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客我で主我を殺すな、I を大切に。

こんにちは、くにたけです。
今回は、昨日学校の講義で学んだことを自分の中で咀嚼して「現代だとこういうことが大切なんだろうなあ」と思ったことがあったので、そのことについてお話させていただきます。テーマは、
「客我で主我を殺すな、I を大切に。」
です。それではいきましょう。


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では本題です。
今回お話させていただくことは、前期近代社会の「わたし」が主題となって提唱された社会学者G.H.ミードさんの「一般化された他者」を軸にしております。ですので、まずはこの「一般化された他者」や前期近代社会における「わたし」とは、というところから理解しなくてはなりませんので、まずはそこの説明から行きます。

「わたし」とは

みなさんはデカルトという方をご存知でしょうか?おそらく名前は聞いたことがあると思います。この方は、近代哲学の基礎を確立させたものすごい人物で、彼の残した数々の言葉は今でもなお受け継がれています。有名な言葉のひとつに、
「我思う、ゆえに我あり」
という言葉があります。
この言葉は、「わたし」とは社会において「反省」というものを通じることによって自分の中に作られる、ということらしいです。
この言葉が、「わたし」という存在が一体どのようなもので、どういう風にして自分を認識しているのかを考える最初のスタート地点となります。

デカルトはこの言葉を通して前期近代社会の「わたし」のあり方を明らかにしたものの、ではどのようなプロセスを経て、そしてどのような世界のもとで、合理的な反省を通じて「わたし」が作られるのかは考えませんでした。そこで、もっと深掘りした『前期近代社会の「わたし」の形成モデル』を提唱した人物が授業の中では二人紹介されまして、その人物が「C.H.クーリー」と「G.H.ミード」です。
彼らが提唱したモデルをざっくり見ていきましょう。

C.H.クーリー
・人間は一人で生きていくことはできない。「鏡(他者)」がいてはじめて自分を認識することができる。その時、鏡に映る自分を見ている他者の視点と、その他者に見られている自己の像を内面化する。
・鏡としての他者は単なる鏡とは異なり、そこには「評価」や独自の「認識」が含まれている。人間の自己は、先に述べた他者からの「評価」「認識」、そしてそれらに対する「自己感情」、この三つの側面から成り立っている。

G.H.ミード
・自我は、社会的活動において他者との関わりから生まれてくる。自我は他者の期待を自らのうちに取り込む。これを「役割取得」という。
・役割取得には2段階ある。「Play」と「Game」。

難しいですね…でも、二人に共通しているのは「自分を認識・イメージするには他者が必要」ということです。そして今回の記事では二人目のG.H.ミードさんの「役割取得」に焦点を当てていきます。

役割取得とは何か

人間の自我は他者の期待によって形成されるとG.H.ミードさんは仰っています。他人の期待を内に取り込み、それによって自我を形成することを「役割取得」といいますが、これには2段階あるそうです。
まず、幼児期においては自分の身近な存在(親、兄弟、友達、自分の好きなキャラ…)の期待と自我を関連させることによってそれが形成されます。ここでの身近な存在を「意味ある他者」といい、この「意味ある他者」からの期待と関連付けて自我を形成する段階を「Play」といいます。Playの段階では、親や兄弟の自分に対する期待や態度を通して自分の在り方を理解しようとするのです。
幼児期から少年期にさしかかるにつれて自分と関わる人間も増えていきます。そこで多様な価値観や期待を知ることになりますが、必ずしもそれらに一貫性があるかというとそうではなく、時として矛盾している場合もあります。そういった多種多様な期待を自分で調整し、まとめあげ一般化しようとします。ミードさんはこれを「一般化された他者」の期待と呼びました。自分の身近な存在の期待のみならず、さまざまな他者の期待を一般化して、それに応じた行動を取ろうとするこの段階を「Game」といいます。

役割取得にはこういった感じで2段階あるのですが、何もこの自我形成モデルは子供のみならず成人でも同じです。成人の場合の「一般化された他者」とはコミュニティ(地域、会社、国民国家、国際秩序)を指します。例えば発展途上国に寄付するという行為は、一般化された他者(コミュニティ)の期待を自らのうちに取り込み自我の形成を行っていることになるそうです。

