虐待。意味をなさない保護。

背景
前回に続いて、親の話をしようと思います。僕は母子家庭で育ちました。3歳の頃に両親が離婚し、母親に引き取られて19歳の今まで育ててもらっています。父親の顔は知りません。
しかし、兄弟もいないので育ててくれている母親と二人で暮らしているため、なにかトラブルが起こるとただじゃ済まない。

躾か虐待か
母は人一倍正義感が強くて、自分の信念のようなものを固く持っています。「嘘はつくな」「誠実であれ」「とにかく正直になれ」など。とても大切なことです。僕はその言いつけを小さい頃からことごとく破ってきました。

無理難題か、ただのクズか
なぜこうした母の言いつけを守らず、嘘ばかりついてしまっていたか。それは、単純に僕が腐った人間であるからというのもももちろん理由の一つとしてあると思います。でも、それだけではない。教育熱心で何かと制限を多く課してくる母なので、僕は小さい頃から、思うように欲求を満たすことができていませんでした。まず今まで家の鍵を渡されたことがない。大学生になっても家の鍵をもってません(これには理由があるのですべて母が悪いわけではありません)。お小遣いは19歳まででほとんどもらったことはなく、数百円もらっても「罰金」といって、何かで母を怒らせてしまうとどんどんお金が引かれていき、それがマイナスになって親への借金という形にかわり、誓約書を書かされたりしました。中学生のときからです。いつの間にか教育費や食費などを要求するようになり、紙には架空の借金額がどんどん増えていきました。僕はこれは将来本当に払わなければならないのかわからず、怒られてしまうたびに不安が募っていました。
少し話が逸れましたが、お小遣いはなし、お菓子などももちろん外で買うなんてことはなく、家にあるお菓子は週末に行ったイベントでもらったものが少しあったりなかったり。友達と遊ぶときはいつも劣等感を持っていました。おもちゃ類は誕生日やクリスマスに本当に欲しい物はいくつか買ってくれていました。ゲームは一切なかったです。これは後々良かったなと思います。
それでも普段は家で遊ぶものがあまりないので、ガラクタをいじって空想遊びをするのが大好きでした。これは小学生の頃の話です。
また、遊ぶときの門限も周りと比べると異常に短く、小中でだいたい3時とか4時まででした。みんなが遊んでいる中一人だけ帰ることが多く、行っていい場所も結構限られていました。
そんな感じなのでよく言いつけを破ってちっと遠くへ行ってしまったり(遠くても学区内くらいでした)、時間ギリギリで門限に遅れてしまったりがしょっちゅうでした。
母の教育熱心なエピソードはたくさんあります。よく読書感想文や日記を書く習慣をつけられ、(毎週末何かしらイベントやワークショップに参加していたため)様々なコンクールに応募したりしていました。下書きを書いたら母に見せ、直しをもらって書き直してまた見せる。これを3.4回繰り返してやっと完成です。すぐに認められると嬉しいけども、なかなかOKをもらえないと僕としてはストレスでしかありませんでした。でも今思えば、母の添削は確実にいい取り組みではあったと思います。しかし、入賞や優秀賞などを取ると後で必ず自分の手柄にするのが母です。もちろん最初は僕も嬉しいけれど、あまりにも母がほぼ自分の手柄だと言ってくるので途中から全く嬉しくなくなった記憶があります。

だらだら書いてしまいましたが、うまく伝わるかわかりませんがとにかく異常なほど教育熱心な母が小さな僕に課していた制限はかなり厳しかったことがわかってもらえたら嬉しいです。

ここからが本題です。虐待についての話です。
先程門限の話をしたと思いますが、門限に遅れると家に入れてもらえなかったり、言い訳をしたりしてヒートアップさせてしまうと手が出るようになりました。小学校低学年くらいからです。ひどいときは風呂場で冷水をかけられたり、普通にグーパンは当たり前、棒が視界に入ればそれを振り回して何度も頭にたんこぶができて泣いていました。翌日学校でも気になって頭を触ってるようなことが多かったです。たんこぶだけではなく頭から血も出たりしていました。ボールペンが飛んできて顔面にあたったこともありました。背中を殴られて息が詰まることもよくありました。あの感覚は忘れられません。
脅しで包丁を出されることもよくありました。
今更ですが、たぶん一番異常なうちの家庭事情は親と隣の布団で寝ているということです。自分の部屋がなく、寝室は二人で使っています。大学生になってもです。
小さい頃は、怒られた夜は布団で寝るのが怖くて仕方ありませんでした。夜中に叩き起こされて日中のことについてキレられ、真っ暗闇の中蹴ったりされるからです。
布団の中で泣いていたのを思い出すと今でも涙が出てきます。
超がつくほどの未熟児で産まれたこともあり、ガリガリで有名だった僕だったので、骨折こそなかったものの親にボコられて相当体に負担があったと思います。そして精神的にはもっと。

