ダークブルー
飛び交う外国語、女子大生らしき子たちの楽しそうな声、街路灯のスピーカーから流れるボサノバ。何年ぶりだろうか。懐かしくもどこか寂しい。いまの私にはこの街はまぶしすぎる。街並みも、まえに訪れたときとは少し変わっていた。散歩通りに連なる店の顔ぶれも入れ替わっている。
あの人が働いていた店はまだあるだろうか。ぼんやりと思い浮かんだ考えを振り払った。今日は思い出にひたりに来たわけじゃない。自分に言い聞かせた。仕事の打ち合わせがあるのだから集中しなくては。
待ち合わせていた同僚と合流すると、番組で特集するカフェへの交渉から撮影する日程の調整など、昔のことを考える余裕もなくなってほっとした。カフェに向かう途中で、あの人が働いていたお店の前を通った時は胸が締まりそうになったけれど。ちらりとショーウィンドの奥を見ても、見慣れた姿はなくて安心しつつも、がっかりしている感情があった。同僚に「どうかした?」と尋ねられてはじめてモヤモヤした思いが顔にでてしまっていたと気づく。
今日の仕事が片付いて解散となり、珈琲でも、と仕事仲間に誘われたのを断った。
私はひとり広尾の街を眺めた。もうオフの時間だと思うと一気にかつてのことが思い出された。
目的もなく商店街を歩いていたはずなのに、足は自然にあの店が建つ通りを進んでいた。会えるかなんてわからない。いや会ってどうしようというのだ。そう思うのに。
はたと足を止めた。数百メートル先。見慣れた顔。
あの人だった。
私が昔贈ったダークブルーのマフラーを、まだ巻いていた。向こうもこちらに気付いたようで、足を止めた。視線が絡まる。
周りの足音も、車の音も、話し声も、街中の音がすべて消えた。聞こえるのは私の鼓動だけ。
あの時と変わらない眼差し。あまのじゃくな私を許してくれるかしら。もう一度、優しいあなたに甘えていいのなら、今度こそ素直になって、伝えなきゃ。
彼に向かって走り出した。
完
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