聞くようになった。

誰とも繋がらず、誰も信頼せず、たくさんの人に囲まれながらその実たったひとりで過ごしている感覚。
あれだけたくさんの愛を受けながら、なんと贅沢なことだろうか。

ようやく自己一致ができるようになったのは、人の心のメカニズムを勉強し始めた29のころ辺りからである。
今でこそ「愛している」と言えるが、それまでの私は、残念ながら家族でさえ他人だった。

人に慣れてはいるが得意ではない、というのはこういう背景からだ。

だから私にとって最も奇跡だと感じる状態が、「自分が何を考えているのか把握できたとき」とそれを「人に伝達できたとき」、そして「人に汲み取ってもらえたとき」や「人のことを汲み取れたとき」なのである。
私は自分を含めて人と何かを共有できたとき、未だに大きな幸せを感じてしまう。


まあ自己分析なんぞ書き連ねればいくらでもかけてしまうが、長くなるので他のマガジン記事を参照してほしい。



最近没入した瞬間


RASラス大発火

今回このお題をもらってから約2週間、私は自分で「自分がどんな瞬間に没入したか」についてしばらく観察することにしていた。

まず観察し始めて驚いたのは、RAS(ラス)と呼ばれる現象が起こったことだった。

Reticular Activating System(網様体賦活系)の略で、自分にとって重要と判断した情報以外をシャットアウトするフィルタ機能がかかった状態。

グッとくる瞬間を観察することで、より一層グッとくる瞬間が増えた気がしたのはいい気づきだった。


この期間は、まるで日記をつけるような感覚で、起こったできごとを一覧にし、グッときたかそうではなかったか、それはなぜかについて振り返っていった。
相手にも失礼に当たるのでグッとこなかった部分は割愛するが、グッときたものだけをまとめて羅列するとこんな感じである。

一部割愛

興味深いのは、野球観戦や観劇など、世間一般的にいう「イマーシブ体験」がしやすい場所だけではなく、サシ飲みや登壇など、「自分が熱を持って話して、それが誰かに伝わった瞬間」も入ってきていることである。
これが冒頭に記載した「自分を含めた人とその空間を共有できたとき」に当てはまる。


◆気づき

これまで私はてっきり、自分は「空間エンタメ」が好きなのだと自分で思い込んでいた。
ミュージカル舞台も映画もスポーツ観戦も、コンテンツそのものではなくあの観客が一体になる空間自体が好きなのだと思っていたし、人にはそう説明していた。

しかし今回自分で意識して自分のグッときた瞬間を観察することで、より一層その本質に近づいた気がする。

例えば寄席。大人数が一斉に笑うときの「どっ」という瞬間が好きだった。(効果音が「ワハハ」ではなく本当に「どっ」なのが驚きである)
今こうして整理してみると、あれはあの空間の雰囲気だけではなく、「私は落語家の意図を汲み取れた・・・・・・・・・・・・」という嬉しさとでも言おうか、落語家と観客と自分が意思疎通し、共有できた瞬間だからなのだろうと思う。

他にも、例えば銭湯。あのレトロな空間や雑な貼り紙が好きだった。でもそれだけではなく、あの時間が、自分が何を考え、何を感じるのかということに向き合える時間だからだろうということに気づいた。自分が自分と意思疎通し、共有できた瞬間である。

逆にグッとこなかった瞬間がどういうときだったかを振り返れば、それができなかったときである。
※ここでは割愛する。

総じて
「自分が何を考えているのか把握できたとき(自分と向き合えたとき)」
「人に伝達できたとき」
「人に汲み取ってもらえたとき・人のことを汲み取れたとき」
を奇跡だと感じる私にとって、グッとくるのは紛れもなく「自分を含む人と何かを共有できた瞬間」だし「そういう空間」なのだと思う。


最後に

ここまで私は「人」と「心」の観点から広めに「没入」について語ってきたが、これを書きながら、この次に深めたい箇所がたくさん出てきたことにも気づいた。

根本の自分にとっての価値が言語化できた今、よりどんな要素を加えたらその価値が上がるのかについても観察し、体験し、記事にしてみたい。

空間の音なのか演出なのかという「空間そのものの作り」もそうだし、共有できる人が多ければいいのか権威が高ければいいのかといった「心を動かす変数」も見てみたい。
認知心理学の観点からも没入のメカニズムをもっと深く語ってみたいし、ひたすら自分が感じた日々の没入についても語りたい。




没入とは「心を動かすこと」を指し、心とは人と人との間に存在し、自己一致をした上で私は私を含めて誰かとその空間を共有できたとき、心の底から没入し、心の底から「グッとくる」。

つまるところ私は、どう転んでも人というものに生かされるようである。

生きているうちに、あと何回心を動かす体験ができるかは、私の場合、人との関わり方によって変わってくる。

人も生業も健康であるようにまずは祈りながら、これからの楽しみをまた、見つけて行こうと思う。


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