君がいるから春が来る-ついったお題SS-
※頭とラストが指定のアレ
※いつもより長くなったよ
人は本当に悲しいとき、涙が出ないのだと知った。そして、その時に堰き止められた涙は、嬉しさで溢れることもあると実感した。
居酒屋の個室。気心を知り尽くした昔なじみとの久しぶりの酒の席だ。食事も悪くなく、話も弾む。そうなれば、酒が進むのも道理であった。
結果として、ひどく酒が回ってしまった。そうなるとどうなるか? 普段言えなかったことが口をついて出てくると言うものだ。
「これは僕にとって一生付きまとうことになるであろう後悔の話だ。強いて主題をつけるとしたら、そうだなあ。「もう二度と訪れない春」とでもしておこうか。懺悔とも言うべき語りを聞かせるのは忍びないが、どうにも僕の心の中で重石となってしまっているようだ」
彼女が杯を置いた。なんとなく、個室の空気感が変わる。僕は手に持ったジョッキの水面を眺めながら、それでも止めどなく言葉が溢れる。
「これを抱えたままでは、君に並び立つことも、前に進むこともできそうにない。酒と君とが揃った今この時に免じて、少し荷を解かせてはくれないだろうか? あぁ、同情して、慰めて欲しいとかそんなことは無論求めない。ただ、この阿呆な男の戯言を、どうか聞き流して欲しい。その後どうするかは、君が決めてくれ」
一昨年の冬、丁度今頃の話だ。
あの頃の僕のことは何となしにでも覚えているかい? あぁ、君は本当に僕のことをよく見てくれている。有難いことだな。そう、そんな君を差し置いてあの子に岡惚れしていたあの時期だ。彼女があの時の僕にとっていかに素晴らしい女性だったかは、恐らく君に一番惚気けていたはずだからこの場では割愛しよう。いや、当時の発言が恥ずかしいわけではないさ。あれはあれで、僕の真意だったのだから。
僕の記憶が正しければ、君には、君にだけは、「彼女と別れた」とは言わなかったはずだね? でも少なくとも五月には僕らはこうして顔を合わせていた筈だ。君は何も聞かなかったけど、誰かから聞いたのかい?あぁ、僕の会話の中に彼女の影を感じなくなって察したと。それでも傷を抉らずにいてくれるところが本当に好ましい。顔色? そんなに青い顔をして君に会ったというのか。それは面目ない。当時の僕がいかに余裕がなかったかが分かるね。そして、君に本当に助けられていることも。
さて、君にしか伝えられない事実を話そうか。
彼女は、もうこの世にいない。冬が終わるか終わらないかくらいの頃に死んでしまった。僕が、殺したようなものだ。
驚かせて済まない。ただ、僕自身は法律には触れていないから安心して欲しい。
彼女とは仲睦まじく過ごしていたさ。それは君も知っての通りだ。だがどうにも少しずつ反りが合わなくなってきてね。あぁ、彼女と僕とで距離感の認識の齟齬が出てきた。要するに初めは楽しく過ごしていた二人きりの時間や可愛く見えていた彼女のスキンシップが、長い時間を過ごすうちに僕にとっては少しずつ苦痛になってきていたんだ。聖夜にかつてないほどの大喧嘩をしてしまってね。そこから僕らの仲は磨り減っていって、やり取りも喧嘩腰のものが多くなった。あぁ、覚えがあるかい? そう、初めのうちはそうでも無かったのだけれど段々君に連絡をとるにも難しくてね。あそこまで愛情が重い上に嫉妬深いとは思っていなかった。
故人の陰口は止すとして、それでも僕らの関係性が切れなかったのは、ひとえに彼女が諦めていなかったからだ。そして僕が切り捨てきれなかったことも大きいだろう。散々言い合いをした後に毎度「ごめんなさい、全て私が悪かった。お願いだから捨てないで、何でもするから一緒にいて」と言われてしまえばかなりばつが悪くなるし、それでも尚彼女を切り捨てられる程の強さが僕には無かったんだ。
まあ、その結果として、彼女がこの世を去ることになってしまったんだけどね。
忘れもしないよ。バレンタインデーだ。いつも通り呼び出されたから彼女が住むマンションを訪ねて、甘い匂いの残る部屋で数時間過ごしたんだ。チョコレートは早々に渡されたよ。ただ、僕はその場で開けなかった。鞄に入れることもしなかったんだ。貰った包みをテーブルに置いて、そのまま彼女と少しの時間を過ごした。食べなかったのは気分じゃなかったとしか言えない。だってそもそも部屋がチョコレートの匂いで充満しているんだ。それに君なら知ってるだろう? 僕は、そう。甘いものが苦手なんだ。なので包みを渡された時点で滅入ってしまってね。その場で食べるという選択をしなかったんだ。鞄に入れなかったのは単なる不注意さ。結局僕らはその日またつまらない喧嘩をして、傍らの鞄を引っ掴んで彼女の部屋を出た。チョコレートはテーブルに置かれたままさ。
