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「誤認保護」「指導」「振り返り」児相職員が全く役に立たない存在理由と原因

ここ最近は、児童福祉法やら懲戒権やら基本的人権やら中卒の僕には、頭痛がする内容ばかりで具合が悪くなっていた。それでも長期間幽閉されている子供たちを思う事が常であり、頭の中は寝ている時ですら、戦闘モードである。

ただ、最終的に児相の指導を受け入れる姿勢が大事という事だが、ここで改めて疑問に思った。いや、児相職員には恐らく面談の時に言っているが、「指導」という言葉が凄い上からである。
誤認保護にも色々あると思う。
僕のように命を脅かす可能性がある行動を起こした子供を止めるため、懲戒権を行使し、子供が帰りたいと一貫して言っている場合もあれば、2.3番目の子らは、いわゆる「レッテル」と「淀んだ大人の嫌がらせ」で連れて行かれているような場合もある。特になにもないが、連れて行かれる事もある。保育園で怪我をしたのに虐待を疑われて保育園が責任逃れのために通報され、連れて行かれることもある。

そこで児相は必ず「指導」を受け入れるか否かを問う。
ここが、僕の中での難所であった。
「指導」をするものが最も短絡的に言うと「バカ」であった場合、なにを指導されるのだろうか。夜中、飛び出そうとした小学生を殴って止めた。至らぬと言えば、至らない。僕としては、なぜそう育ってしまったのか。これが問題だ。しかし児相職員は抱きつき、ホールドで止めると言った。後で知った事だが、その児相内で娘に抱きついたことを「性的虐待」とされ、保護されている子がいるそうだ。つまり、児相職員は間違った「指導」を僕に伝えた事となる。僕も子供に怒っている時に、幼児期ならともかく、「年頃の娘に抱きつく」という方法は、恐らく最終手段であることは言うまでもない。

つまり指導を行うものは、少なくても親より「知識」が必要であり、多数ある保護事例と、成功例を論理的に解釈し、実験的に色々試す必要と、「なぜ、子供が夜中に飛び出してしまうのか」を理解しないとならない。しかし、児相は「暴力を行使した」この一点のみが「悪い」とだけ話をする。そして裁判所より派遣された調査官からの子供へ聞き取り調査に「児童自身も省みる事がないため、同じことが繰り返される」と判断された。児相が想像だにしていなかった「暴力を行使した原因」を児童側の問題もあるとしたのだ。当たり前である。前妻の浮気とネグレクトが原因で、精神状態が荒れ、更に離婚後もこっそり前妻が子供たちに会いに来ては、こちらに対しての愚痴を吐きまくっている状態であった。そりゃ不安定にもなる。

これは勝手気ままに都合よく語る世論ではなく、司法に立場を置く者も一度児童と面談をしただけでも、わかる原因を児童相談所は、わからぬのだ。
これを世間では「バカ」と呼ぶ。

「指導」とは、広辞苑によると、
1 教えみちびくこと。特に現代では、勉強、研究の方法などに関する助言を与えてみちびくこと。ガイダンス。
2 団体などの組織、目的、方向などを決定し、成員を導くこと。
3 具体的にさし示して案内すること。

これが、「指導」の共通認識である。

間違った事を教え、正解もないので助言もなく、具体性もないような事をつらつらと並べる。膨大にあるデータから正解に近い提案をするわけでもない。これは国の責任である。「バカ」に指導を受ける事を屈辱としない人間のみが受け入れられるのであって、多くの誤認保護による親御さんは受け入れがたいから上手くいかないのだ。

