「トイレ一緒に行こうよ」

学生時代
「ねぇ、トイレ一緒に行こうよ」
と、誰かが誰かを誘う様子を不思議だと思っていた。
自分と他人の排泄のタイミングはいつも同じではないのに何故誘うのだろう?
聞くところによると着いて行く側は必ずしも排泄する訳ではないらしい。
では何故誘いに応じるのだろう?
連れ立って行くことによって、他人の排泄音を聞く、他人に聞かせることになるのではないか?
何もかも不思議だったが特に最後の疑問は不思議な上に嫌だった。
音消し装置などない、田舎の汚い古い臭いトイレ。
そこに誘う・それに応じる同級生を、私は奇妙で趣味の悪い奴らだと見なし、交流は最小限に留めることにした。

ある時私は『奇妙で趣味の悪い奴ら』の一人に
「ねぇ、トイレ一緒に行こうよ」
と誘われた。けれど私は
「やだ。私は行きたくない。行きたくないから行かない」
とまっすぐ相手の目を見て断った。
私は自分の信念を真正面からぶつけたがる高校生だった。
少し粘られたが、私の主張がぶれなかったので、最終的には諦めて、違う相手とトイレに行っていた。

「アンタ、本当にバカよね」
と、その話を聞いた母は、私を鼻で私を笑った。
前述の通り私は自分の信念を真正面からぶつけるタイプだったので
「行きたくもないのにトイレに行くなんて変じゃん」
と喧嘩腰で言い返した。母は動じず、見慣れた、人を小馬鹿にした微笑みを浮かべながら
「トイレに行くのはただの口実。そんなことも分からんの?
行って帰るまでの間に情報交換してるのよ。
行ってみたら楽しいかもしれないのに、ほんっとバカよ。
この先、友達おらん人生やね」
と言った。

「そんなコソコソ情報交換しなきゃいけない人と友達になる必要ない」
と私は強気に言い返した。
私は実際、決して人をトイレに誘わない子達と共に高校生活を送った。
楽しく有意義な日々だった。
もし高校時代に戻れるなら、私はまた同じ友人を持つだろう。

高校を卒業した後、進学先や就職先で「トイレに行こう」と誘う者は誰もいなかった。
でも私は、色んな人の色んな誘いに応じた。
田舎の学校とは違う、広い都会では、好きな人とだけ、好きな場所にだけ、という訳にはいかないからだ。
そして、この浅く広い世界の人達に、いつもいつも真正面から信念をぶつけることもできなかった。
新しいクラスメイト、上司、煌びやかなライブハウス、こぢんまりしたスナック…。
行きたくて行った場所も、そうでない場所もあった。
行って、不快な思いをすることも少なくなかった。
だけど、思いがけず楽しんでいる自分を見つけるおとも多かった。
楽しくない時は楽しくないという発見を次の誘いに活かすことで、だんだんと楽しくない誘いを予想できるようになった。
楽しかった集まりで、思い切って信念を打ち明けてみたり、気が合わないと思っていた人の思わぬ一面を知ったりした。
 
ふと、トイレに一人で行く私を哀れんだ母の言葉を思い出した。
もし高校時代に戻って「トイレ一緒に行こうよ」の誘いは断らなかったら、今どうなっていただろうか?
「やっぱりあの子達、奇妙で趣味の悪い奴らだった」
と思っただろうか、それともその場面を糸口に友人が一人増えていただろうか。

人と行く学校のトイレは、本当はどんな場所だったのだろう。

どんなに考えても、遠い過去へと流れてしまった今はもう、分からない。
私と母、どちらの憶測が正しかったのか、どちらも外れなのか
その正解は、あの日、あの時のトイレにだけあるのだ。

高校時代に戻ることは叶わないけど、この先は、あの頃できなかったことを
関わったことの無い人のことを頭ごなしに『奇妙で趣味の悪い奴ら』などと決めつけないことを意識して生きていこうと思う。

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