目の見えない人を知り、目の見える自分を知る

視覚に障害のある友人が数人おり私は視覚障害に関心を持っていた。これが4年前に本書を手にしたきっかけである。

著者は本書出版のあとに、「目の見えないアスリートの身体論」(潮新書)という視覚障害に関わる著書のほか、吃音に関わる「どもる体」(医学書院)、四肢切断等の障害に関わる「記憶する体」(春秋社)を出版し、障害者という特徴を通じた身体論を展開している。障害を福祉の観点でとらえるのでなく、健常者との違いを純粋に明らかにしようと試みる姿勢は一貫している。本書は、これら一連の身体論のスタートとなる研究である。

本書で扱っている、視覚障害者と晴眼者の違いは、視覚という身体機能の違いにとどまらない。空間の捉え方、五感、体の使い方、言葉を通じての物の見方に及ぶ。本書を読んだ晴眼者は、自分と障害者の違いを理解するだけでなく、障害者との対比から、晴眼者である自分自身の空間の捉え方、五感、体の使い方、物の見方を知ることになる。少なくとも私(晴眼者)は自分が気付いていない自分自身の特徴を客観的に知ることができた。

例えば、視覚障害者は情報を頭の中で組み立てて理解する。その際、頭の中に出来上がった像は立体的なものである。そもそも自分の目の位置、すなわち視点から見ているわけではないので死角を生じないし、表も裏の区別もない。晴眼者には直接は見えないはずの、物の向こう側や裏側も同時に捉えている。「透けて見える」といった感覚なのだろうか。ところが晴眼者は、目で見ているゆえに、い言い換えればある視点から見るがゆえに死角ができる。さらに、網膜に映し出された二次元の映像を認識するせいか、物事を平面的に捉えがちになっているようだ。

私には視覚に障害のある友人たちとの付き合いの中で、視覚という面では不自由なはずの彼らが、思いのほか物事を自由に捉えているな、と感じることがあったので、本書を読んで「やっぱり」と納得できた。翻って自分を振り返ると、一面的な捉え方からなかなか離れられないことを認めざるを得ない。

本書は、まさに健常者自身が自分を理解する書でもあると言えるだろう。


本書の研究手法も独特である。著者は5人の視覚障害者へのインタビューをもとに論を展開している。

一口に視覚障害者と言っても、全盲か弱視か、先天か中途失明か、等々、障害の程度や症状の発症時期は千差万別である。この5人がすべての視覚障害者を代表しているとは必ずしも言えない。したがって本書を読み始めてすぐに、あまりにサンプルが少なすぎ論拠が不確かなのではないかと疑念を持った。

では、数百、数千の視覚障害者にアンケートを採って研究すれば正確か、と言えばそうでもない。アンケートで障害者全般の傾向は分かるかもしれないが、仮説を裏付けるための恣意的な質問になることも多いので、新たな気付きはあまり期待できない。まして、そこから「健常者が自分を知る」といったところまで昇華することはないだろう。

もちろんインタビューの場合も、仮説を裏付けるための話を対象者から引き出し「いいとこ取り」して論を構成することもできよう。しかし本書に紹介される事象のレベルは大小さまざまである。回答者との雑談の中から出てきたような卑近な話も含まれ、「始めに仮説ありき」ではないように思える。障害当事者にじっくりインタビューし、そこで著者が気付いたことをもとにして発想を広げて論を展開していると信じたい。そして、「この言葉からこんなことに思いが至るのか」と驚くほどの著者の感性の豊かさと慧眼を感じる。読み進めるほどに読者が著者と一緒に「なるほど」とうなずくことができる。


著者自身が「普遍と個別の中間」と述べているように、研究者の研究成果でありながら、読者が自分を見つめなおす読み物として魅力もある。読みやすい文体に引き込まれ、私は本書を何度も読み返した。読めば読むほど、自分を知り、障害者を触媒として、自分の捉え方が豊かになってくるように思える。

今後も繰り返し読むことだろう。

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