「指導」➡「お手伝い」
指導という文言が、バカには荷が重すぎるのだ。
ものを考えない、理解しようともしない、子供という世界的にも重要な人間を扱うにも、知識を得ようともしない集団に、「指導」という言葉を国が与えるから、バカが勘違いする。
バカを統率する国が、バカに勘違いをさせ、余計にこねくり回してしまうから家庭崩壊が相次ぎ問題なのだ。
「指導」を「お手伝い」という言葉に変えれば、バカが権力を振り回せるような状態をつくる抑止力になると思う。また親御さんも、「指導させろ」よりは、「お手伝いさせろ」のほうが、受け入れやすい筈だ。「指導」を理想とする国の期待はわかるが、それが理解できるのは、厚労省にいる一部の頭の良い人たちだけである。地方公務員が誰もついてこれていない現実が問題だ。

「誤認保護」って一括りにするのは、違和感ありませんか。誘拐?
慣例的に広辞苑では
「誤認」
まちがえてある物を他の物として認めること。
誤って認めること。見まちがうこと。

「誘拐」
巧みに人をだまして誘い出すこと。かどわかすこと。

である。例えば先ほどの「保育園で怪我をした」に関しては、幼児であるという事で真実が解りづらい事、トラウマ的なものがないか調べる事、外内傷の診断が必要があった。結果なにもなかった。

誤認保護。判断の時間が長期にわたる事の是非はあるが、おおよそ許されるレベルの誤認である。

しかし、「児童に執拗に暴力があったか長時間聞かれ、ないのにあると言ってしまった」「親子共々、虐待はなく、目立った外傷もないが、親に子が、暴力を振るわれていると嘘をついて保護をした」これは「巧みに人を騙して誘い出している」わけだから、立派な誘拐である。そして誘拐は周知のとおり「犯罪」である。

これも児相被害にあった親御さんの納得がいかないことである。合法?なのかは分からないが、やり方を間違えれば、一般的に「誘拐」となるこの方法で、分かり合えるわけがないであろう。
しかしこの「誘拐」を受けてなお指導を受けろと強制されるのだ。
一般常識的に自分の子供を「誘拐」した者と落ち着いて話などできるだろうか。できるわけない。
一人殴ったら、他の家族の者も同様に被害者となる。果たして納得いくであろうか。
会社で総務部の生意気な社員を殴ったら、傷害罪。刑罰と民事訴訟を受ける。ここまではわかるが、被害者が総務部全員となる。では、納得がいかないであろう。世の中の常識が、児相では非常識に対応されるから問題なのだ。作為的に子を騙したり、親を騙したりしてまで、忙しいと被害者面している児相が、誘拐を繰り返すわけは、金が絡んでいるのと、どんな人でも想像つくと思うが、子の未来はボロボロである。

どこまで行っても、当の本人の意思
不思議であるのだが、当の本人が「大丈夫」と意思表示したり、「家に帰ることが意思」と明確に表明しているにも関わらず、「いやダメだ」と他人が判断することが、不思議である。
児相の職員に聞いてみたい。「あなた、おねしょする可能性が0ではないから、オムツ履きなさい」と言われて、「そうですね。0ではないので、今後オムツを履きます」と言えるのだろうか。仮に履いて屈辱的ではないのだろうか。子供たちはこういった気持ちであろう。
2歳、3歳辺りならいざ知らず、小学生にもなれば、自分の意思を伝えられる。この意思に反して保護を続ける児相は、いったい何から保護しているのだろう。

・虐待がなかったと子供が、司法の場でも、録画された面会でも証言した
・醜い大人たちの因縁で、巻き込まれたと子供が証言した。
・家に帰ることが意思であり、希望だと調査官に伝えている。
・児相自体に嫌気が差しており、児相職員に精神的虐待を受けていると証言している

これらがそろった上で、どんな「指導」を受ける必要があるのだろうか。
児相職員が虐待しているけど、虐待はいけないと「指導」する。
虐待はなかったと言っているのに、虐待はダメだと「指導」する。

こちらからしたら、人間として通常持っているであろう、恥じらいや、道徳観は、職員にはないのだろうか。そしてなにより「罪悪感」はないのだろうか。疑問である。

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