自分で自由に人生を創造していく、ということ。
わたしが会社員を辞める決断をしたのは、つまるところ、生きている実感が消えて無くなってしまいそうだったからなのだと思う。
ものすごく恵まれた会社員人生だった。
環境にも、人にも、すべてにおいて。
その会社にご縁をいただいたおかげで、「乗り物」と「英語」という好きなものに触れる仕事に携わることができたし、ローン審査がすんなり通るような由緒ある会社だったから、覚悟さえ決めれば、欲しいものもなんでも手に入った。
だけど、10代、20代のころに思い描いていたものがひと通り手に入ってしまったとき、とりわけ、家を建ててしまったあとに、
「何もかも手にしてしまって、この先どうするの?」
「あとは、子どもたちを育て上げて、ローンを返済し続けるだけ?」
という思いが、ふっとわいてきた。
今思えば、インナーセルフ(自分の魂)からの問いかけだったのかもしれない。
「あなたは、どう在りたいの?」
「どう生きたいの?」って。
興味があるものに触れることができる職場であったことは確かだ。
だけど、自分が望む生き方ができているかと問われると、そうではなかった。
いったん気がついてしまうと、あれほど楽しかった職場環境が、どんどん辛いと感じるほうにシフトしていった。
周りに原因があったのではない。
わたしの行動を促すために、だれもコントロールできない何かによって外堀が固められていく、そんな感じ。
それにともなって、生きているという感覚も次第に薄れていった。体はちゃんと機能していて、もちろん生物としては生きている。だけど、心身分離というのか、生きているはずなのに、そうじゃないような感覚。
違う基点から見ると、あの頃、わたしは、一度ほんとうに消えかけていたんじゃないかなと思う。
いったんゼロになって独立した今は、あの頃と違って、というか、たぶんこの人生でようやく初めて、「生きているんだ!」と実感しながら、一瞬一瞬を生きている。
現実世界では、お給料をいただく生活ではなくなったから、計画を立てたり、見通しを立てたりすることが難しくなった面もある。
これまで難なく通過していたローンも、きっとこれからは、どれもこれもとは行かなくなるだろう。
だけど、その分、目の前にある選択肢に、いつも真剣になれる。動かすお金の大小にかかわらず、常に、自分に正直に、誠実に選ぼうとなる。自分の魂とともに。
だからこそ、生きていることを、自分の存在を、実感するのだと思う。
わたしはまだまだ歩き始めで、この生き方での経験値は少ない。
だけど、そうやって誠実に選んだ物事だと、案外すんなりと契約まで進んだり、マイナス覚悟だったのに投資した分が返ってきたってことがいくつかあって、
そういう動きを見ていると、エネルギーの循環ってほんとうに興味深いなと思うし、ますます生きることがおもしろくなる。
わたしは、今回の育ちや、そのずっと前の経験の積み重ねで、「不自由さ」への囚われが、人一倍大きいようだ。
だから、「自由とは、あらかじめ決められた枠の範囲内で、ほどほどに楽しむもの」だと思っていたし、仕事も学校も、その先のために、我慢して行くものだと思っていた。
だけど今、あらゆる枠をはずして、自由に、自分で人生を創造していくことが、自分にも許されていたんだって、気がつくことができた。
この先の道が見通せない怖さもあるけれど、やっと気がつくことができたから、これからの自分の在り方で、「ほら、創造できるでしょ?」って、今までの自分自身にみせていきたいなと思っている。