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影に溶かされた憂い

朝起きるのは遅かった気がする。無邪気なスリルを**充実**と呼べたのは,そこまで遠くない記憶なんだろうと思う。それらを辛いスパイスと思え,甘い日々が別れを告げた感覚を数年感じている。漠然とした秘密となんらかが行き交う街にあって,そこまで何を願うのか,あまりにも複雑すぎて捉えきれていない。

というわけで朝起きるのは遅かった。というのも深夜まで呆けていて,順当に眠りについていただけな気もする。ボケーっと天井を眺めて,幾何学模様を描写する行動をとっていた記憶がうっすらとある。なんら後悔でも,失望でも,期待でもない,曖昧な気分がそうさせてくれた。ありがたい。時にはそういう時間が必要なのだ。それが深夜,というより朝型に来ないと願うばかりだ。

というわけで7時ぐらいに起きた。一度外に出て,寒い寒いと思いながら,ブラリと散歩した。シャキッとした明確な何かを得られるわけもなく,曖昧なまま帰宅した。

その後は窓を全開にして,掃除をしたり,ヨガをしたりして,時間を潰した。少し遠くの小学校から鐘の音が響く。少し小説を読み,少しビジネス書を読み,少し仕事をした。

平凡で孤独な。んまぁ,こんな1日が続けば良いと思える日だった。


このところ思うことがある。それはつまり,私は何を思っているんだろうということで,私が私を理解しきれていない感覚だ。何が好きで,何が嫌いか,何に興味があって,何に興味がないのか。変な感覚だと思っていたが,案外,周囲の人らもそう思うらしく,特別不思議ではないと考えられる。
つまり,自分のことは自分では捉えきれないという影になんだか溶けていく感覚がある。

大抵の場合,自己評価は非常に高いか,非常に低いことが多い。極めて相対的な観念である幸福に関しては,さまざまな視座から検討されるべきではあるが,主観的なため,高いレヴェルで経路に依存する。そのために,幸福かどうかは自身の背景や歴史にあったなんらかを遮断したり,受領したりして,案外動かせる変数であると仮定できる。つまり,時に自身が優位に立ったあの時を思い出し,その時と比較して,幸福に感じ,その逆も然りだ。

他方で,極めて絶対的な観念である経済力に関しては,そうはいかない。口座にある数字だけが絶対に正しく,その比較は余裕につながる。んーむ,それぞれがそれぞれを依存したり,補完したりするんだろうと思いつつも,なんだか釈然としない。

とどのつまり,私が何を思っているのかというのは,他者の経済力という観点での観られ方と,それを感知しうるかという幸福という捉え方の双方に依存している。どう思われているかを感知するかどうかに囚われすぎているのかもしれない。

他人の思いは捉えられないし,それに変化を加えることもできない。ただそれに左右され,一喜一憂してしまう自己もなんだか情けなくなる。いいじゃないか,考えすぎないで。そう彼女はいうが,「あなたのほうこそ,考えすぎていないかい」と一言添える。

「そうだね,ひとまず,手を貸して」

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