ここまで自我の形成モデルや「わたしとは」について触れていきましたが、こう聞くと「わたしというのは他者の反映物に過ぎないのか?」という疑問が出てきそうです。確かにわたしは他者がいてはじめてそれを認識でき、さらに行動という面から見ても他者の期待というものを軸に行われている。しかし、結論そうではない。我々は他者の操り人形ではない。と、ミードさんは主張されています。そこで、自我というものの二つの側面をもってこのことを説明されています。

自我の側面「I」と「Me」

自我には二つの側面があります。それが「I(主我)」と「Me(客我)」です。「Me」とは、他者の期待をそのまま受け入れることによって形成される社会性であり、自我の一つの側面です。「I」とは「Me」に対する反応であり、その人の主体性や積極性・創造性や独自性のことで、言うなれば「個性」です。自我はこの二つの関わりで成り立っているというわけです。ので、自分という存在は単なる社会の鏡ではなく、そこに自分色を加えた価値ある存在ということが言えます。
またミードさんは、「自我の積極性を表すIは人間の経験のうちで最も魅力的な部分である。人間の個性や独自性、何か新しいものが生み出されるのは、人間の自我がこのIの側面を持っているからであり、ここに人間の重要な価値が置かれる。それは、人間を他の動物と区別させるものである。」と仰っています。

客我で主我を殺すな、I を大切に。

ここまでのことを学校の社会学の授業で学びました。そこから、現代を生きる我々はこのことから何を学び何をするべきなのか、自分なりに考えたことがあるのでお話させていただきます。
結論、「客我を削る」ということです。
前回と前々回の記事では「社会性を削りたい」といううんこみたいな記事を連発させていただいたのですが、今回も似たような主張でして、というのもまずおさらいですが客我とは言うなれば社会性でしたよね。身近なひとや自分が属する集団、はたまた自分が形成した一般的な「期待」、これをウェルカムに取り入れたものが客我で、そういったものに応えるべく行動することが合理的な反省を通じて形成される「わたし」であると。一方で、そういったものを絶対視せず期待を踏まえた上で個性を重要視して行動することもまた人間の個性です。むしろ、この個性がなければ他の動物と同じになるとミードさんの主張から読み取れるわけですが、ならば我々現代人は人間を捨てている傾向にあるのではと感じています。周りの期待に応えることを重要視し過ぎているような気がして、みんな自分のやりたいことを我慢しているような感じがします。その中で、夢に向かって頑張っている人に対しては「いや俺は我慢しているんだからお前も我慢しろよ」と言わんばかりに挑戦を邪魔したり集団で嘲笑ったり…

客我で主我を殺し、主我を持つ人間を殺し、みんなでただの動物になっていこうとしている感が僕にはしてならないのですがみなさんはどうでしょうか。

僕もミードさんと同じく、主我こそ人間の最大の価値だと思っています。属する集団や自分より大きな共同体に忠実であることはもちろん重要ですが、それ以上に自分のやりたいことをやることの方がはるかに重要だと思っています。他の国は知りませんが、こと日本ではとにかく「他人に迷惑をかけるな」精神で育っていますから、社会性だけがどんどん育まれていき、自我の二つの側面のうち客我の比率がどんどん大きくなり、結果個性を押し殺してしまうみたいなことが多発しているような気がします。

やっぱりもう少し社会性を削って、一方で寛容になるよう努力すると、もう少しみんないきやすい世の中ができるし、人類も前進しやすいようになるのかなあと思いました。
落合さんの言葉を借りると、
「俺らは極論生きているだけで迷惑なんだから、せめて他人の迷惑ぐらい寛容になろうよ。」

・落合陽一さんのTwitter


今日はこれで以上となります。ありがとうございました。

※参考文献
「現代の社会学:グローバル化の中で」
https://www.amazon.co.jp/%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E3%81%AE%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E5%AD%A6%E2%80%95%E3%82%B0%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%AB%E5%8C%96%E3%81%AE%E3%81%AA%E3%81%8B%E3%81%A7-%E4%B8%B8%E5%B1%B1-%E5%93%B2%E5%A4%AE/dp/4623062198

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