【きわどいはなし】刹那的ダイアローグ
「これ、どっちだと思いますか」
「何がですか」
一限は英語。二限が水泳。さっきまで水の中で揺らめいていた身体が今は心地よく重たい三限目、古典。
こ、き、く、くる、くれ、こよ。
なら、なり、に、なり、なる、なれ、なれ。
お爺ちゃん先生の呪文と時を刻むチョークの調べ。
このまま聴いてたら眠っちゃう。
何かないかと鞄の中を弄ると硬くて冷たい感触を探り当てた。
自習室で勉強する時これで時間を測ってたら周りの人たちがビビるんじゃないかしら。そう思って買った最近のお気に入り。
掌サイズの砂時計。
掌に立てて、思いっきり、ひっくり返す!!
シン……と教室の空気が止まって、窓の外から男の子の声がする。
「ねぇ、これ、どっちだと思いますか」
窓の外に目を合わせて答える。
「何がですか」
私と同じ学校の制服を着た、私と同じくらいの歳の、真っ逆さまに落ちていく途中でそのまま時が止まってしまったと言わんばかりに浮いている男の子が真面目な顔で私に話しかける。
「今って僕、生きてますかね。それとももう、死んでますかね」
「まだ浮いているんだから生きているんじゃないですか」
「でも、もう飛んでしまったから何することなく死ぬことが決まっているんです」
「そんなにうまくいきますか」
「下見も、落ち方の研究にも、余念はありません」
先生は助動詞の活用の口のまま固まっているし、私の手の中の砂時計は氷の彫刻のようにあり得ない形で時を止めていた。
宙吊りみたいに彼が青空を背負って飛んでいる。
「生か、死か」
「際どいですね」
「際どいですよね」
きわどいはなし
こうして話せているんだからやっぱり生きているんじゃないですか、と私が言うと彼は得意気に眉を上げてこう返す。
「でも、僕と話している君の世界は普通ではないじゃないですか」
ということは多分、彼は死んでいると言ってほしいのだ。そう思って違うことを言ってあげる。
「じゃあこれは私の夢で、あなたはもう死んでいるんじゃないですか」
そうするとムカつくことに彼はこう言うのだ。
「ところがどっこい、僕の意識もちゃんとここにあるんだ」
彼の、上に向かってはためく制服は1ミリたりとも動くことなく静止していて、写真のようなその佇まいは可笑しかった。
私はどうだろう。右にステップ。左にステップ。自由に動ける。先生も怒らない。石像みたいに止まってるから。
クラスメイトの脇を擦り抜け教室を蛇のように歩く。
「気をつけてよ。手に持ったままウロウロしないで」
「砂時計が何か」
「君がその、〝時〟と〝無〟の境を乱暴にかき混ぜたから僕は今こんなことになってるんじゃないか」
乱暴と詰られるほど乱暴に扱ったつもりはない。ただ勢いに任せて眠気も飛んでいけと思いながら気分良くひっくり返しただけなのだ。
全く失礼な物言いだ。
じっくりと教室の検分を済ませると窓へと向かう。昇っていく太陽の気の狂いそうな熱がガラス越しにじっとりと頬に触れる。
「砂時計を、元に戻されるのが怖いですか」
男の子は瞬きをするように笑うと言った。
「ちっとも。だって僕はもうとっくに死んだし、まだこうして生きているからね」
私はムッと口を尖らせて、怪訝な顔をわざと作って彼に言う。
「そんな陶酔的な話じゃないの。今のあなたは限りなく死に近い瀕死よ」
「そんな村上龍みたいな」
ガラスがもどかしかった。触れそうで混ざり合わない窓の外がもどかしかった。この窓ガラスを叩き割ってやりたいと思って、思ったけど普通に開けた。
キンキンに冷えたこの部屋に夏の体温が流れ込む。
「死にたかったから飛び降りたの?」
「死にたい、というのとは違うんだよ」
「本当は死にたくないの?」
「死にたいっていうより、投げ出したかったんだ。全て放り投げて、消えてしまいたかったんだと思うよ」
「それは今のあなたが思っているの?」
「少なくとも、ダイブする前の僕はただ目の前が苦しくて、頭が痛くて、太陽が灼けるように熱くて、息を吸うことも吐くこともできなくなったから死ぬことにしたんだ」
うっすらと微笑みを浮かべる彼は、まだ若く、線が細く、表情だけが一人勝手に大人になったみたいだった。
「今になるとね。昨日までの、さっきまでの自分がかえってよく見えるようになるんだ。客観視っていうのかな。」
渇いたあなたの声だけが波になって私の世界を揺らす。
「僕と、僕の間にたしかになにか境界線があるんだよ」
「じゃあ、あなたはここまで生きていたあなたとはやっぱり何か違うんですよ。あなたはもう生きてない」
窓の外に手を伸ばす。
「私がひっぱりあげようか?」
彼が静かに首を振る。
「君は物理を勉強した方がいい。僕が君の手を握り返しても〝僕が死ぬ〟か〝僕と君が死ぬ〟かしか変わらないんだよ」
「そんなことない。私、力も人望もある方なの。でも、あなたは選んで一人で逝かれるんですね」
「それが僕の生き方です」
「自分の生き方を自分で決められる人が、もう死んでいるなんて、そんなわけないと私思うの」
「そう言われると僕は、最悪だったこの人生が少しだけ愛おしく思えます」
遠くで蝉の声が聴こえた気がした。
「もっと早くあなたを見つけられたらよかった」
「なぁに、もう全て済んだことですよ」
「それでは、またいつか」
「それでは、お先に失礼」
ふっと掌の砂時計を返す。
天は無に、地には時を。
境界線はもう揺らがない。
鈍い音がする。
夢か、現か、私だけが赤黒く濡れた彼の最期の柔らかな笑顔を知っている。
━━『きわどいはなし』
急にバイブスが上がって書き始めたら間に合っちゃいました……。
青ブラ文学部にいつか書く側でも参加してみたいと思っておりました故、関われて嬉しかったです。
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