まだまだ書ききれませんがこんな感じの暴力は今でも続いています。大学生になってもです。僕が体が大きく(親より少し)なったのと、力がついたので圧倒的にボコされることはありませんが、中高大では髪の毛を引っ張ったり腕や手に噛みつかれたり、殴ってきたりと、力で敵わないなりに相当な暴力を振るわれます。僕もやり返せばいいんですが、親を突き飛ばしたりすると「親に手を出すな!」といってヒステリックになりさらに暴れるか狂ったように泣き叫ぶかなので、やり返せません。唯一親に明確な攻撃をしたのは高1の冬、ボコボコにされた上に食べかけの納豆を家中にぶちまけられて、笑いながら僕のあらゆる持ち物に納豆をなすりつけ始めたので、(このときは完全に精神状態が異常だったんだと思います)、バスタオルで母のことを殴りまくって止めようとしました。その時は、首より上をバスタオルで殴ると絡まって窒息しかねないので、背中を一生懸命打っていたのを覚えています。
高校や中学では殴られたあとはほとんど残らず、噛まれたあとがよく腕に残っていました。友達のなかでは見たことがある人もいるかもしれません。

先程の高1の冬、納豆事件直後に、我慢できず祖母の家(徒歩3時間以上)に歩いて行き、1年半くらい祖母の家でお世話になりました。一旦家に帰ったのが高2の夏で、親がもともと悪かった足の手術のために入院したためその手伝いなどで一度戻り、家が空くためまた祖母の家にお世話になり、半年後母が退院してしばらくは一緒に暮らしていました。その後は数ヶ月ごとに、親と喧嘩(虐待や口論など、ほとんど最後はボコされる)をして家と祖母の家を行き来しました。実は祖母の家もまたなかなかひどい環境で、祖母は優しくて柔和ですが伯母(母の姉)が問題があり、あちらでも大変な思いをしました。ある日母のお見舞いに行って(伯母は僕が母の見舞いに行くのが嫌だったらしい)帰宅後喧嘩になり、祖母のスネをかじって住み着くニートで衛生管理が杜撰で冷蔵庫の中身が腐ったものばかりという伯母の支配に嫌気が差し、真夜中に祖母宅を飛び出して警察に連れ戻されるということもありました。その時は事情を話すと警察も同情してくれました。笑
高2の冬くらいに我慢できず児童相談所に相談に行きましたが、年齢が18に限りなく近いことから児童養護施設には入れる見込みがない(空きもない)、一時保護となると僕の唯一の天国であった高校に通えないことなど、様々な障害に阻まれ結局児童相談所にはなにもできないという結果になりました。家に帰ったら地獄だったので、高校にいれば友達と本当に楽しい時間を過ごしていたので、心の支えでもあり、安らぎの場所でした。
そして家と祖母の家どちらでもない居場所を求め、お金を持ち始めた僕はホテル暮らしを始めることになります。

この先の話はまたいつか書きます。

一つ、僕と今まで関わった人たちに知ってほしいことがあります。
今まで書いてきたとおりいろいろな制限や経験があったため、精神的にも荒れていたり、少なからず体や脳に負担が常にあったため、歪んだ考え方や今思うと考えられないような行動をよくしてしまっていて、周りにも迷惑をかけたと思います。特に中学では今の自分からすると引いてしまうような言動が結構あって、申し訳ないなと思います…。ごめんね。
近所にもたくさん迷惑をかけてきました。
小さい頃から大声で泣き叫んだり怒鳴り合ったりしてました。恥ずかしいけれど、高校生の時もボコされて痛くて泣いてたりもしました。本当に周りに迷惑ばかりかけてしまって、自分が傷つくことに加えて周りのことも考えるとさらに辛い毎日でした。

まだ終わりません。いつか開放される日を夢見ています。

ここまで拙い文章を読んでくれてありがとうございます。現状の参考として、こんな家庭もあるんだなと言うことを知ってもらえればと思います。

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