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幸先を魅にいこう

この文章はある種の恋文でもあるし、激励の言葉でも、激白や暴露でも、ときには罵倒や提案でもある。ただその根底には熱情、強い関心があり、変え難いなんらかの、小さなきっかけのような、記憶のカケラによって陽動されている。
加えて、うっすらと遠い記憶が手の中にあり、コンセプチュアルな枠内に向けて語っている。
簡単にいえば、小学生がバレンタインに出すレターのようなもので、曖昧でそれで良しとされるものだ。

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仕組まれた偶然に、神の悪戯に、ただ交差する情の狭間で踊っていたに過ぎないのかもしれないのです。ここ数年をそう振り返っています。
それでも「どうせ、100年後には死んじゃっているんだから、踊ろう」と囁くのは知っていて、それで良いか、と妥協する私が、平面鏡として幾重にも存在していることも知っています。

ただ、誰もがそう有りたいと思うのかもしれません。心臓が同化して、思いや考えや、突出したアイディアも次第に手に残るようになっていきました。それでも、それが良いと、世間はそう思うかもしれません。
つまり、どこが上で、どこが下なのか、誰かに判断させるしか術がない、この結局のところ私には私を管理する術がないという感覚に侵されていました。それを診て「過去の自分によってコントロールするの」と、眼光鋭く、雨に反射する光のなかで声を上げ、伝えられたのを今でも憶えています。

狂ったもん勝ちなのかもと強く思うようになりました。揮発性の高い空間で何かが変幻して、恋沙汰に堕ちていきました。そんな経験が累積するなかで、時間はアポートシスされ、身体が曖昧になっていく、そんなことが目まぐるしく思い出されます。

白く溶けだした夜半、redoされたそれぞれを、白によって黒が生産され、曖昧にもグレーになっていく感覚をいくつも超えていきました。それによって、それでも「生きていってみようか」と、1秒後が溶暗でも、そう云える強さを装備できた気がします。

測られる情や物の重さに大きな意図は存在しないように思っています。瞳の隠された光と、言動の背景に存在する曖昧な思いにこそ、なんらかの意図は存在するんだと思います。
狂ったのは世界なのかと思っていたら、いつのまにか自分らだったんだと気づくようになり、そうだったのかを笑いあいました。良くも悪くも、我々は上下左右反対に、平面鏡の狭間にいたんだと確信しています。

昔と違うのは、過去の自分がなんだか応援してくれている気がすることと、それでもいいかーとレジリエントに考える自己の成長がそこにあることです。

まだまだ言えますね、幸先を身に行こう

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