【劇団ノーミーツ】むこうのくにへ行った話

これは、劇団ノーミーツ第二回長編公演の感想である。

正直に言うと、ストーリーは先が読めてしまう展開ではあったし、ところどころ「ん?」となってしまう設定もあった(これは私が舞台形式の演劇に慣れていないのもあると思われる)。

ZOOMの特性上、イヤホンをつけなければハウリングが起こるし、進行がスムーズか?と言われると断言は出来なかったように思う。
物語としても、技術としても、まだまだ発展途上の形式であると感じた。

ただ、キャラクターたちの喜怒哀楽には、ただの画面の向こうの存在ではないと思わせる人間臭さがあったし、なによりヘルベチカ内で、ヘルベチカユーザーとして鑑賞できる仕組みにはとても感動した。
リモートだからこそできる表現方法があることにも驚いた。
偉そうな言い方で申し訳ないが、総じて、今だからこそ見る価値のあるものだ、今しか出来ないものだ、と思った。
それは、舞台特有の、”生“の感覚だ。
久しぶりに味わえて、胸が高鳴った。

そしてそれ以上に、上演することの「意義」が”むこうのくに“にはあった。
外に出られない今だからこそリアリティを持って訴えかけてくる、ヘルベチカという場所。
もしこの作品がコロナ以前に作られていたら、ヘルベチカはもっと特異な場所として存在しただろう。
しかし、誰も想像しなかった現実が続く今、ヘルベチカは必要だ。
それは人間が他人との交流を必要とする心を持つ限り、永遠に誰かに求められる可能性がある場所だ。
他人と気軽に会えない今だからこそ、ヘルベチカは「在る」。

と、同時に、ヘルベチカはSNSとしての闇も抱えている。
画面の向こうにいるのが人間だと、実感を伴って理解できないがために、平気で人を傷つける人。そして傷つけられる人。
どちらもオンライン交流とは切っても切り離せないものである。
これは人間が人間である以上必ず現れる存在であり、もしこれを根絶しようとするならそれこそ全員が”AI“のような絶対的な心を持つしかないだろう。
(一応断るが、この言葉にはインターネット上の誹謗中傷を肯定する意図はない)

昨日見ていたとある番組のなかで、不要不急を他人が判断するのは無礼な行為だという話が出ていた。
誰かにとっては不要でも、あなたにとっては必要なものはきっとあるし、あなたにとっては不要でも、誰かにとっては必要なものもきっとある。

私にとって必要なもの。
それは、エンターテイメントに他ならない。

エンタメの世界は、コロナ禍の世界において一番最初に煽りを受け、そして最後の最後まで受け続けるだろう。
「エンタメは生きるために必要かつ緊急ではない」という世間の判断に、私の心はざっくりと切り裂かれたようだった。
私にとってエンターテイメントは命に等しいものなのに、それを他人に否定されたことに傷ついたし、憤った。

そして、自信を失った。
エンタメに少しでも携わりたいと思い今の仕事をしているが、緊急事態宣言中、私は1日も働くことはなかった。
この世界がどれほど脆くて、どれほど儚いのか。
知りたくもなかったことを知った私は、私が信じていたものを、信じられなくなってしまった。

そんな中だからこそ、手探りでもなんとかエンタメを届けようとする劇団ノーミーツは心を打つのだろう。
エンタメを諦めない。
居場所を奪われたとしても、エンタメで生きていくことを諦めない。

居場所を追われてもその世界で生き抜こうと願うヘルベチカの住人が劇団ノーミーツに命を与えられたのは、運命だったのだろう。

会えなくても、エンタメは私たちを繋げてくれる。
諦めてはいけないのだ。
思いどおりにならないことばかりで悔しいけれど、私はやはりエンタメと共に生きたいと思ったし、それを実行している劇団ノーミーツのキャスト・スタッフは、本当に格好良いと感じる。

そもそもエンタメは、誰かに力を与えるものなのだ。
今、最も必要とされる存在なのではないか?
今だからこそ、エンタメはなくてはならないのではないか?

劇団ノーミーツは、私にそれを思い出させてくれた。
だからこれからも、私は私が愛したエンターテイメントを信じて生きていくことにする。
誰にも譲れない、私の大切なものを。

ありがとう、劇団ノーミーツ。

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