翌朝になって、彼女が死んだと警察から連絡が来た。
自室のベランダから飛び降りたらしい。
最後に彼女と接触したのが僕であること、長袖で隠れていた彼女の前腕や大腿に無数の切傷があり、自傷によるものだと推測されること。マンションの監視カメラの時間と死亡推定時刻から僕が突き落としたとは言えないが何か知っていることはないか、と言う内容だった。
何より、彼女の亡骸が握っていたのは、僕があの部屋に置き忘れたチョコレートだったと言う。
君が殺したんじゃないかと、言われたような気すらした。疚しいことなどひとつもないのに、心音の喧しさと冷や汗が止まらなかった。
無論僕は任意の事情聴取でありのままを話し、お咎めなしということでここにいる。若い警官からは災難だったなとすら言われた。その言葉は間違いなく同情だったが、あの時の僕にはひとつも響かなかった。
葬儀なんかには呼ばれなかった。当然だ。僕が殺したようなものなのだから。
君とある程度以前のように話せるようになったのは、葉桜になるまでの期間を精神回復に努めていたからに過ぎない。初めは罪の意識に苛まれていた。雪が溶けても消えず、桜の開花すら僕の心を癒さなかった。独りだった。そんな頃だったね。久しく話していなかった君が安否を尋ねてくれたのは。君は正しく、僕の心に射した光明だったんだ。ただ、僕の整理がつかず、そこから更にひと月を要してやっと外に出られたのだから僕という男の小ささに嫌気がさすよ。まして、君ともこうして楽しく過ごしていたというのに僕は僕自身の罪を君に隠すことに耐えられず、こうして水を差すような一人語りをしている。どうか酔っ払いの戯言だと思って許して欲しい。ただ、この話をして尚変わらず僕といて欲しいなんて傲慢なお願いはできないから、それはもう君次第だよ。君はこんな僕にずっと親しくしてくれていた。本当に感謝している。だけど、僕には君と並び立つ資格はないと思っているんだ。だから……。
それ以上は、言葉が続かなかった。
あの子を亡くした時には空っぽで涙も湧かないと思っていた。あれから凍りついていた心は、彼女と過ごしていくうちに緩やかに溶けていったように思っていた。なのに、涙腺だけは溶けていないらしい。彼女が僕から離れてしまう可能性を考えるだけで苦しさで満たされる上、その決断をまた相手に委ねてしまう僕の不甲斐なさに心が引きちぎれそうだ。空虚だった僕の中身がはちきれそうで。それにも関わず涙は出ない。本当に悲しい時は涙が出ないものなのか。あるいは、泣く資格などないと感じている別の僕が堰き止めているのか。
あまりにも長く、重い沈黙だった。
「あたしも舐められたもんだなあ」
沈黙を取り払った声は、天啓と言うにはあまりに低く、物騒だった。
「あんたは何もしていない。良くも悪くも。昔も、今も」
図星だった。ここまでの僕の長話の要約として簡潔過ぎるほどに端的だった。
「考え込む癖があって、愚直で、回りくどくて、言葉を尽くして伝えようとして、自分では何もしなくて、人を傷つけるのを何より怖がって」
ぽつぽつと言葉達が降ってくる。それらに叱責の色はない。むしろ、僕のことを、僕よりも知っている、僕との時間で、僕を見てくれた、証であり、慈しみのような。
「そんな優しいあんたが、あたしは好きなのに。1人で勝手に考え込んで、こっちに決定権は委ねるくせに、あんたの中で答えは決まってるんでしょう? 勝手にまた1人になろうとするんじゃないよ」
沈黙と思考の重さで項垂れていたが流石に顔を上げざるを得なかった。目の前の彼女は、酔いを感じさせない、強い意志を持った目でこちらを見ていた。今度はその視線に射止められて動けない。
「あたし、あんたから離れる気ないんだよね。離す気もないから、そのつもりで、ね?」
そうして杯を煽って片目を瞑った彼女に、今度こそ僕の心は完全に溶かされた。同時に涙腺も溶けたようで、二年分と言っても過言ではない程の涙が溢れて止まらなかった。
あれから。
彼女との関係は続き、進み、住まいと姓を同じくしてから三年になる。結婚記念日は、あの居酒屋での独白の日。彼女と共に在ることを選んだことを思い出す度に、僕の罪の記憶と、彼女の言葉と思いに涙した、そんな思い出が、今でも心臓を刺すのだ。